- 作者: 池上正樹,加藤順子
- 出版社/メーカー: 青志社
- 発売日: 2012/10/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容紹介
~内容~
3.11の大津波で、全校生徒108人のうち、
実に74人の死亡・行方不明者を生む大惨事の舞台となった
宮城県石巻市立大川小学校。
これまで、ひた隠しにされてきた
「空白の51分」の悲劇が明らかになった。
なぜ、「山さ逃げるべ」という児童の懇願も受け入れず避難が遅れたのか?
なぜ、石巻市教育委員会は児童の聞き取り調査メモを廃棄したのか?
なぜ、真相解明を求める遺族の声は聞き入れられないのか?
膨大な資料開示請求から得た新事実と、
行政・遺族双方への緻密な取材によって再検証する、
渾身のノンフィクション!
――本文より抜粋――
あわてて逃げ惑う70人の子どもたちと10人の教師が、
大津波の犠牲となった。
4人の子どもはいまもなお行方不明である。
かろうじて生還できたのは、
1年生女子、3年生男子各1人と、
5年生の男子2人の計4人の子どもたちと、
1人の男性教師だけ。
校舎の時計の針は、
午後3時37分で止まっていた。
避難を開始したのは
津波到達のわずか1分前。
つまり、児童たちは
50分間も校庭にとどまっていたことになる。
そして、避難し始めた1分後には黒い津波が襲った。
ここに、大川小の大惨事を引き起こした
「空白の51分」が発生したのである。
74名の子どもたちの命が失われた、石巻市の大川小学校。
その「悲劇」のことは僕も知っていましたが、その時のことが、こういう問題になっていることは知りませんでした。
あの大震災のあまりにも甚大な被害のなかでは、「ああ、あんな大きな津波が来ることなんて想像できずに、流されてしまったんだろうなあ、かわいそうに……」と感じるばかりだったんですよね。
ところが、この本を読むと、生き残ったわずかな人たちの証言から、地震のあと、校庭に集められた子どもたちが50分間も「そのまま校庭で待機」させられていたことがわかりました。
その時間のあいだに、「高いところに逃げよう」「学校の裏山に登ろう」という生徒や先生たちの言葉が出ていたにもかかわらず。
遺族たちは、「なぜ、子どもたちの言うとおりに逃げなかったのか」と後悔し続けています。
小さな子どもたちを失った親たちが、そう思うのは当たり前のことだと思います。
ただ、「あのような非常事態に、子どもたちを冷静に引率し、被害を少なくする」ことこそが大人の仕事であり、子どもたちの言うとおりにして、被害が大きくなっていたら、「なぜ大人がちゃんとまとめなかったんだ」と責められることになったはずです。
大人たちも、あの非常事態に、完璧に対応するのは、難しかったのかもしれない。
しかしながら、この大川小学校の事例は、「その後の学校、教育委員会」に大きな問題がありました。
子どもたちが亡くなったときの状況をきちんと知りたい、今後、同じような災害が起きたときのためにも、検証が必要なのではないか、という声に対して、学校側、教育委員会側は、「責任逃れ」のためなのか「事実の隠ぺい」を行っているのです。
それでも、矛盾を指摘しながら、遺族は少しずつ事実を解明していこうとするのですが……
1年5か月かけて、動いた距離のなんと短いことか。市教委は、責任を曖昧なものにして決断を先延ばしにしている。それはまるで51分かけて180メートルしか動けなかった、あの日の大川小学校と同じ」
児童の遺族のひとりが、そうためいきをつく。
たとえば、市教委が、子どもたちが1分しか逃げていなかったことを認めるのに1年、山に逃げたがっていた子どもたちがいたことを認めるのに、市教委が情報を把握してから1年……。
市教委は、遺族から公文書の間違いの指摘を受けても、それを認め、訂正するまでに、気の遠くなるような時間をかけている。説明会での回答の内容も、後から「勘違いだった」と訂正し、やりとりが無駄になることも多い。
ある遺族は、そんな不毛感との戦いをこう語る。
「説明会での私たちの質問が、いわゆる”重箱の隅をつつく”ようなものになっている。だから、質問する方もつらく苦しい。でも、細かい質問をしないと、大事な部分の間違いを認めてもらえない。もう認めるしかない、という段階になると、市教委の回答は曖昧なものになり、あるいは”検討します”とまた先延ばしになる」
あの災害のなか、多くの学校では、「適切な対応」がとられていたのです。
僕は長年九州に住んでいて、地震は何度か経験してきましたが、津波については経験もなければ、想像もできないのです。
しかしながら、東北の太平洋側に住んでいる人たちは、津波に対する知識と覚悟をかなり持っていたのですね。
遺族のひとりは、こう訴えています。
「宮城県と福島県と岩手県の被災3県で、在校生の亡くなった人数は、宮城県がダントツなんですよね。その宮城県の中でも、石巻市の犠牲者数が突出している。なんで石巻市がこんなに多いのか。しかも、学校にいて亡くなったのは、大川小だけ。子どもの遺体の名前を確認する作業も、親たちや消防隊員だけで行われていて、学校の教職員も教育委員会も、何で来ないんだろうって不思議に思っていた。事後の対応も含めて、教育委員会の仕組み自体、問題あるんじゃないかな、と思わざるをえないんですよね」
「学校にいて亡くなったのは、大川小だけ」
あの震災で、大川小にだけ突出して大きな地震や津波が来たわけではないのですから、そのほかの学校では適切な対応がとられていたということになるんですよね。
これは、本当にすごいことだと思います。
子どもたちは、死にたくなかった。
先生たちだって、子どもたちを死なせたくなかったはず。
誰かの悪意によって、子どもたちは命を落としたわけではないのです。
でも、だからこそ、「なぜ、大川小だけ、こんな結果になってしまったのか?」を検証することが大事なのです。
それなのに、生き残った学校や教育委員会の責任者たちは、自分たちの「責任逃れ」のために、その場しのぎの嘘や誤魔化しを重ね、遺族との信頼関係も損ねられていく一方です。
大川小について、取材を始めたばかりのこのときは、まだこう思っていた。
「これだけの規模の災害なのだから、責任は誰にも問えないはず」
「一度も津波が来たことがない地域で、地元の人でも、逃げなければという切迫した意識は薄かったのだから、仕方がなかったのではないか」
ところが、取材を始めてみると、どちらの認識も正しくなかったことを知る。
やはりこれは、学校管理下で起きた出来事なのだ。
子どもたちは、先生たちの指示に従い、きちんと校庭で待機していた。その間、子どもたちも、先生たちも、山に逃げたがっていた。
また、津波が迫っている危険を学校側に知らせ、子どもを引き取ってから、すぐに逃げた家族も何人もいた。
切迫した状況を認識していた人も、直感していた人も、それなりにいたのだ。
それなのになぜか、子どもたちは1メートルも高いところに上がることなく、津波に襲われてしまった。
「先生がいないほうが、助かった」
遺族は、そう口々に言う。教師たちにとって、なんと厳しい言葉だろう。
とはいえ、遺族も、大川小の先生たちがあの51分間に、子どもたちを守ろうと必死に奔走していたことは間違いないと、信じている。だが、遺族は同時に、子どもたちが自分勝手に行動する「逃げる」ことが許されていなかったのだとも言う。先生の言うことをきちんと聞いていた結果が、命を失う結果につながってしまったことも、事実なのである。
いま、生きている人間たちが、失われた命に対してできる弔いは、「彼らの死を、次への教訓として活かしていくこと」しか無いはずです。
いや、正直、74人もの子どもの、そして、先生たちの命が失われたことを「教訓」とか言うのはいたたまれないし、申し訳ない。
自分の子どもだったら……と考えると、もう言葉にもなりません。
それでも、できるだけのことを、やるしかないのだと思います。
何が「できること」なのか、みんなわかっているはずなのに、なぜそれを実行できないのでしょうか。