- 作者: いとうせいこう
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/03/02
- メディア: ハードカバー
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内容紹介
かつてない大反響を呼んだ、いとうせいこう、16年の沈黙を破る新作小説。
内容(「BOOK」データベースより)
耳を澄ませば、彼らの声が聞こえるはず。ヒロシマ、ナガサキ、トウキョウ、コウベ、トウホク…。生者と死者の新たな関係を描いた世界文学の誕生。
【話題騒然!】
●「想像すれば聞こえるはずだ」というストレートなメッセージに感動(沼野充義・東京新聞)
●悲観と楽観の間で引き裂かれたわれわれの時代の「気分」を鮮やかに捉えている(松浦寿輝・朝日新聞)
●圧巻。傑作。早くも今年のベスト3に入る作品に出会ってしまった(伊藤氏貴・読書人)
●読めば涙が止まらない。傷つき暴力衝動に駆られたこの社会に、必要な小説(星野智幸)
『文藝』に掲載された際にすごく話題になり、「次の芥川賞はこの作品に決まり!」なんて声も聞こえてきました。
それだったら、半年後には『文藝春秋』に全文掲載されるよな、単行本を1400円出して買うのもねえ、200ページくらいしかないからなあ……なんて思っていたのですが、書店でこの本を見つけたら、なんだかとても読みたくなってしまって購入。
……うん、泣いた。久々に小説読んで泣いた。
フィクションの小説を読んでこんなに涙を流したのは、小川洋子さんの『猫を抱いて象と泳ぐ』以来じゃないかな。
いや、「感動」させられた、っていうとウソになると思うんですよ。
正直、ありきたりだな、と感じたところもあるし、よくわかんないな、というところもあったから。
でも、最後のほうが、涙が止まらなかった。
こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中でだけオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に早朝の僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。
「想像力」で聴くラジオ。
そこには、受信機もヘッドフォンもないし、生も死も、そのあいだもない。
正直、青少年時代に、親に隠れて『オールナイトニッポン』とかのラジオの深夜番組をこっそり聴いた経験がある人じゃないと、この小説は刺さらないのかな、などとも思うんですよ。
僕が親しんできた、1970〜80年代の深夜放送って、たしかに「DJとリスナー、そして、リスナー同士が繋がっている感覚」があったから。
(それは、いまでも同じようなものなのかもしれないけれど、あまり最近のラジオを聴いていないので、よくわからないのです)
どこかで、「顔すらわからない仲間」が、自分の声を届けたがっている。
そして、それを聴いて「おまえだけじゃないよ」とラジオの前で頷いている人がいる。
この小説は、長い間小説家としては沈黙していた、いとうせいこうさんが(みうらじゅんさんと仏像めぐりやトークライブはずっとされていたわけですけど)、16年ぶりに書かれた作品です。
これを読みながら、この16年のあいだ、いとうさん自身がDJアークであり、またそれと同時に、さまざまな「想像ラジオ」の番組を聴き続けてきたのかな、なんてことを考えてしまいました。
東日本大震災は、あまりにも大きな被害とたくさんの悲劇を生みだしました。
「死者の声に耳を傾けるべきだ」という人がいる一方で、「それよりも、生きている人間は、よりよく生きる、あるいは未来のために、前を向いて進むべきだ」という人もいる。
どちらも間違っているとは思えない。
僕自身の気持ちも、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりです。
でも、この小説を読みながら考えていたのは、あの震災のあまりのインパクトに僕たちは打ちのめされているけれども、人が生きて、死んでいくというのは、ずっとずっと、それこそ、何千年、何万年も前から続いている、人間の「営み」なのだということです。
人の「死」というもの、とくに王侯貴族でもない「普通の人」の死に意味が見出されるようになったのは、それこそ、ごくごく最近の話なのかもしれないけれど。
東日本大震災の前には、阪神淡路の大震災があり、広島・長崎への原爆投下があり、東京での大空襲があった。
日本だけではなくて、ニューヨークで、ユーゴスラビアで、イラクで、アフリカで、たくさんの人たちが亡くなった。
そんな「大きな死のかたまり」だけではなくて、僕たちの日常にも「死」は溢れている。
僕はいま40歳を少し超えたくらいなんですけどね、ちょっと前までは冠婚葬祭といえば結婚式で「お祝い貧乏」になっていたのに、最近は結婚式に出ることはあまりなくなりました。
身近な人の訃報に触れるたびに、悲しみと同時に「ああ、まだ自分の番じゃなかったな」と、少しだけ安堵してしまうのです。
でも、いつかは、僕の順番がやってくる。確実に。
「あの人も死んでしまったね」と語られる側になるときが来る。
これを読んでいて、僕は自分が生きているのか死んでいるのか、ちょっとわからないような気がしてきたのです。
いや、そういう感覚こそが「生きている証」なのかもしれないけれど、やっぱりよくわからない。
それでも、「誰かが覚えていてくれる間は、その人は生きていることになるのかな」とも思いました。
ナチスのユダヤ人強制収容所での生活を記録した『夜と霧』に、こんな記述があります。
わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
著者がそれを知ったのは第二次世界大戦終了後ですが、このときにはもう、著者の妻は亡くなっていたのです。
でも、こうして(その死を知らずに)妻のことを思い出しているとき、妻はたしかに「生きていた」のだと思う。
いや、もし仮に死んでいたことを知っていたとしても、やっぱり、この瞬間は「生きていた」のではないだろうか。
「うん。わたし、知らない人のブログけっこう好きなんだよね。あのさ。クロアチアって内戦がひどかったでしょ。まずユーゴスラビアから独立するのに衝突があって。そのあと、セルビア人に対する激しい民族浄化があって。たくさんの人が亡くなった」
「そうだったね」
「そのザグレブの中心部にある政府の施設の庭に糸杉の木があって、今年の夏、その木の上に夜ごとたくさんの人の青い魂があらわれるって噂をそのブログの主は聞いたって言うの。小さな安酒場で。糸杉は死者の象徴だから、クロアチア人は自分たちが命を奪ったセルビア人の魂じゃないかと内心脅えていると思うって、その人は書いてるの。そして、何が一番彼らを不安にしているかって言うと、セルビア人の恨み言を自分たちは聴き取れないと彼らが感じているからで、理解できないものは恐ろしいし、それがじっと自分たちを見つめていることは耐えがたいはずだ、と」
「そんなに言葉が違うんだっけ? ユーゴスラビア時代は一緒に暮らしてたのに?」
「それが違わないんだって。ほとんど同じ。だからこそ興味深いってブログには書いてあって、わたしはなるほどなあと思ったのね」
「生きていること」に喜びとともに、ほんの少し後ろめたさを感じてしまうから(災害でもそう感じるのはおかしいのだけれど、おかしいからといって、打ち消せるようなものでもなくて)、かえって、「死者の声」「現場の声」に耳を傾けることに臆病になってしまう。でも、そうやって知ろうとせずに「わからなくなってしまう」からこそ、さらに「怖さ」や「不安」は増していく。
その断絶が、死者や現地の人々との「壁」をつくり、反発さえしてしまう。
これは、いま日本で起こっていること。
いやたぶん、人間が「死」を理解するようになってから、ずっとずっと続いてきたこと。
ただ、この小説に描かれているのは「絶望」だけではないのです。
DJアークの、リスナーや、家族とのやりとりを読んでいると、「それでも、人は生きている価値があるのかもしれない」という希望も感じるのです。
ちょうどこの本を読んだ日に、妻からこんな話を聞かされました。
もうほんと、○○(息子)は野菜食べないし、外食ばっかりしたがるんだから。
この間も、ごはんのときに「そんなに野菜を食べずに外でばっかり好きなもの食べていると、病気になって死んじゃうよ!」って言ったんだよね。
そしたらさ、「そしたら、パパもいつも外食で野菜食べてないから、病気になって死んじゃうの? パパが死んじゃイヤだ〜」
って、突然泣き出してしまって困ったよ。
妻からこの話を聞いたときには、「まあ、どうせすぐに『お前なんか最低の父親だ』とか言うようになるんだからな」って斜に構えてしまったんですよ。
でもね、この『想像ラジオ』のDJアークと息子のちょっとしたやりとりを読んだら、なんだか僕自身のこの話と「繋がって」しまって、涙が止まらなくなりました。
なんというか、人にはいろんな生き方、死に方があるけれども、人生で、ほんのわずかな瞬間でも、幸せだったり、誰かに愛される、必要とされることがあれば、それはけっして「悲しい人生」ではないのかな、って。
息子は、この言葉をすぐに忘れてしまうのでしょうし、ちょっとした「点数かせぎ」みたいなものだったのかもしれないけれど、僕はずっとこの話を忘れないと思います。
僕たちは、たぶんもっと構えずに、「死んでいった人たちの声」を聴いて良いんじゃないかな。
もちろん、無念さや悲しみの訴えもあるはずだけど、それ以外に、彼らには、もっともっと「伝えたいこと」があるはずなんだ。
文章はすごく読みやすいです。時間もそんなにかかりません。
どうか、読んでみてください。
想ー像ーラジオー。