日曜日の昼下がり、山下達郎さんのラジオ番組を聴いていたら、こんな投稿がありました(運転中に聞いたものを思い出しながら書いているので、ディテールは不正確です、たぶん)。
先日、あまり日頃交流がない近所のおじさんに、
「お宅の犬は、どうしたの? 最近姿を見ないけど」
そう訊かれたのです。
もう1年前に亡くなったことをお話ししたのですが、その翌日、犬小屋があったところに、小さな花束が置かれていました。
それを見て、愛犬マリンのことを思い出し、涙してしまいました。
やらせっぽくて、すみません。
僕はこれを聞きながら、飼い主も知らないところでの、この近所の人と「マリン」との交流の様子を思い浮かべていたのですが、聞いていて、「やらせっぽくて、すみません」という言葉が、妙に引っかかってしまったのです。
ちなみに、この投稿に対する達郎さんの反応は、
「僕の番組にも、いろんな手紙が来ますし、なかには『これ、本当?』っていうようなのもありますけど、気にしてませんから。こういう何気ない日常の話は好きですよ」
というようなものでした。
「気にしていない」というのが、(そういうものには、虚実が入り混じっているのがふつうだから)「気にしていない」のか、(自分の番組は「事実を証明するためのものじゃないから)「気にしていない」のか、わざわざ、そんなふうに「やらせっぽくて」なんて付け加えなくてもいいですよ、疑ってなんていないから、ということなのか?
ただ、あくまでも聴いていた僕の印象では、達郎さんは「リスナーはウソをつかないと信じている」という雰囲気ではなくて、「(報道を除く)DJとリスナーが投稿を通じてやりとりするラジオの世界では、個々の事例の虚実を突き詰めるよりも、大切なことがあるのだ」と考えているような気がしたのです。
僕はこのやりとりを聞いていて、「やらせっぽくて、すみません」と書かずにはいられなかった投稿者の「気配り」が、ちょっと寂しかったのです。
いや、こういう言葉こそ、「ウソに気付かれないための予防線」だと思う人だっているのかもしれないけど。
「いい話」を聞くたびに、「これは何かのステマ(ステルスマーケット)に違いない!」という反応を示し、「ソースを出せ!」って言う人もいます。
「ウソに騙されないこと」は、もちろん大事なことです。
とはいえ、「疑いはじめたら、キリがない」のも事実。
「やらせっぽい」って自分で書いておいて、「やらせじゃないのか」って思わせようという魂胆なのだな?
じゃあ、結局、事実を他人に語りたいときには、どうすればいいのだろう?
愛犬の日付入りの死体写真とか、動物病院の医師の死亡診断とかが必要?
もちろん、疑わなくちゃいけない事例は、たくさんあります。
なんでも無防備に信じろ、なんて言うつもりはありません。
海外の記者の発言を「ねつ造」する元ジャーナリストなんていう人もいるくらいだし。
ただ、こういうふうにラジオ番組の投稿のちょっといい話にすら、「やらせっぽくて、すみません」と書かなければならないような空気に、なんだかとてもうんざりしているのです。