- 作者: 伊集院静
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/02/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 作者: 伊集院静
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/03/03
- メディア: Kindle版
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内容紹介
私は二十代と三十代に別離を経験した。一人は弟であり、もう一人は前妻であった。なぜ彼、彼女がこんな目にと思った。その動揺は、なぜ自分だけが?という感情になった。ところがそういうものと向き合っていると、やがて別離を経験した人にしか見えないものが見えて来る。それは彼等が生きていた時間への慈しみであり、生き抜くしかないという自分への叱咤かもしれない。
伊集院静さんの『大人の流儀』シリーズを読んでいると、会社人間、仕事人間だった僕の父親世代(伊集院さんはいま65歳だそうですからどちらかといえばこちらに属する人でしょう)と、「ワークライフバランスが大事」「まずは自分の人生を楽しまなくては」という「平成生まれ世代」のちょうど真ん中にいる人間としては、「これが時代の流れってやつなんだろうけれど、僕自身は、なんだか宙ぶらりんな感じだな」と思うんですよね。
ただ、このエッセイや、伊集院さんが「むかい風に向かって歩くんだ。」と新成人に(サントリーの広告で)呼びかけているのを読むと、僕自身は、ネットであまりに若い人たちの考えに親しみすぎているのかもしれないな、という気がしてくるのです。
正直、「仕事をやらなくて済む」のではなくて、ひとりの人間が「仕事も家庭も趣味も(人によっては育児も)バランスよくこなす」ことが求められている若い世代のほうがキツいのかもしれないな、と思うところはあるんですけどね。
伊集院さんのエッセイを読んでいると、人というのは、それぞれいろんな事情や悲しみを抱えながら、それを他人に見せずに生きているものなのだ、と思い知らされるのです。
ふしあわせのかたち、情景は同じものがひとつとしてないと書いたが、例えば、私は花火を見るのが苦手である。
それは、前妻と、最後に見たものが、花火だったからである。
彼女を抱きかかえて病室の窓辺に行き、二人してしばらく花火を眺めた。
「ありがとう、もういいわ」
と彼女は言い、私はベッドに移した。
彼女が目を閉じたので、病室の電気を暗くした。それでも病院のすぐ近くで花火が打ち上げられていたので、その爆音と、夜空を焦がす光彩は、容赦なしに病室に飛び込んでいた。彼女の耳にそれが届いていないはずはなかった。
——あんなに花火が好きだったのに……。
私は外カーテンを閉じ、ベッドサイドの椅子に座った。沈黙した部屋に花火の音だけが聞こえていた。
——早く終わってくれないか。
その時、私の脳裡に花火を見上げて、嬉しそうに笑っている若い男女の姿など想像もできなかった。
圧倒的な数の花火の見物客。彼等にとってその夏は忘れ得ぬしあわせのメモリーかもしれなかったろう。
しかしそのすぐそばで、沈黙している男女が存在するのを知る人はいない。それが世の中というものである。
もちろん、前妻の夏目雅子さんが亡くなられたのは、花火のせいではありません。そんなことは伊集院さんも百も承知でしょう。
でも、こういうふうに結びついてしまうと、そういうネガティブなイメージを「なかったこと」にするのは難しいのです。
この本のなかに、現在の奥様についての、こんな話が出てきます。
再婚するとき、「前の奥さんについての取材を受けないこと」を条件にしていた妻の気持ちを傷つけるようなこともしたくない。
前妻についての取材は、妻の許可をもらってから受けるようになりましたが、だからといって妻が前妻のことをまったく気にしなくなったのかどうかは分かりません。
自宅のテレビを見ていると、急に「夏目雅子特集」なんて始まったりすることがある。そんなときには努めてテレビから離れたり、競輪のビデオにチャンネルを切り替えたりしています。
それは競輪が見たいからでは……などという不粋なツッコミは抜きにして、もう亡くなった人であっても、やっぱり、「気になる」というのはあるんですよね。そういう感情が正しいとか正しくないとかいうのは関係なく。
伊集院さんは、だからといって、「花火大会を全部中止にしてくれ」と主張しているわけではありませんし、「夏目雅子特集」を責めているのでもありません。
ただ、そんなふうに「人間、生きていれば、理不尽な『逆鱗』みたいな物が誰にでもあるものだ」ということを想像できる、そこで他者の悲しみを思いやることができるのが「大人」だということなのかな、と僕は思うのです。
いや、思っているだけで「他人を責めたくなる衝動」に突き動かされてしまうことは、今でも少なからずあるのですけど。
むしろ、年を取ってきてからのほうが、そういう「キレやすい傾向」みたいなのが強くなってきているようにも感じています。
「大人」の年齢になるほど、「大人らしく」振る舞うことは、難しくなっていく。
大橋巨泉さんが『週刊現代』に連載されていたコラム「今週の遺言」の最終回を読んで、伊集院さんはこう仰っています。
文章は才能で書くものではない。
文章は腕力で書くものである。腕力とは文字そのまま腕の力である。つまり体力が文章を書かせるのである。
体力の素は、気持ち、気力である。
気力が続く限り、その人の仕事は文章家であり、文人なのだ。
これは大工も、鮨職人も同じである。
鮨は口に入れると、新鮮な種を食べているように思うが、実は職人の気力を口に入れているのである。
だから私は、そういうものを子供に食べさせるべきではないと常々言っているのだ。
子供には、母親がこしらえた鮨もどきか、スーパーの安売りの鮨で十分なのである。
人には年相応のものを接しなくてはならない社会の規範がある。
電車のグリーン車に、ディズニーランド帰りの子供を連れて乗って来る若い母親は、やはり愚かなのである。
グリーン車は普段、社会のために懸命に働いている人たちがしばし休むためにあり、きちんとした仕事をして来て、今は高齢になり、ゆっくりと乗るものなのである。
もしかしたら、僕の親世代が読んで「溜飲を下げる」ためのエッセイ集なのかもしれませんが、伊集院さんのエッセイを読むと、大人であることの責任について、考えさせれるのです。
自分は、鮨をカウンターで食べたり、グリーン車に乗ったりするのにふさわしい「大人」なのだろうか?
平成生まれの人たちも、一度くらいは伊集院さんのエッセイを読んでみることをおすすめします。
親や会社の偉い人たちは、こういうものを読んでいるのか、って、知っておくのも悪いことじゃないですよ。
「生身の痛み」みたいなものが伝わってくるエッセイですし。
不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life
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