琥珀色の戯言

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【読書感想】池上彰と考える、仏教って何ですか? ☆☆☆☆


池上彰と考える、仏教って何ですか?

池上彰と考える、仏教って何ですか?

内容紹介
仏教の誕生、日本への伝来から、
葬式や戒名の意味、新興宗教までーー。
仏教にまつわる疑問、基礎知識について池上 彰がわかりやすく解説。


さらに、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ法王とインド・ダラムサラで対談、
仏教の原点について聞く。それらを通して仏教とはどういう教えなのか考える。


私たち日本人は、現実に仏教的な世界観の中で生きて、死んでいくのです。
その世界観を知ることは、自らのアイデンティティを再確認し、
心穏やかに生きるための大きな力になるのではないでしょうか?
仏教を知ることは己を知ること。
そして、日本を知ることです。(池上 彰)


この本の前半部では、仏教の成り立ちやその流布、日本での宗派の流れなどが、とてもシンプルに解説されています。
島田裕巳さんの『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』を先日読んだ僕としては、「こんなに端折って、だいじょうぶ?」なんて感じたのですけど(島田さんの新書でも、かなり「省略している」みたいだったので)、思い切って簡略化されているおかげで、かなり読みやすく、わかりやすくなっているのは事実です。
この部分に関しては、ある程度の予備知識を持っている人には、ちょっと「物足りない」気はすると思うのですけど。


僕が印象的だったのは、池上さんが批判されがちな「葬式仏教」のルーツについて、こんな見解を持っていたことでした。

 日本の仏教の歴史の中で、鎌倉仏教が革新的だったのは、それまで国家や貴族のものだった仏教を、庶民のものにしたことです。死者を浄土へと送り出す葬儀を進んで引き受けるようになったのも、救いを求める庶民の気持ちに応えようとする仏教側からのアプローチの一環でした。
 今でこそ葬式仏教と揶揄されていますが、そもそも、誰もやりたがらなかった葬式を引き受けてくれたのです。世の中がもっとも切実に求めた仏教の姿だったのです。葬式仏教は当初、仏教の堕落ではなかったはずです。
 葬儀を引き受けることで、浄土での幸せを願う庶民の気持ちをとらえ、仏教は庶民の間に深く浸透していきました。葬儀という新しい市場を開拓し、格段に多くの日本人と仏教の縁を結んだ葬式仏教は、日本仏教の革命的な進歩といっても過言ではありません。

なるほど。
考えてみれば、いまの世の中でも、「大切な人が亡くなったとき、どうすればいいのか?」というのは、ほとんどの人が「わからない」と思うのです。僕もそうでした。
そういう「困り果ててしまう状況」に、ひとつのフォーマットを与えてくれるのが「葬式」であり、「葬式仏教」なんですよね。
「こんな仰々しい葬儀に意味があるんだろうか?お金ばっかりかかって……」と感じたことがある人は多いはずです。
でも、そういう「形式」が存在しなければ、それはそれですごく悩ましいのではないでしょうか。
すべての人が「オリジナリティにあふれる死者の送り出しかた」を思いつくわけがないのだから。


この本の「読みどころ」は、後半の池上さんとダライ・ラマ14世との対談だと思います。
「宗教指導者」でありながら、ダライ・ラマ14世は、かなり「合理的な考え方」を持った人なのです。

池上彰日本ではベビーブーム世代がもう60代半ばになっていますが、なかなか幸福だと思えない人もいます。将来への不安を持っている人が大勢いるのです。そういうとき、仏教はどんな役割を果たすことができるのでしょうか?


ダライ・ラマ14世私は今、皆さんに伝えたいことがあります。
 宗教とは信心や祈りであり、私たち仏教徒の場合も、普通は信心、祈り、瞑想などをすることだと思っている人が多いと思います。ただし、それだけでは単純すぎて、仏教の教えの意味が正確に理解されていないと思います。
 仏教は、私たち人間が持っている様々な感情について、つまり、心という精神世界について、大変深い考察と探究をしています。私たちの心とはどういうものなのか、感情がどのような働きをしているのかを正しく理解することは、問題や困難に直面したとき、自分の破壊的な感情を克服するために大変役に立つのです。
 自分の感情をどのように扱うべきかを知っていると、たとえ破壊的な感情が起きても、それに取り組み、克服する手段を心得ているからです。

 この対談のなかで、ダライ・ラマ14世は、「仏教の教典や論書には、私たちの心や感情について非常に詳しい説明がされているため、今では多くの西洋の科学者たちが、仏教の心理学に多大な関心を寄せている」と仰っています。
 なかなかままならない「感情」というものを理解し、コントロールするための、「心理学としての仏教」。
 これはとても合理的かつ興味深い考え方ですし、それを「宗教指導者」自らが公言しているというのは、ちょっと不思議な気がします。
 でも、「これならば受け入れられる」と僕などは感じるのです。


 ダライ・ラマ14世は、「そのためには、学ばなければならない」ということを強調されています。
 ひとりひとりが学び、自分に真摯に向き合わなければ、「感情」をコントロールすることは難しい。
 ただ、それはやっぱり「ハードルが高い」のも事実なんですけどね。
 歴史を顧みてみると、そんなふうに勉強していくことが難しいからこそ、「念仏さえ唱えれば極楽往生できる」という宗派が、仏教でも隆盛になっているわけですし。
 それでも、「先人の知恵として」「心理学として」の仏教は、いまの時代だからこそ、再評価されるべきなのではないかと僕も思います。


この本の最後のところに、「戒名」の話が出てきます。
池上さんは「自分の戒名には、『解』か『説』の文字を入れてほしい、と仰っておられます。

 戒名を考えるというのは、自分が生きたことによって残してきた足跡を総括し、自分の人生の到達点を改めて考えることにつながります。まだそこに到達していないのなら、これからすべきことが浮き彫りになりますし、こう生きていこうという方向性が定まります。
 生きているうちに戒名を考えてみるのは、よりよく生き、悔いを残さず、よりよく死ぬためのレッスンと言えるでしょう。

これを読みながら、僕も「自分の戒名には、どんな文字を入れたいだろうか?」と考えてみたのですが、正直、思いつかなかったんですよね。
それはある意味、僕が自分の人生の軸みたいなものを、この年齢になっても定めきれていないからなのでしょう。
「最後に、自分の人生を総括する文字は何か?」
残りの人生を過ごしていくうえで、それを意識していくことは、けっこう役に立つのではないか、そんな気がするのです。


 池上さんによると、ダライ・ラマ14世は、こう仰っていたそうです。

 仏教徒になる必要はありません。よい生き方をすればいいのです。

 ああ、こういう言葉を聞くと、「いちおう仏教徒」に生まれてよかったのではないか、と思えてきますね。

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