琥珀色の戯言

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【読書感想】第163回芥川賞選評(抄録)

文藝春秋2020年9月号

文藝春秋2020年9月号

  • 発売日: 2020/08/07
  • メディア: 雑誌


Kindle版もあります。


「文藝春秋」の今月号(2020年9月号)には、受賞作となった、高山羽根子さんの『首里の馬』、遠野遥さんの『破局』の全文と芥川賞の選評が掲載されています。


恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

平野啓一郎
 私が推したのは『破局』だった。爽快な小説ではないが、他者への共感能力を欠き、肉体的な欲望(スポーツとセックス)以外は、完全に”自律的に排他的”とも言うべき主人公の造形は、一個の現代的な典型たり得ている。しかも、その内面化された行動規範は、近代的な規律訓練による権力とも異なり、常識や礼儀、父の言いつけ、……といった片々たる”正しさ”の蓄積である。
 描き方によっては、精神医学の症例報告的ともなろうが、文体には力があり、物語の進展とともに、いよいよ冴えてくる。主人公が例外的に”自律的に自律的”であったスポーツによって他者を滅ぼし、同時にセックスによって他者を滅ぼされてゆく展開は見事で、「かくれんぼ」の効果的な使用など、各部が緊密に結び合って全体を形作っている。新しい才能に目を瞠された作品だった。

吉田修一
首里の馬」
 候補に挙がってくるたび、作品は面白いのに、この作者が何を書きたいのか分からず首を捻っていました。今作ではその何かがくっきりとしたような気がします。高山さんはおそらく「孤独な場所」というものが一体どんな場所なのか、その正体を、手を替え品を替え、執拗に真剣に、暴こうとする作家なのだと思います。

松浦寿輝
 石原燃「赤い砂を蹴る」は平凡と言うほかない。プロット、人物設定、文章、何もかもが「平凡」の一語に尽きる。アル中の夫を抱えた苦労、癌になった母をみとった悲しみ……今さらこんなものを読まされて、という感じ。作者は劇作家だそうだが、会話がとりわけ平凡なのはいったいなぜなのか。人物たちは、橋田壽賀子平岩弓枝のテレビドラマを思わせる、もっともらしい、自然な流れを逸れない。適度に説明的な内容を盛り込むことが配慮された、要するに「平凡」そのものの言葉を交換し合う。こうした一連の「きわめて良質なる平凡」の対極をなすのが、今回の候補作の中では「首里の馬」である。
 ちなみに「参考文献」の一冊に北杜夫『輝ける碧き空の下で』が挙げられているが、小説を「参考」にして書かれた小説、とはいったい何か。少々奇妙なものではないか。

小川洋子
破局』に二重丸をつけて臨んだ。正しさからはみ出した奇妙や邪悪を描く小説は珍しくないが、『破局』は正しさへの執着が主人公を破綻させる点において、特異だった。彼は肉体を通して自己と関わる時にだけ、確信を味わえる。ところが肉体を離れた途端、意識のよりどころを失い、絶えず外部の視線を気にして自問を繰り返すようになる。〜だから、〜なんだ、というあまりにも単純な理屈にすがることで、どうにか自分を保っている。ラスト近く、一番の頼みであったはずの肉体に裏切られた時、一気に崩壊が訪れる。ハンバーガー一つ、選べなくなる。これまで積み上げてきたすべてを失っても尚、いつものやり方で取り繕おうともがく彼の姿が、哀れで愛おしかった。
 彼は嫌味な男だ。にもかかわらず、見捨てることができない。社会に対して彼が味わっている違和感に、いつの間にか共感している。もしかしたら、恐ろしいほどに普遍的な小説なのかもしれない。

島田雅彦
文学は死者をコトバによって蘇らせる呪術でもあるのだが、当事者意識を持ち得る者の手による呪術以外は死者を思い出の詰まったタイムカプセルに収めるだけに終わってしまうかもしれない。どのような態度を取っても、死者は反論しないし、復讐しない。だから、死者との対話も自ずとモノローグになってしまうのだが、実像に近づきたいとう切実さが鎮魂に結びつくことはある。ただ、鎮められるのは死者ではなく、死者を悼む者の魂でしかない、ということを石原、岡本作品を読んで思った。

山田詠美
『赤い砂を蹴る』。作者が太宰治の孫であるとか、津島佑子氏の娘さんであるとかの報道を知らずに読んだ時には、こう思った。もったいない、と。作者だけにしか経験できない記憶を沢山持っていそうなのに、全然、芯の部分にタッチ出来ていないような隔靴搔痒感。わざわざ、ブラジルを舞台にした甲斐がないよ、と。そして、作者の出自を知った後は、こう思ったのである。ますます、もったいなーい! もったいないのも高じると、もったいぶっている状態に近くなる。開き直って、向き合わなくてはならない喪の仕事を自分なりにディープにまっとうすべきだろう。幼い我が子を亡くしたのをテーマにしたあなたのお母さんの作品には、多くの読者が既に絶大なる敬意を払っているのだ。今度は、自身の番と覚悟を決めるべきだろう。

川上弘美
破局』は、表現しようとしていることと、言葉の間に、美しい相関関係があり、その相関関係は一つの完成した数式で表せる、そんなふうに感じました。その意味で、この小説も検算ができるのかと、二度三度読んでいったのですが、いつの間にか検算ができなくなっていた。興味深いです。

奥泉光
新型コロナ感染症拡大下の選考会は、座席のあいだにアクリル板を立てたり、リモート参加する委員があったりと、通常とはやや異なる語りで行われたが、議論はほぼいつもどおりに進行した。コロナ禍が世界を一変させてしまうかもしれないとの予感のなか、小説を書くこと、読むことも、いままでとは違う様相を呈して不思議ではないが、案外そうでもないのは、小説が演劇などと較べると「鈍い」ジャンルだからだろう。「いま」よりむしろ過去の世界にかたりかけ、過去の読者にむかって書く。そうした覚悟、あるいは開き直りに身を委ねる者だけが小説家たりえるのではないか。こうした固有の鈍重さが普遍性と結びつくことがなくなったとき、小説は「近代」とともに終わっていくのだろう。

堀江敏幸
遠野遥さんの「破局」は、ゴールまでの距離感がしっかりしている作品だった。終着点の不意打ちを活かす加速にも無理はない。徹底して自慰的な主人公の、自前のマナー厳守にはしばしば笑いを誘われる。


 今回は、新型コロナウイルス禍のなかでの選考会となりました。夕方のけっこう早い時間(17時くらいだったと思う)には、『首里の馬』『破局』の2作受賞が報じられていて、「ああ、今回は料亭みたいなところに選考委員が集まっての選考会ではなく、事前に投票が済まされていて、受賞作が決まっていたんだな」と思ったのです。
 でも、奥泉光さんの選評を読むと、リモート参加の選考委員もいたものの、人と人とのあいだにアクリル板を立てるなどの措置をとりつつ、普段と同じような選考会だったみたいです。
 「選評」を読んでいても、候補作の中で、受賞作2作を推す委員が圧倒的に多く(というか、その他の作品については、積極的に推していた人はほとんどいませんでした)、新型コロナの影響で時短選考会になったわけではなく、すぐに「当選確実」が出てしまった、ということだったのでしょう。

 受賞作を両方とも読んでみたのですが、他者からみると、どんな仕事をして、何を考えているかよくわからない、目立たない隠者のようにみえる『首里の馬』の主人公は、内面に深い自分の世界を持っているのです。
 その一方で、名門大学に通っていて、スポーツマンで勉強もでき、周囲からは「デキるやつ」と一目置かれているであろう『破局』の主人公は、他者の、あるいは「社会の価値観」に従って生きていて、「身体と性」以外の自分の精神的な世界をほとんど持っていない。 
 個人的には、『首里の馬』の未名子のほうに肩入れしてしまうのですが、正直なところ、もし2人が身近なところにいたとしたら、未名子に対しては「何をしているのかよくわからない、気持ち悪い人」と見なしてしまうのではないか、という気がするのです。
 それに対して、『破局』の主人公は、同性としては親しみは持てないけれど、なんかすごいヤツだな、と感じるのではなかろうか。
 『ファイナルファンタジー7』のクラウドみたいだな、とかちょっと思ったりもしました。
 『破局』は、読んでいて「気持ち悪い」小説だったのですが、「気持ち悪い人を、ここまで気持ち悪く書く」というのは、それはそれで凄いことなのかもしれません。
 まあでも、表出しないだけで、人というのは、案外「自分ルール」みたいなものを意識しながら、ダラダラといろんな考えを垂れ流しながら生きているのではなかろうか。少なくとも、僕自身にはそういうところがある。


 僕は『首里の馬』を読んで、「小川洋子さんが書きそうなテーマの話だな」って思っていたのです。ところが、選評を読むと、小川さんは『破局』のほうを高く評価されていました。
 作家というのは、自分に近い作風の小説に対しては「粗がわかる」ので、かえって厳しくなるものなのだろうか。
 その他の選考委員も、『首里の馬』のような作品を書きそうな人のほうが、『破局』を高く評価している印象があったのです。


 今回の受賞作2作は、芥川賞としては比較的読みやすく、わかりやすい作品なので(エンターテインメントとして「面白い」かは別として)、これまで「純文学」に興味が持てなかった人には、お薦めしやすい回ではないかと思います。


首里の馬

首里の馬

破局

破局

赤い砂を蹴る (文春e-book)

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