琥珀色の戯言

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コミュニケーションは、要らない ☆☆☆☆


コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

内容紹介
つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。
ネット上にテキストを書けば書くほど文章力は落ちる……
・人間から論理的思考を奪う「話し言葉」 ・コミュニケーションの肝は「マス」と「個人」の間にある
・なぜ日本人は答えを出したがらないのか ・まず「信じない」ことが、正解に辿りつく最短ルート


ただ気分を吐き出すためだけの言葉をネット上に書き散らし、真偽の不確かな情報に右往左往し、目的もなく自分のフォロワーを増やそうとする。そんなものは、コミュニケーションではない。高度成長期以降、日本人は「現状維持」のために協調性ばかり重んじて、本質的な問題について真剣に「議論」することを避け続けてきた。そのツケがいま、原発問題を筆頭とする社会のひずみとして表面化しているのだ。我々はなぜ人と繋がろうとするのか。真のコミュニケーションとは何か。世界が認める巨匠が初めて語る、目から鱗の日本人論。


押井さんは、以前、著書『凡人として生きるということ』のなかで、こう仰っていました。

 僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない。年賀状にしても、こちらから出すのは毎年ふたりだけ。師匠ともうひとり。さすがに出さないと失礼と思われる大先輩のふたりを除いて、年賀のあいさつを出す相手もいない。

 だから、正月にうちに配られる年賀状はどんどん減ってきた。それでもいいと僕は思っている。他人とのコミュニケーションは、こんな僕でも大事だ。いや、多くの人の才能に支えられて映画を作る僕のような人間には、コミュニケーションほど大切なものはない、と言ってもいいだろう。

 だが、それはあくまでも映画を作るという目的があってのことだ。もしも僕がたったひとりでも映画を作ることができるなら、ひとり家にこもって誰とも交わらず、黙々と作業をするだろう。

 だが、実際にはそんなことはできるはずもない。だから、僕は他人を必要とする。他人を必要とするから、他人と一晩でも二晩でも、相手に自分の考えを納得してもらえるまで、とことん話す。

 その過程で、その人とどんなふうに付き合えばうまくやっていけるかを真剣に考える。仕事仲間になるのだから、映画を作る数年の間は、その人とうまくやっていきたいと自然に思うから、そうするだけのことだ。

 逆に、話す必要もない相手とは話さない。僕は別にお友達がほしいわけじゃないからだ。友人なんてそんなもの、と思ってみれば、友人関係であれやこれやと悩むこともバカらしくなってくるはずだ。

 だから、若者は早く外の世界へ出て、仕事でも見つけ、必要に応じた仲間を作ればいいと、僕は思っている。ただ、そばにいてダラダラと一緒に過ごすだけではない仲間がきっと見つかるはずだ。

 損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得だけでしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。

 そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。

この新書、タイトルをみて、この『凡人として生きるということ』の続編のような位置づけなのだろうな、と想像していたのですけど、その「続き」と、東日本大震災をきっかけにして、あらためて押井さんが考えたことが書かれています。

 被災地を尻目に日常に戻ることは、悪いことではない。問題なのは、このレベルの災害を目の前にしてもなお、”国民が同じ体験を共有している”とは言えない状態――つまりある種のコミュニケーション不全に陥っているということに、あまりに無自覚であるということだ。それはすなわち、どういうツールを使えばコミュニケートに有用なのか、というようなレベルの話ではない。
 まず、我々が前提としてしっかり認識しなければならないのは、そもそも日本人というのは同じ意識を持って暮らすことなど根本的にはできないということだ。
 標語として「がんばろうニッポン」とか「絆」というフレーズをいくら掲げたとしても、この国には同じ意識を共有した”みんな”など存在しない。狭い島国であるのにもかかわらず、我々の意識は、はっきりと分断されている。震災以前も以降も本質的にはその状況は変わっていない。今回の震災で単にそれが露呈しただけだ。

九州在住の僕は、東日本大震災後の日本で、なんとなく「宙ぶらりん」になっている気がしました。
僕自身には、ほとんど震災の直接的な影響はなく、これまで通りの「日常」が続いていたのです。
「被災地を支援しなくては」という「日本のなかの、非被災地」にいる自分がいて、その一方で、テレビからは「がんばろう、ニッポン」という言葉や、海外からの日本支援メッセージが発せられています。
「大きな立場」からすれば、日本人である僕もまた、「被災者」のひとりでもあるのです。
僕は「被災者」なのか「被災者じゃない」のか?
押井さんの「この国には同じ意識を共有した”みんな”など存在しない」という言葉は、言われてみれば当たり前のことなんだけれど、いまの僕にはすごく響いてくるものがありました。
そして、「同じ意識を共有した”みんな”が存在しない」からこそ、それぞれの人がそれぞれの役割を果たすこと、お互いにコミュニケーションをとることが必要なことも。

 そもそも誰もが欲し、誰もが賞賛する「コミュニケーション」とは何なのか?
 これに関して、ある程度、最初に定義をしておきたい。
 コミュニケーションには二つの側面がある、と僕は思っている。
 ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」で、もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」だ。
 前者はたとえば「おつきあい」という言葉に代表される。
「ご近所づきあい」や「会社づきあい」、「先輩とのつきあい」や「友だちとのつきあい」。さらに言うなら「夫婦関係」や「家族関係」、「恋愛関係」を維持するためのコミュニケーションもここに含まれる。
 ここで重要なのは「いかに問題を起こさないか」ということだ。良い言葉で表現すれば「協調」や「協力」ということになるが、悪い言葉で言えば、ようするに「馴れ合い」である。ここには、何か新しい価値観を生み出そうという意志はない。
 日本人が「コミュニケーション」という言葉を使う場合、ほとんどはこちらの「コミュニケーション」を指しているように思う。
 だが、コミュニケーションとは本来、異質な世界や異質な文化といかにつきあい、新たな関係を生み出すかという重要な目的を持っている。
 こちらはたとえば「議論」という行為に代表される。
 会社が学校での「会議」や国同士の「外交」、企業間での「交渉」がそうであるし、「恋愛」や「結婚」においてもその初期段階では「交渉」に近いコミュニケーションが必要になる。

「日本では、コミュニケーションが前者に偏りすぎてしまって、日本にはまともな言語空間と言論空間がなくなってしまった。
そして、まともな議論も成立しなくなってしまった」と、押井さんは書いておられます。
いや、自分はネット上で「議論」している、という人も少なからずいるはずです。
でも、僕自身の観測範囲では、ネット上で「議論」とされているもの(あるいは、一方が「議論」だと称しているもの)には、どちらかが一方的に難癖をつけているものだったり、自分の立場を仲間にアピールするためのポジショントークであったりすることが多いのです。
相手を説得したり、新しい関係を生み出すための議論の割合は、本当に少ない。
交渉であれば、お互いに妥協点があるはずなのに、最初から「自分は正しい」「妥協なんて必要ない」という姿勢の人ばかりですし。
ネットでは、話し合っている相手のほうではなくて、自分の仲間のほうばかりを向いて「オレの言っていることは、正しいよね、そうだろう?」と言い続けてしまいがち。
まさに「現状を維持するためのコミュニケーション」。
もちろん、僕にだって、そういう傾向はあるのですけど。

 僕はそもそも「インターネット」という空間は、コミュニケーションには向いていない世界だと思っている。
 何よりもまず、ネットでのコミュニケーションの主体はいきなり個人レベルから始まってしまうからだ。メールでもブログでもツイッターでもフェイスブックでも、それを始めた瞬間、それまでの共同体を置き去りにした個人となる。
 自分が生活している地域の人間ではなく、会社の人間でもなく、家族の一員としてでもなく、個人として言葉をアウトプットする。そして、そこにこそ、ネットの最大の魅力がある。だからこそ、そもそもネットというツールはコミュニケーションに不向きであると僕は思うのだ。
 今の社会では、テレビや新聞というマスメディアでは国民の話をし、それがインターネットになるといきなり個人の話になる。
 けれども、ほとんどの者の「社会性」とは、個人とマスの中間地点にある。ある者は会社員として、ある者は主婦として、ある者はフリーランスとして、またある者は学生として生きている。
 そして、それぞれの共同体の中では共通言語がある。この共同体の内部では、現実世界でもネットの世界でもそれなりの対話がある。しかし、それ以外のコミュニティにまたがる会話というものは、かなり限定されてくる。

僕もネットをやりはじめた頃は、「それぞれの背景や所属をこえた、個人どうしのコミュニケーションの時代」にワクワクしたものです。
ところが、ネットが一般化してくるにつれて、ネットも現実に近づいてきました。
専門家や責任ある立場の人たちは、「○○のくせに、こんなことも知らないのか」と嘲られ、専門的な話をすると、「そんなの専門家にしかわからない。素人にもわかるように説明しろ」と責められます。
Wikipediaレベルの基礎知識もなく、自分では全く勉強しようとしないのに「説明責任」をふりかざす人もいるのです。
ことあるごとに、「発言者の所属する共同体の連帯責任」をアピールしようとする人もいます。
何も背負うものを持たない「名無しさん」や「捨てアカウント」との、不毛な闘い。
そんな経験を重ねることによって、ネットでのコミュニケーションに疲れてしまう人は、少なくありません。
フェイスブックなどの実名コミュニティは、「宣伝したい人」以外にとっては、どんどん閉鎖的なものになっています。
「どうせ、こういうことは”みんな”にはわかってもらえないんだから」


押井さんは、ネットでのコミュニケーションに、こんな疑念を呈しています。

 携帯電話やネットで繋がれた世界に、本当にコミュニケーションなど存在するのか?僕には中身が空っぽのまま回線だけを無意味に増やしているように思える。
 道具を使って便利に効率的にコミュニケーションをとるというような方法論によって表層的にコミュニケーションを論じる以前に、この国にはそもそもコミュニケーションの内実が存在しない。我々はまず、そのことに気づくべきだろう。

 そもそも僕はネットワークデモクラシーなんて信じていない。何か新しいツールによって変革が引き起こされるという考えは、問題の本質を見失わせるからだ。
 なぜ、エジプト革命が果たされたのか?
 なぜ、反政府デモの最中、エジプト軍が中立を表明したのか?
 簡単な話だ。単に抑圧する側の力が衰えたからだ。ムバーラクにまだ政治的な力があったなら軍は行動を起こしたはずだ。そのときは一瞬で民衆蜂起は瓦解していただろう。
 ようするに、軍が自国の政権を賞味期限切れだと判断したのだ。
 このようなことはベルリンの壁の崩壊時にも起こったし、おおよそ革命と名がつくものの背景には少なからずある現象だ。
 それが革命の順番なのだ。
 だから、SNSでの呼びかけで人が集まったとか、インターネットを遮断されたが、他国からの外圧でまた開くことになったとか、そんな経緯は瑣末なことだ。成功した後で革命を語るとき、確かにそういう文脈は時代性もあって魅力的に映る。けれども、それを賞賛することで納得していたら、結局はまた物事の本質に辿り着けず、一過性のブームで終わるだけだ。
 だからあえて繰り返すが、インターネットに革命を起こす力などない。ネットワークデモクラシーも存在しない。そんな言説に踊らされているうちは、日本に革命が起きることもない。

押井さんの言葉は、「正しい」のだと思います。
しかしながら、その一方で、「ツールによって本質は変わらない」のだとしても、さまざまな手間を省いたり、効率化するためのツールには意味がある」とも僕は考えています。
僕がまだ子供だった30年くらい前は「大事な話は、電話じゃなくて、相手と顔を合わせて」と言われていました。
ところが、いまは「メール1通じゃあんまりだから、電話くらいはするように」という感じです。
もちろん、重要な商談や謝罪、恋人との別れ話などは対面が基本なのは、ずっと変わらないのだとしても。
インターネットは、エジプトでの革命の直接の原因ではないだろうけど、革命を効率化し、時期を早めた可能性は高いはずです。
ただし、「革命が効率化される」ことが本当にプラスになるのかどうかは、歴史の判断を待たなければならないでしょう。
歴史は流転するものであり、最終的な結果は同じなのだとしても、「その変化を早める」というのには、大きな意味があるはずです。


あと、僕が印象に残ったのは、押井さんの「原発に対する姿勢」でした。

 僕が現在の反原発派に懐疑的なのは「原発が悪い」というだけで、一方的にその他のコミュニケーションを拒否しているからだ。
 今の日本の有り様を考えたら原発を止められるわけがない。
 今、原発を止めて原発に変わるエネルギーは何があるのか。
 その言葉を発している人間に、全部をやめてしまう覚悟が本当にあるのだろうか。
 もし、時代を遡って日本に原発を作るか作らないかという決定を下す場面に僕がいたとしても、僕は情緒的な人間ではないので「作れ」と言ったと思う。だから、もともと反原発という意見とは相容れないのかもしれない。だが、だからこそ、どうやって導入するのかについては徹底的に最善策を見出そうとしたはずだ。
「何より一番良い炉を使え」と。


 僕は「原発は、要らない」と考えています。
 押井さんのこの言葉を読んで、「めんどくさい人だな……」と感じてしまいました。
 そして、こういう人を「バッシング」するのが、いまの「反原発派」であり、「ネットコミュニティ」なのです。

 
 でも、本当は、こういう人と、しっかり「議論」すべきなんですよね、「原発をなくすこと」そして、「原発をなくしたあとのこと」を真剣に考えるのであれば。
 

 僕は「ネットでの馴れ合い」も好きですし、そういう「日本人的なコミュニケーション」とネットの相性の良さを利用するのも悪いことじゃないと思うのです。
 だからこそ逆に「馴れ合い」が「世論」になってしまうことに、危険を感じてもいるのです。


 世の中の「コミュニケーション礼賛」に少し疲れている人には、一度読んでみていただきたい新書です。

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