琥珀色の戯言

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人質の朗読会 ☆☆☆☆


人質の朗読会

人質の朗読会

内容(「YOMIURI ONLINE」での川上未映子さんの書評より)
地球の裏側のある異国の村で、日本人観光客ら八人が乗ったバスが反政府ゲリラに襲撃され、そのまま拉致されてしまう。

 数ヶ月間の膠着(こうちゃく)状態が続いた事件は、人々の関心も薄れ始めたころ、犯人がしかけたダイナマイトの爆発によって人質全員が死亡してしまうことで幕を閉じるが、二年後、紆余(うよ)曲折を経たのちに思わぬ形で人々に注目されることになる。現地の特殊部隊によって小屋にしかけられていた盗聴器に、声が残されていたのだ。

 それは朗読だった。遠く隔絶された廃屋でひっそりと身を寄せ合い、彼らはそれぞれに思い出をひとつ――紙がなくなれば壁や木片などに書き記し、それを朗読しあっていた。それは人生を大きく捉え直すようなものでも遺言めいたものでもなく、一見すれば何かの折りにふと撮られた一枚の写真のような日常の一場面だ。しかし見つめればそこにしかない一回きりの輪郭と肌触りとが浮かびあがってくる。

 僕はこの物語の設定に、ちょっと違和感があったのです。
 なぜ、作者の小川洋子さんは、人質たちが亡くなってしまうことを、この作品の冒頭で明示したのだろう?
 この8人が生き延びられるのかどうか?を読者には知らせないまま「朗読会」をすすめていったほうが、読者にとってはひとつ「興味」が増えたのではないだろうか?


 でも、それがまた、小川洋子さんらしい「舞台設定」でもあるのです。
 小川さんは、『アンネの日記』がこれまでの人生に大きなインパクトを与えてきたことをよく話しておられます。
 『アンネの日記』もまた、「自分が死んでしまうことを知らないで、極限状態を生きている人間の言葉」です。
 この『人質の朗読会』で、人質たちがお互いに語り合う「自分の日常に起こったエピソード」には、本当にあってもおかしくない話もあれば、「ありえない体験」もあります。
 にもかかわらず、彼らの物語は、みんな魅力的で、力強い。そして、少しせつない。

(『第二夜 やまびこビスケット』より)


「どうせあんた、ふん、こんなことくらいで、と思ってるんだろう?」
 大家さんは曲がった腰に両手をあてがい、私の顔を覗き込み、抜けた前歯の隙間からヤニ臭い息を吐き出した。
「それが大きな間違いなんだ。”整理整頓は自己防衛の最良の武器である”名言だと思わないかい? 私が考えたんだ。毎日仕事から疲れて帰ってくる。玄関で靴を脱いで、右左どっちかの足から中に入って、数十センチの歩幅で歩いて、鍵を開けて……。習慣になったこの一連の動作、人間は本能的に同じ手順、同じ速度、同じ歩幅を守っている。なぜか? それが一番安全だからだ。昨日も一昨日も一ヶ月前も、同じようにやって安全だった。敵に襲われたり穴に落ちたりしなかった。だから繰り返す。なのに昨日までの通り道に余計な荷物が置いてあったらどうなる? 保証された繰り返しを実行できないじゃないか。だから私は口を酸っぱくして言ってるんだ。あんたたちが憎いからじゃない。店子たちの安全を願ってのことだ」

 彼らは「死んで、物語を遺した」のです。
 あるいは、「物語は、永遠に生き続ける」のかもしれません。


 僕たちは、死んでしまった人たちが「どんなふうに死んだのか?」ばかりに興味を持ち、ワイドショーで語られるような「死者たちのスキャンダラスなエピソード」にばかり目を向けてしまいがちです。
 本当は彼らにも幸せな時間があって、「耳を傾けるべき話」をたくさん残しているはずなのに。

(『第九夜 ハキリアリ』より)


「葉っぱの切れ端を持って行進するハキリアリの群れを、君も見たことがあるだろう?」
 先生が私の方に真っ直ぐ顔を向けて言った。
「うん」
 メガネの奥にある黒い瞳を見つめ、私は大きくうなずいた。
「頭と顎を使って、自分の体より大きい葉っぱを高く掲げる。まるで天に供える捧げ物を運ぶ勇者のようじゃないか。標識も地図もないのに、何千何万というアリたちが、迷うことなく巣を目指して歩いてゆく。ジャングルの地面に、一筋連なる彼らの行列を目にするたび、いつもはっと息を飲むよ。赤茶けた土の上を小さな緑がチラチラ、チラチラと流れてゆくんだ。一つ一つの切れ端は皆形が違うのに、見事に統制が取れて、切れ目のない一続きになっている。ジャングルを静かに流れる、緑の小川だ」
 私にとってハキリアリはただのハキリアリでしかなかった。しかし先生の言葉を聞いたあとでは、それは勇者であり賢者であった。

 米原万里さんのエッセイに、シベリアに流刑になった「反逆者」たちの話があります。
 詳細は忘れてしまったのですが、つらい流刑生活のなかで、彼らの最大の娯楽は、「捕虜たち自らの手によるお芝居を楽しむ会」だったそうです。
 人は「自ら語ること、演じること」によって救われる生き物でもあるのです。

 
 「お盆」というのは、まさに「死者の声に、耳を傾ける日」なんですよね。
 8月15日は「終戦記念日」でもあり、戦争という大きな物語のなかに、「ひとりひとりの声」は埋もれてしまいがちだけれど、「10万人の死者」も、みんな「それぞれの物語」を持っている、「ひとりの人間の集まり」です。


 人というのがみんな死んでしまう生き物である以上、僕たちもまた、日々「人質の朗読会」を続けているのかもしれません。
 そして、「語り継がれるべき物語」は、たぶん、「大きな物語」だけではないのです。

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