Kindle版もあります。
直筆カラー挿絵&写真を収録!
著者初の絵日記エッセイ!
すべての予定が消えた今、今日は何をしよう――。深刻さと楽観視がくるくる入れ替わったあのころ。おうち時間に作った「嚙むとゴリゴリ鳴るほど固いパン」を家族で食べ、リモートでラジオに生出演し、カフェでマスクをつけて談笑する女子高生を見て「好きな人のマスク姿」にときめく様を想像する。2020年、めまぐるしい日々のなか綴られた著者初の日記エッセイ。直筆のカラー挿絵や写真、計34点を豪華収録。【目次】
2020年
1月~3月 すぐには家を見せられない
4月~6月 外に出る勇気
7月~9月 値引きがちょっと切ない
10月~12月 風に揺れるウレタンマスク
綿矢りささんの初の日記エッセイ。
綿矢さん、17歳のときにデビュー作『インストール』が大ヒットし上戸彩さん主演で映像化もされ、『蹴りたい背中』で、第130回芥川龍之介賞を受賞した際には、芥川賞を『蛇にピアス』で同時受賞した金谷ひとみさんとともに大きな話題となりました。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。
この『蹴りたい背中』の冒頭部分、僕もいろんなところで目にしたこともあり、古文の時間に習った『平家物語』とともに、ずっと記憶に残っている書き出しなのです。
『インストール』『蹴りたい背中』があまりにも話題になり、アイドル化してしまったこともあって、その後の綿矢さんの作品や作家活動は、初期作品ほど採りあげられることはないのですが、人間の、とくに女性の「あいまいで不合理なんだけど、本人にとってはそれなりに整合性がある感情」を描き続けている作家、という印象があるのです。少なくとも、あの鮮烈なデビューから20年経っても、書店で平積みにされるくらいの単行本を出せているというのは、けっこうすごいことではありますよね。作品の「社会性」が評価されることが多い金谷ひとみさんと、本好きが、そういえばどうしているのかな、と「ときどき気になって、読みたくなってくる」綿矢さん。
その綿矢りささんも、1984年生まれで、もう40歳か……僕も歳をとるわけだ。
『蹴りたい背中』のときには「女子高生ブーストで芥川賞かよ……」と斜に構えていたけれど、今、読み返してみると、『蹴りたい背中』は、まさに「あの時代を切り取った作品」だったな、と思います。綿矢さん、現在の見た目も「清楚」という言葉が似合うのだよなあ。
すっかり前置きが長くなりましたが、この『あのころなにしてた?』は、その綿矢りささんの「日記であり、初のエッセイ集でもある」のです(「解説」より)。
書かれているのは、新型コロナウイルス(COVID-19)が「海外で流行っているらしい感染症」として報じられはじめてから、「ステイホーム生活」となり、東京オリンピックが1年延期となり、年の後半には(一時)もとの生活に戻りつつあった2020年のこと。
僕は仕事柄、新型コロナウイルス流行下でもステイホーム、リモートワークとはならず、病院で発熱外来でてんてこ舞いになったり、毎日手術室に入るような格好をして感染した入院患者さんを部屋ごとに着替えながら診ていたりしていて、あとは家でYouTubeとゲームばかりの生活だった記憶しかないんですよね。飲食店のテイクアウトがものすごく進化した一方で、注文が集中して松屋がパニックになっていたこともこれを書いていて思い出しました。
実際は、2021年以降もコロナ禍は終息せず、患者数は「2020年に1日100人とかで大騒ぎしていたのはなんだったんだ?」と思うような時期もありました。もちろん、感染拡大前にワクチンを多くの人が接種していたおかげで、患者数が増えても重症化率を下げられたのは大きな成果だったのですが。
今でも病院では面会制限や発熱外来を継続しています。
このエッセイ集は、医療関係者でもなく、感染症の専門家でもない綿矢さんが、ほとんどの人にとって「予想もしていなかった特別な体験」であった新型コロナ禍での「日常生活」を綴ったものです。
「新型コロナウイルス」に関しては、感染症学者によるもの、反ワクチンの人たちによるもの、あるいは、あの時期の政策を評価するものなど、たくさんの本や文章、動画があります。
でも、その一方で、「あの時代に、人々はどんな日常をおくっていたのか」は、まだ数年前のことなのに、あまり記録に残っていないのです。ネット時代だから、ブログなどを検証していけば、わかるところもあるのでしょうけど、人は特別な状況にいると、その特別さをあれこれ語りたくなって、「それ以外の日常」は置き去りにされてしまう。
僕自身も、前述したように「仕事以外はゲームとYouTubeしか思い出せない」のです。
子どもの頃、ふだんのご飯のメニューって、どんなものだっただろう?
母親の得意料理や、たまに出かけたレストランのハンバーグは思い出せるけれど、「ふつうのご飯」は、すぐに記憶からこぼれ落ちてしまう。
そして、「生活様式」が変わると、それまで「あたりまえだったこと」が、受け入れがたくなってしまう。
2020年2月15日の日記より。
日本国内ではイベントが次々と延期や中止になり、国外ではアフリカの感染者が確認された。随分前に購入した、室内でも観葉植物展覧会のチケットが手元にあり、こちらは開催自体はされていたが、悩んだ末に行くのはやめた。不穏なニュースが増えるなか、子どもの声とテレビアニメの音が鳴り響くなか、現在書いている途中の小説の耽美できわどい場面を書き進めてゆくのは、ある意味すごく修行になる。幽体離脱して恋愛の煩悩の塊にならないと、一文も思い浮かばない。
しかも運よく作品世界に没頭できても、普段は楽しんでノリノリで書いていたラブシーンも、”濃厚接触”という言葉をニュースで耳にするようになってからは、登場人物たちが熱烈にキスなどしていルト、架空の人物なのに”マスクとかつけないで、この人たち大丈夫なのかな”と気になるようになった。以前は当たり前だった身体接触も、くっついている二人が愛情だけでなく、他にも色々交換し合ってそうで、ハラハラする。
僕も感染予防対策全盛期には、ドラマや映画で「マスクをしていない人たち」をみると、なんだか心がザワザワしていました。
コロナ以前につくられたものに対しても、なんだか居心地の悪さを感じていたのです。
「キャストがみんなマスクをして演じている作品」は、僕の観測範囲では見かけなかったので、やはりそれは「人間にとって本来の状況ではない」と制作側は考えていたのでしょうけど。
そういえば、昔のドラマをみると「このとき、携帯電話(スマートフォン)があれば、この二人がすれ違うことはなかったのになあ」なんて思わずにはいられないんですよね。織田裕二さんと鈴木保奈美さんが出ていた『東京ラブストーリー』とか。もちろん、リアルタイムで観ていたときには、こんなにみんながスマホを持ち歩く時代が来るとは、思ってもみませんでした。
一度、「未来」を体験してしまうと、どうしても、いまの時代の基準で、昔を判断してしまう。
コロナ禍での感染予防も、今から思えば、「あれほどナーバスになる必要があったのだろうか」と医療従事者の僕でさえ思うのですが、当時はみんな真剣に、それこそ命がけでやっていたのだよなあ。
6月21日には、マスクについて、こう書かれています。
マスクをとるタイミングを迷う席に着いたらすぐか、オーダーし終わってからか、料理が来てからか。また置く場所にも困る。もはやおしぼりを置く銀の受け皿を、マスク用にもう一つ置いてほしいくらい。
久しぶりに外へ出て、マスクケースがたくさん販売されている意味が分かった。せっかくだしどれか買おう。仕事をするようになってから、名刺ケースの上にいただいた名刺を置く習慣があると知った時、名刺ケースが座布団代わりになる可愛さにときめいた。
ただマスクは置くだけだと、せめて畳むくらいはしないと、ふわっとテーブルに置いておくのは、場所も取るし、あまりに生々しい。常時つけるようになってから気づいたけれど、マスクはむしろハンカチより下着に近い。
取ると内側にファンデーションやリップがついてて、しかも湿ってたりすると、これ誰にも見られたくないなぁと、おろおろする。かと言って鞄にしまい込むと次つけるとき、少し不衛生だ。取る度に新しいのに替えられたらいいけど、いまはマスクが貴重だから使ったら即捨てるなんてことはできなくて、できれば食事後にまた使いたい。その辺りの丁寧な所作というか、今後マナー本が出たら読みたい。
「マスクは下着と同じ」か……そう感じてしまう人もいるのだなあ、というか、僕がガサツなだけなのだろうか。
たしかに、けっこう唾液でベトベトになっていると、本当にこれでいいのかなあ、と思うことも多々あったけれど。
11月7日の日記には、こう書かれています。
時代というのは確実に存在する。たとえばたった10年後でも、現在の私たちの行動が、とんでもない時代遅れとして笑われている可能性は十分あり、馬鹿にするのを通り越して、意味不明な行動として未来の人たちの首を傾げさせている可能性もある。
そのときの時代の空気感に生きて居なければ分からない人間の集団行動の心理というのは確実にあって、2020年はそれを顕著に示す年だったように思う。後々「あのときはなんであんなことをしていたの?」と今はまだ生まれてないぐらいの若い人に訊かれたとしても、きっと私は上手く説明できないだろう。
綿矢さんの日記を読んでいると、あの時代は良かった、悪かった、と後世の人はあれこれ評価しがちだけれど、みんな、その時代の状況のなかで、懸命に生きてきたのだよなあ、と思うのです。
だからと言って、過去に起きたことは、全部仕方のないことだった、と達観するのは至難ではありますが。
「なんでみんなマスクをして写真にうつっているの?」と、新型コロナを知らない子どもや若者たちに問われる時代が、いつか来るのだろうなあ。そのほうが、人類にとっては幸せなことではあります。
それでも、感染症はまたいつかやってくるわけで、この経験と記憶を未来に活かすことも大事です。
病院で働いていると、これから先、以前のように自由に面会できたり、熱がある人がふらりと外来に入ってきたりできる時代が来るのだろうか?もともと、現在くらいの感染予防対策をするのが「当然」ではなかったのか?
まあ、そんな重い話はさておき、綿矢さん自身によるイラストや写真もあって、最近の綿矢りささんって、こんな生活や感じかたをされているんだなあ、という興味だけでも読める、穏やかな気持ちになれるエッセイ集でした。