Kindle版もあります。
書くだけであなたも天才になれる!
誰でも、簡単に・・・
多くの人々の心を動かす文章がスラスラ書けるようになる!
自分だけの独自の世界観を演出することができる!
オリジナルな物語がつくれるようになる!
書くことであらゆる悩みを解決できる!
SNSの反応率がめちゃくちゃ上がる!そのための技術を、これ1冊にまとめました。
僕自身も長年のはてなユーザーで、フミコフミオさんの文章はずっと読んできました。
書かれていることは、どこまで「事実」なのか?
あの「釣りタイトル」はどうなのか?
本当に携帯電話で書いているのか?
など、いろいろと思うところもあるのですが、虚実入り乱れていそうなのもまたインターネットなんだよなあ、と「テキストサイト崩れ」の僕は思うのです。
「釣りタイトル」っぽいテキストがあるのも、ブログを書いている側からすると、「とりあえず、読んでもらえないと話にならないからな……」と「わかる気がする」ところもあるんですよ。
この本のなかで、著者は「他者に読まれることを狙わない文章を書くこと、とりあえず書きたいことを書いて、公開せずに「書き捨て」することで地力がついていく、とも仰っているのですけど。
ネットに何かを書く時には編集者のチェックが入るわけでもないし、更新しないよりも良いのではないか、せっかく書いたのにもったいない、というような感情を僕は抱いてしまうので、「書き捨てでいい」という発想は、意外だったんですよ。
著者は「20年間、書き続けてこられた理由」について、最初にこう書いています。
「文章を書くことは好きだ。だが、好きだけでは20年も続けられない」
なぜ、書き続けてこられたのか。書けば書くほど、思うままに文章が書けるようになり、生きていくうえでの悩みや迷いが消えたからだ。人生が良い方法へ向かったからだ。自分の人生を意のままにデザインできるようになれたからだ。毎日が充実して、生きるのが楽しくなったからだ。このように、書くことは、
「思い通りに文章が書けるようになる」×「人生を良いものにできる」
という、2つの効果がある。僕は、書くことによって、小さなブレイクスルーを何度も経験できた。仕事上のピンチを乗り越えられた。プライベートでも悩みを抱えることはなくなった。「20年間続けられた」のではない。「20年間やめられなかった」のだ。
一方で、実際に「さあ、書いてみよう!」といった段階になると、どうしていいかわからず愕然として諦めてしまう。才能がないと絶望してしまう──そういう人は多いのではないか。僕も同じだった。だが、安心してもらいたい。それは書く準備ができていないだけだ。
準備とは、自分のなかに「書くもの」を築き上げることだ。難しく思えるかもしれない。でも、大丈夫。誰でも、簡単にできる。
著者、自身が「書いてきた」経験に基づいて、小さなブレイクスルーの起こし方を紹介しています。
僕はこれを読んでいて、以前読んだ小田嶋隆さんのエッセイ集に書かれていたことを思い出しました。
アイディアの場合は、もっと極端だ。
ネタは、出し続けることで生まれる。
ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。
つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。
書いていると、ネタが枯渇する、と思われがちなのですが、実際は「書くことによって、新しい書きたいこと、書けることが生まれてくるほうが多い」のです。
それは、僕も実感しています。
こういうふうにアプローチしていけば(こういうちょっとした疑問を突き詰めれば)ネタになるのだな、という感覚も身に付いてきます。
むしろ、ちょっと間隔が開くと、どう書いていいのか、ちょっと困ってしまうこともあるのです。
僕自身でいえば、「また同じようなことこと書いてるなあ……」と自分に飽きてしまうのですが、それを出すタイミングによって、「同じようなこと」でも、前は全然読まれなかったものが、けっこう拡散されることもあるんですよね。
これだけ長い間書いていても、「何がウケるか」なんていうのは、自分では予測できない。もちろん「打率」みたいなものは上がり下がりがあるのでしょうが、あえて「読まれなくても書きたいこと」を書くことも少なくないのです。
あのフミコフミオさんも「何がウケるかは、予測できるものではないし、他者の評価に依存していては書き続けるのは難しい」と考えていることに、僕はけっこう「安心」したのです。
以前、有名なコピーライターの著書を読んだのですが、その人は「依頼がきたら、とりあえずさまざまな角度から、最低100個以上のコピーを考えてみる」そうです。
「天才」と見なされているような人でも、「いきなり、素晴らしい答えがひらめく」わけではありません。
そうやって試行錯誤をしていくなかで、手ごたえがあるものが出てくる(ことがある)のです。
「書き捨て」の話に戻ろう。1日3分でいい。チラシの裏でいい。気になるもの、悩んでいるものについて、手を使って鉛筆やペンで書くことを続けてみてほしい。書いたものを見て「こりゃダメだ」と捨てるのではなく、はじめから捨てるつもりで書く。これが極意。
嘘みたいに思われるかもしれないけれど、素直な気持ちで読んでもらいたい。
僕は、悩みを書き捨てるようになってから、まず、無駄に悩まなくなった。
僕らは、無駄な悩みにとらわれていて、悩むべきホンモノの悩みに向き合えていない。僕は、書き捨てることで、無駄な悩みから解放され、向き合う価値のあるホンモノの悩みについて考えられる状況を確認し、楽に生きられるようになった。「書くこと」でなぜ無駄な悩みが消えるのか、方法とメカニズムについてはあとの章でお話ししたい。「はじめに」で、「書くものをつくれば、書くのはたやすい」と述べた。書き捨てるだけで、書くものを自分のなかにつくり上げられる。
対象について書き捨てることは、自分の言葉に変換するということである。言葉に変換する際には、その対象をどう見るか、という世界観が求められる。世界観を持って世の中を観察することによって、「書くもの」が蓄えられていく。つまり、書き捨てによって世界観が構築されるとともに、「書くもの」が蓄積されていくのだ。
確かに「言葉にする」ことによって、自分が置かれている状況を少し俯瞰して考えられるところはあると思います。
その一方で、炎上系YouTuberなどをみていると、この人たちにとっては「自分自身がネタ作りのためのキャラクターになってしまっているのだろうな。それもひとつの生き方なんだろうけど……」と、考え込んでしまうところもあるのです。
ネットで「自分を他者にアピールすること」が重視される社会になった面白さと同時に「写真を撮ること優先で、熱いうちにラーメンを食べられくなくなってしまう人生」が、本当にその人を幸せにしているのか、と疑問にもなります。
(撮影用とは別に注文すればいいんですけどね、ラーメンだけの話であれば)
僕自身も、そうやって、「自分のつらい状況もネタにできる」時代に生まれてきてよかった、とは思っています。
フミコフミオさんや僕のように、20年前、テキストサイトやブログ創生期にはじめた人たちは、幸運だったのかもしれません。
ちょっとしたことで炎上するリスクも今ほどは大きくなくて、日記サイトやブログで「ネットでも紙での書き捨て同様のノーリアクションの時代」を過ごし、ある程度スキルが上がり、厳しい反応にも慣れた状態で「ブログ全盛期からSNSの時代」を迎えられたというタイミングの良さもあったのだと思います。
もともと文章を書くのが好きな人たちがテキストサイトをやっていた、というのはあるのだとしても、やっている人はずっと続けているし、最近になってブームに乗って、あるいはお金を稼ごうとしてはじめた人は長続きしていない、とも感じるのです。
2000年前後に「ネットで書くこと」をはじめた世代は、高度成長期に給料が右肩上がりだった時代の日本人の「やればできる」「未来は明るい」みたいな感覚を、ブログに持つことができたのかもしれません。
今は「新しいブログを開拓して読もう」という人は少ないですよね。
TwitterもInstagramもTikTokもYouTubeもあるし。
スマートフォンでも、『はてなブログ』のアプリはあるものの、TwitterやInstagramのアプリほどは普及しておらず、「検索して読む」というひと手間は、けっこう敷居が高いのではなかろうか。
個性とは自然に熟成されて、発現されるものだと思っている人は多いみたいだ。はっきり言っておく。個性は探しに行かない限り見つからない。個の力で生きている人は、例外なく、自分で個性を見つけて、それを研鑽してきた人だ。
個性を見つけるいちばんの近道は、「自分を発掘する」という意識を持って書くこと。文章を書いているときに、「自分はこんなことを考えているのか」と驚いた経験はないだろうか。書き続けることで、そういった驚きの発見をする機会も増えてくる。その驚きのどこかに個性はある。
僕も20年くらいネットで書き続けているのですが、率直なところ、「世の中には、文章を書くこと、書き続けることに向いているというか、書かずにはいられない人間がいて、それはもう、才能というよりは呪いのようなものではないか、と今は考えているのです。この時間をもっと有効に使えたのではないか、と思うし、他人に薦められるほど僕にとってはプラスになっているという自信もありません。
「ああ、フミコフミオさんって、森博嗣先生みたいなことを書く人だなあ」と思いながら僕は読みました。
すごく正直に「フミコさんが見た世界」が描かれているし、具体例を並べて「わかったような気にさせる」のではなくて、普遍的・抽象的な「本質」「概念」を語ることに徹している。
読んでいると、つい、「それはあなただからできる(できた)ことなのでは……」と言いたくなってしまうのです。
この本に書かれていることも、「もともと、ある程度書く能力がある人」「読むこと、書くことが好きな人」向けではないかと思います。
「とりあえず書けるんだけど、なんかブレイクスルーできない」という人は、ぜひ、読んでみてください。
あと、「自分は何のために生きているんだろう」という人生の袋小路に入り込んでしまった人にも。