琥珀色の戯言

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【読書感想】精子提供: 父親を知らない子どもたち


精子提供―父親を知らない子どもたち

精子提供―父親を知らない子どもたち

内容(「BOOK」データベースより)
「福音」なのか、「冒涜」なのか―AID(非配偶者間人工授精)を選択した家族、医師、精子提供者らに丹念に取材。決断までの夫と妻それぞれの葛藤、生まれた子に事実を告げる困難、そして“秘密”を知った時の子どもたちの衝撃。家族にとって最も重要なものとは何か、そして「科学技術」がもたらす幸福とは何かを問う力作ルポルタージュ


「AID」というのは、主に男性側に原因がある場合に行われる不妊治療で、母親の卵子にドナー(精子提供者)の精子を人工的に受精させることによって妊娠させる方法です。
 生まれてきた子どもは、母親とは「遺伝的なつながり」を持つのだけれど、父親とは「遺伝的には無関係」になります。
 そして、ドナーは「匿名」が大原則です。
 誰だかわからない(とはいっても、いちおう健康で「ちゃんとした若者」ということになっていて、アルバイト感覚での医学部の学生などからの提供が多かったのだとか)男性から提供された精子と「母親」の卵子から生まれてきた子どもたち。
 このルポルタージュには、AIDによって生まれてきた子どもたち、AIDによって子どもを得ることを選択した親たち、そして、「子どもを持たない人生」を選んだ、あるいは選ばざるをえなかった人たち、さらに、養子を育て、新たな「家族」をつくろうとした人たちのことが書かれているのです。


 著者によると、2011年9月に報告された日本産科婦人科学会(日産婦)の調査データでは、2009年に非配偶者間人工授精(AID)を受けた患者数は806人で、生まれた子どもは97人だそうです。
 過去十年間も、年間100人〜200人がAIDで生まれているのだとか。

 
 AIDが行われていることは、医学部での講義の知識レベルでは僕も知っていましたが、率直に言うと、僕も「それは子どもには言わない、知らせないほうが良いのだろうな」と考えていました。
 騙し通せるものなら、そのほうがお互いに幸せなのではないか、と。
 「遺伝子的なつながり」がなくても、家族として過ごしてきた記憶のほうが、大事だろうし。


 ところが、生まれてきた子どもたちの側からすると、「自分の遺伝上の父親がどこの誰かわからない」というのは、とても大きな不安につながるのだということが、この本を読むとよくわかります。

 誰も真実を教えてくれなかったこと、ほかに相談相手はなく一人で重荷を抱えて生きていかなければならない不条理への怒りも感じる。そこから彼は「遺伝上の父親」を必死で捜し始めた。
「父を捜したい。直接会って、あなたの精子が僕になったんですと言いたい。自分のルーツを知りたいと思うのは理屈じゃないでしょう」
 そう胸の内を語ったという男性の言葉が、なぜか私の頭から離れることはなかった。
 海外では不妊の夫婦やレズビアンのカップル、シングルの女性が精子バンクを利用して、子どもを出産するケースがあり、日本でも小説などの題材として「精子提供」を取りあげた作品は幾つかある。だが、実際に医療の現場でこうして行われ、現実に生まれた子どもの存在を知ることは衝撃だった。
 日本では戦後まもなく実施され、60年以上の歴史があること。国内で1万人以上の子どもが誕生しているといわれる。にもかかわらず、あくまで「匿名」を条件に精子が提供されてきたため、「遺伝上の父親」を知る道も閉ざされているのが現状という。
 では、期せずして事実を知らされた子どもはどうなるのか。


 「遺伝上の父親」っていっても、親が不倫していた、というような深いつきあいがあった相手ではなく、「自己処理」するような感覚で精子を出してアルバイト代をもらっただけの若者(もちろん、そういう感覚じゃない人もいるみたいなのですが)を探し出して、「あなたが私の(遺伝学上の)父親です」と言うことに意味があるのか?
 少なくとも母親は遺伝学的にもつながっているのだし、育ててくれた父親を傷つけることになるのでは?

 そういう「意見」って、「自分のルーツに不安を持ったことがほとんどない人間のもの」なんだなあ、と、この本を読んで、あらためて思い知らされたような気がします。
この子どもたちは、育ててくれた父親がイヤなわけじゃなくて、自分の遺伝的な父親が不在であることが、とにかく「不安」なのです。
本当のお父さんは、ずっと育ててくれた人だし、それはこれからも変わらない。でも、『遺伝的な父親』がどんな人なのかを知りたい。
そしていまは、医学的にDNA鑑定などで「親子関係」をかなりの精度で知ることができる。
AIDそのものにも言えることなのですが、「技術的に不可能」な時代であれば、どんなに知りたくても推測するしかなかったし、「子どもができない」ことも諦めざるをえなかった。
しかしながら、「方法はあるけれど、倫理的な疑問が残っている」という状況では、それを必要としない人が「倫理的にみて、そんなことはやるべきではない」と言う一方で、困っている人は「なんで『できること』をやってはいけないのか」と主張せざるをえない。


最近は、日本でも、自分の子どもに「AIDで産まれた」ことを「告知」する人が増えてきているそうです。
長い目でみれば、そのほうが「親子のためになる」のかもしれません。
「大きな隠し事がある」ことそのものが関係を不安定にすることは多いから。
ただ、それが唯一の「正解」だとも、なかなか言い切れない。

 
 僕自身は、子どもの頃は「生みの親よりも、育ての親」に決まってるだろ!と思っていたのです。
 「遺伝子的な関係」にばかりこだわって、配偶者の「連れ子」を虐待する親のニュースを聞くたびに、「自分の子ども」には変わりないはずなのに……と憤っていたものでした。


 ……でも、自分が父親になってみると、「もしこの子が他の男の子どもだったら……」なんて妄想すると(まずありえないと思うのだけれども、男親って、「100%の自信」はなかなか持てないって言いますよね)、「いまと同じように愛せるだろうか?」と疑問にはなるんですよね。
 僕などは、こんなに自分が嫌いなのに、自分の子どもには、「似ている部分」を見つけると安心してしまうのです。

 僕は、自分で考えていた以上に、「血縁」とにとらわれている人間なのだなあ、と考え込まずにはいられません。


 AIDは、生まれてきた子どもだけでなく、それを選択する夫婦にとっても「希望」とともに「痛み」を伴うものです。

 治療で子どもができた後も、「不妊」を引きずって苦しむ人がいる。たとえ出産はしても、自分の不妊症が治ったわけではないと悩むケース。また、妊娠すれば幸せになれると思っていても、現実に待ち受ける子育ての大変さとのギャップに、子どもを可愛がることができない人もいた。
 さらに、「AID」を選択する夫婦は、夫と妻、それぞれに複雑な思いを抱えて、平山さんのもとを訪れる。
「子どもを望む夫婦が、最初に突きつけられるのは男性の『無精子症』という診断。夫自身は自分の子どもを持てない、妻にとっては夫の子どもを産めないという事実に傷つき、絶望の底に落とされてしまう。しかし、その悲しみは受けとめられず、医師には子どもをあきらめるか、養子縁組、AIDという選択肢を告げられるわけですね」
 夫は「無精子症」と診断されることで、「男性」であることまで否定されるような衝撃を受ける。妻にとっては、自分に原因がないことで、逆に揺れ動く感情がある。”子どもを産むことができるのに……”と思うと、とても耐えられない。だが、それを責めれば夫を傷つけてしまうと怖れる。そうして互いに口には出せない感情が溜まるほど、二人の関係も疎遠になっていく。

 この「複雑な思い」を、どうすればいいのか……
 妊娠した、子どもが産まれたからといって、幸せになれるとは限らない。
 でも、それができない側からみれば、「贅沢な悩み」。
 この本のなかでは、AIDの話だけではなく、「子どもを持たない夫婦として生きる」「養子を育てる」という選択をした夫婦の話が紹介されています。
 そこには、「子どもだけが人生じゃない」あるいは「血のつながりよりも大事なものがある」という夫婦像がありました。
 しかしながら、それを実現・維持していくための当事者たちの努力は、それこそ、「血がにじむ」ようなものでした。
 「血が繋がっている」という事実のおかげで、親子というのはかなりの「説明責任」みたいなものを考えずにすむのだな、と思い知らされます。
 

 大阪市の社団法人「家庭養護促進協会」が行っている「養親希望者のための連続講座」のなかで、同協会理事の岩崎さんは、参加者にこう問いかけているそうです。

「自分にとって子どもとは何だろう、何で子どもを欲しいのかという本音を探ってほしいのです。子どもを育てることで何を願っているのか、何を望んでいるのか。それからもう一つ、親になるとはどういうことかを考えていただきたい。……親が愛していることと、子どもにとって愛されているということがいつも一致しているわけではありません。そして、何が起こっても、その子どもの親であり続けなければならない。養親になれば、あなたたちから親であることをやめられないのです」
 四十数年にわたり、さまざまな親子関係を見てきた。
 幼児期から思春期へ、子どもの成長とともに難しさや問題に直面する。そこで子どもを手放そうとしたり、夫婦間に気持ちのズレが生じて離婚してしまうケース。片親が幼い子を残して亡くなる家庭もある現実を伝え、岩崎さんはさらにこう語りかける。
「私たちは子どもができないご夫婦、あるいは養子を迎えたいご夫婦のために活動しているわけではなく、子どもの立場になってやってきました。その中でわかったことは、誰がその子どもを一番必要としてくれているのか? 即ち、それは自分が何のために子どもが欲しいのかをよく分かっている方ではないか。そして、そのことを一生忘れないで欲しいのです。自分の人生をより良く生きるために、子どもが必要であったということをよく分かってくれる人だからこそ、その子どもにも、自分の生きたい人生があることを理解できるはずだと、私は信じたいのです。子どもの生きたいとする人生を、支えてくれる親になって下さるのではないか……と」

 一度、親になってしまえば、どんなにイヤになっても、「親であること」から逃げることはできない。


 この本、読んでいるうちに「AIDで産まれた子どもたちの現状」のルポルタージュだけではなく、もっと普遍的な「親子関係とは、家族とは」ということを問うているのではないか、と思えてきたんですよ。
 興味を持った方には、是非読んでみていただきたい。
 でも、読んで、いくら考えても答えが出るような問題じゃないんだよな、という気もするんですよね。
 知らなければ、知らないまま生きていけるほうが幸せなのかもしれないなあ……

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