琥珀色の戯言

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【読書感想】甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 ☆☆☆☆☆


甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 (講談社文庫)

甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 (講談社文庫)


Kindle版もあります。

内容紹介
天才バッティングコーチ高畠導宏の生涯を描いた傑作。小久保裕紀田口壮などの一流プロ野球選手を育てあげた彼は高校の教師となり、高校野球の監督として甲子園での全国制覇を目指す。ところが、突然発覚した病気のために……。 NHKドラマ『フルスイング』として感動を呼んだ名著がついに待望の文庫化。


 数々の一流プロ野球選手を育て、各球団から引く手あまただった「伝説の打撃コーチ」は、なぜ、還暦近くになって、高校で教えるという道を選んだのか?


 NHKでドラマ化されたこともあり、高畠導宏さんの名前と、打撃コーチとしての名声は知っていたのですが(ドラマ自体は観てないんですよね、観ればよかった……)、2005年に上梓されたこの本を読むのは、今回がはじめてでした。
 もう10年前の話だしなあ……なんて思いつつ、読み始めたら、止まらなくなってしまって。

 平成16年夏、一人の高校教師が膵臓癌で亡くなりました。
 還暦を迎えて半年足らず、まだ60歳でした。
 その高校教師には、特異な経歴がありました。なんと約30年にわたって、プロ野球の打撃コーチを務めたのです。
 渡り歩いた球団は、南海、ロッテ、ヤクルト、ダイエー、中日、オリックス、そして千葉ロッテ。野球の質が、パワーから技術へ、諜報戦から総合戦へ、さまざまに形状を変えていく中、彼は常にその最前線にいました。
 そして、7つの球団で独特の打撃理論と卓抜した洞察力を駆使して選手たちの指導をおこない、時に相談に乗り、汗と涙を共有しながら、気がつけば、のべ30人以上のタイトルホルダーを育て上げていました。
 しかし、その伝説の打撃コーチは、50代半ばで一念発起し、高校教師になるために通信教育で勉強を始めます。5年かかって教員免許を取得し、社会科教師として教壇に上がり、「甲子園」を目指しました。


 この本では、高畠さんの生涯を辿りながら、「なぜ、彼は『伝説のコーチ』になったのか?」、そして、「なぜ、50代半ばにして新たな道を選んだのか?」が明かされていきます。
 スポーツ界に、名コーチと呼ばれる人はたくさんいるのですが、最初から「コーチになろうと思って、プロの世界に入った人」というのは、ほとんどいないはずです。
 プロ野球のように、注目度でも、金銭的な面でも選手のほうが圧倒的に恵まれている世界なら、なおさらのこと。
「伝説のコーチ」として知られることになる高畠さんも、強打者として将来を嘱望され、社会人から、南海ホークスに入団したのです。

 
 その圧倒的な打撃センスで、新人王候補とまで目されていた高畠選手。
 ところが、ルーキーイヤーの春期キャンプで、左肩を痛めてしまったことから、選手としての苦闘がはじまります。
 当時は、よほどの怪我でないと「試合には出ずに治療する」というような選択が許されない時代でしたし、それまで大きな怪我を経験してこなかった高畠さん自身も、「このくらいで治療のために休んだりしたら、チャンスを失ってしまう」と考えていたようです。
 結局、その肩の怪我のために、守備につくことが難しくなり、セールスポイントだったバッティングも、窮屈なものになってしまいました。
 短い現役生活の晩年は、代打として存在感をみせてはいたのですが、それも限界となり、ついに引退。

 現役5年間で通算258試合に出場。377打数99安打、打率2割6分3厘、ホームラン8本。それが高畠の選手としての全成績である。

 選手としては、社会人から、鳴り物入りで入団した「即戦力」として物足りないというか、期待はずれの成績に終わってしまったのです。


 ところが、選手時代の高畠さんをみていた、当時の南海の野村克也監督(兼選手)が、彼に新たな生き方を薦めてくれたのです。

 高畠は、高校教師に転身したのちラジオに出演した時、自分が打撃コーチになった頃のことをこう振り返っている。
「おまえ、バッティングコーチをやれと野村さんにいわれた時は、びっくりしました。野村さんは、私が塀づたいにバットを抜くようにスイングして練習していたことや、手首が痛い時に、グリップエンドをゴムで巻いて衝撃を吸収するような工夫を凝らしているようすなどを、じっくり観察してくれていました。私に、アイデアが豊富だな、コーチはアイデアが勝負やぞと、野村さんはいったことがありますが、そういう点で、私を評価してくれていたのかもしれません」
 高畠にとって現役を引退するという痛恨事は、同時に若くして打撃コーチに就任するという”大抜擢”をも意味していた。


 「野村再生工場」は、数々の選手を再生しただけではなく、コーチとしての素質を見抜いて、高畠さんを抜擢したのです。
 当時、まだ20代半ばでもあり、打者としての実績も少なかった高畠さんをコーチにするというのは、大きな賭けでもあったはずです。
 これをきっかけに打撃コーチとして、そして、「戦略コーチ」としての高畠さんの才能が花開くことになります。
 バッターへの指導は、自分の理論や型を押しつけるのではなく、その選手にあった方法を、じっくり考え、長所を伸ばしていくというやりかたで、多くの打者が「高畠道場」から、一流選手になっていったのです。
 高畠さんを恩師と慕う選手の一人である、元ロッテの水上選手は、こんな話をされています。

 水上が思い詰めていると、それを誰よりも早く察知して、自然と肩の力を抜いてくれるコーチ――それが高畠だった。
「コーチには2種類あります。マニュアルコーチと応用コーチです。マニュアルコーチは決まったことしか教えられないコーチ、すなわち引き出しが一つしかないコーチです。実はこういうコーチがほとんどなんですよ。普通のコーチは、しっかりした眼がないから、選手が陥っている”現象”をただ口でいうことしかできません。たとえば、バットが下から出た時、高さんは、単にバットが下から出ていたぞ、と指摘するより、その原因をズバリいってくれます。
 ミズ、スライダー狙ってて、カーブに手を出したやろ? という具合です。アホやなあ、もう一球待てば、おまえの狙ってたボールが来るやないか。待つんやったら最後まで待たんか、アホ、と。高さんはなぜバットが下から出たか、その原因まで全部わかっているんです。高さんは僕のバッティングのことをなんでもわかってくれてましたね……」

 ああ、僕も「マニュアルコーチ」だなあ、などと深く嘆息しつつ読みました。
 世の中には、こんな凄いコーチもいるのです。
 でも、一野球ファンの視点からは、コーチの力量というのは、なかなかわからない。
 こういう人がひとりいてくれたら、それだけで、チームはかなり強くなるはずです。
 もちろん、野球チームに限らず。


 そして、高畠さんの仕事は、「バッターを指導し、打ちかたを教える」という領域を超えるものになっていきました。

 ボールをはさむ時の微かな手首の広がりと、その時に手首の腱に出る微妙なシワ。そこから南海打線は、米田のフォークボールを見てとったのである。
 しかし、素早い投球モーションのなかで、一瞬の変化を見ることのできる能力は誰にも備わっているわけではない。たとえ事前に説明されたとしても、よほどの動体視力と反射神経がなければ、米田のその微妙な変化を捉えるのは不可能だろう。
 だが、高畠にはその能力が備わっていた。いや、それは天才的といった方がふさわしいかもしれない。記事を執筆した会田がいう。
「その道を極めた男こそ、高畠ですよ。野球の奥の深さを知った高畠は研究に研究を重ね、二、三年後には、逆に野村(克也)にピッチャーの球種を教えるほどになっていたんです。高畠の眼は、普通のコーチが太刀打ちできるものではありませんでした。クセを隠そうとしていないピッチャーの投球をじっと見れば、高畠には、次に投げる球種がたちどころにわかりました。


 クセを読むのは、野球規約で禁じられている行為ではなく「駆け引き」のひとつです。
 それにしても、こういう「情報戦」のなかで、ずっと活躍し続けるというのは、大変なことですよね。
 どんなすごいピッチャーでも、球種が読まれてしまえば、打たれる確率は上がります。
 去年活躍できたからといって、同じことをやっていては、今年も活躍できるとは限りません。


 この本のなかでは、「美談」だけではなくて、「相手チームのサインを読み、味方に伝える」というスパイ行為の話も出てきます(これは規約違反ですが、パリーグでは当時どこでもやっていたらしいです)。相手チームのベンチには、盗聴器まで仕掛けられていたのだとか。
 なんのかんの言っても、勝たなければ、結果を出さなければ生き残れない、という勝負の世界。
 高畠さんは「清廉潔白であろうとするために、餓死する道を選ぶような人」ではなく、コーチとして、選手を指導し、守るのと同時に「結果を出すためなら、(スパイ行為などで)手を汚すことも厭わない人」でもありました。
 ただし、高畠さんの場合は、サインなど読まなくても、相手投手のクセで球種がほとんどわかる、と言われていたそうなので、「当時の『あたりまえの作戦』をチームの一員として受け容れていた」という感じだったのかもしれませんね。


 高畠コーチは、南海の野村克也さん、蔭山和夫コーチ、そして、尾張久次という「日本最初のスコアラー」たちの影響で、「データ野球」を駆使していくようにもなります。
 情熱と、職人的な技術と、冷静な分析力、これらを併せ持った、まさに「理想のコーチ」だったといえるでしょう。


 ただ、その存在は「コーチとしては、あまりにも大きくなりすぎた」ために、結果的に多くの球団を渡り歩くことになったのかもしれません。
 監督としては、「役に立つけれど、一緒にやると自分の主導権が危うくなるような存在」でもありました。
 高畠さん自身は、監督に取って代わろうとするような権謀術数には、あまり興味はなさそうだったのですが……


 高畠さんが、高校教師となり、甲子園を目指した、というか、高校生に野球を指導することを目指した理由、そして、そのための努力については、ぜひ、この本を読んでみていただければと思います。
 この本には「本物のコーチ」の生きざまが詰まっていて、自分より若い人とつきあい、指導する立場にある人間にとっては、何かしら得るものがあるはずです。
 「まあ、こんなものだろう」と僕が思いこんでいた、「こんなもの」は、なんて低レベルだったのだろう……そんなふうに、思い知らされます。
 高畠さんは凄いコーチで、センスもあったのだけれども、ずっと研究を怠らず、新しいアイデアを実現するための努力を惜しまない人でした。
「もっと若い人を教えてみたい」という心境に至ったのも、指導者として、選手の「こころの問題」を学んでいったことが、きっかけだったそうです。

 厳しい勝負の世界の真っただ中に身を置きつづけた高畠だからこそ、苦しいけれども野球がいかに楽しいものであるかを誰にも知って欲しかったのである。
 岡山南高校時代からも親友・片山東右は、子供好きの高畠についてこう語る。
「高は、子供が大好きでのう。その子供たちに野球を教えるんが好きじゃった。野球って楽しいからね。高は、それぞれのレベルに合わせて子供たちにもわかりやすく教えるんじゃ。
 チンチンブラブラ打法なんていって、高は子供たちを喜ばせながら、バッティングの基本を教える。子供たちは大笑いしながら聞いとるんですが、しばらく経って、おい、あのバッティングの話覚えとるかと聞くと、子供たちは、ハイッて答えますもんね。
 バットのヘッドを遅らせて出していくなんて教えても、子供たちは誰も覚えられません。それが、チンチンブラブラでヘソをまわして、それについていくんだと教えれば、子供たちはちゃんと覚えとる。高は、楽しい野球を教えてやりたいというとったから、高校野球でそれをやろうとしたんじゃと思いますね」


 高畠さんが率いる高校野球チームを見ることができなかったのは、本当に残念です。
 でも、この本を読んでいると、高畠さんというひとりの人間の素晴らしさとともに、きっと、世の中には、高畠さんのような「悩んでいる人たちを支えている名コーチ」が、まだまだたくさんいるんじゃないか、と勇気がわいてくるような気がするんですよ。
 大きくメディアに採り上げられることはないけれど、彼らは、そこで、ずっと「これからの人たち」に寄り添っているのです。


 野球好きの人、そして、自分が誰かを教えるということに馴染めず、悩んでいるすべての人におすすめです。

 

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