琥珀色の戯言

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【読書感想】砂まみれの名将―野村克也の1140日― ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

誰もが「ノムさんは終わりだ」と思った。
悪夢の辞任劇から名監督はなぜ返り咲けたのか。

阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。


 3年連続の最下位、そして、妻・沙知代さんの脱税容疑での逮捕。2001年に66歳で野村克也監督が阪神の監督を辞任した際には、僕も「野村監督は、もうこれでユニフォームを着ることはないだろうな」と思ったのです。
 年齢的にも、1シーズンプロ野球チームの指揮をとるのは難しいだろうし、プロ野球チームには企業の広告塔、という役割もあります。

 しかしながら、野村克也監督は、2005年に楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任し、2009年のシーズンまで4年間、指揮を取り続けました。
 2005年に生まれた楽天球団は、初年度は大きく負け越しての最下位で、下位チームの建て直しに実績のある野村克也監督に白羽の矢が立ったのです。
 田中将大投手へのコメントやボヤキも話題になり、野村監督のもとで、楽天はチーム力を上げていきました。
 初年度の戦いぶりを見て、このチームが優勝争いをするには、全球団の主力が入れ替わるまで、10年はかかるな、と僕は思っていたのですが、2009年、野村監督の最終年には、楽天は2位にまで躍進しました。ラストゲーム、相手チームの選手たちからも胴上げされた光景は忘れられません。
 あの、楽天での4年間がなかったら、野村克也監督の野球人生の印象は「素晴らしい監督だったけれど、阪神というチームのプレッシャーと身内の不祥事で不本意な終わり方をしてしまった」というものになっていたような気がします。

 この本、その野村監督が、阪神の監督を辞任後、社会人野球のシダックスの監督を2002年から2005年まで務めていたときのことを、当時の担当記者が振り返ったものです。
 
 あの野村監督が、アマチュア、社会人野球の監督をやるの?老後の道楽みたいなものなんだろうな、と当時の僕は思っていたのですが、この本を読むと、野村監督は、相手がアマチュアだからと手を抜いて適当にやることはなかったし、むしろ、新たな挑戦としてこの監督就任をとらえ、選手たちに、そして、社会人野球に真摯に向き合っていたことが伝わってくるのです。

 初めて関東村のグラウンドを訪れたときのことは忘れられない。肌寒い平日の早朝、人の流れと逆流するように都心から京王線の下り列車に乗り込んだ。飛田給駅で降りて15分ほど歩く。野球場らしきものは一向に見えてこない。客席も日よけもない空き地のようなグラウンドに、シダックスの赤い移動用バスが停車していた。
 まさかと思ったが、ここだった。
 強い風が吹き荒れ、砂塵が舞い上がる中、野村は指導に没頭していた。
 ヤクルトや阪神時代、大勢の報道陣に囲まれている光景をスポーツニュースで何度も見ていた。だがその日、取材に訪れている記者は私一人だった。
 挨拶を終えると、ついつい本音が出てしまった。
「こんな酷い環境でやってるんですか……」
 悪気はなかった。素直な驚きを口にしただけだ。次の瞬間、野村は笑顔でこう返した。
「野球は野原でするから、野球なんだよ」
 活力みなぎる、いい表情だった。
 恵まれない状況にも関わらず、なぜ必死に若い力たちと接することができるのだろう。
 笑顔の理由がわからなかった。


 あの野村克也監督を、わざわざ社会人のチームに迎えたのだから、プロにも負けないような環境や条件を整えているのだろう、と当時は思っていたのですが、実際は、プロとは全く違う厳しい環境だったのです。他の社会人の監督に比べれば「破格」なのだとしても(専任のマネージャーも付いていたので)。
 当時の野村監督であれば、ユニフォームを着て現場で働くことにこだわらなければ、野球解説者としての仕事や講演などで、ずっと体力的にも楽に、より大きなお金を稼ぐことができたはずです。
 この本を読むと、野村監督は、結局のところ、野球と、野球が上手くなりたい、学んで成長したいという選手たちが、大好きだったのだなあ、とあらためて感じるのです。
 やたらと「年賀状」にこだわる、めんどくさいオッサンだなあ、と思うところもあるのですが。
 礼儀にこだわる一方で、ちょっとヤンチャだったり、闘争心が溢れたりしている選手を、頭ごなしに抑えつけるのではなく、ボヤキながらもうまくチームの中で活かしているのも、プロ野球監督時代と同じだったようです。

 正捕手の坂田精二郎は立正大を卒業後、1997年にシダックス入社の生え抜きである。
 ヤクルト時代の古田敦也がそうであったように、試合で投手が打たれると、野村は坂田を叱った。「優勝チームに名捕手あり」「捕手は監督の分身」を信条としてプロの世界で成功を収めてきた「生涯一捕手」である。扇の要を担う男には厳しかった。
「当時の自分はもう28歳でしたけど、2時間ずっと立たされたことがありますよ。僕も僕で『監督、もういいですか』と言ったら、さらに怒られたりして」
 キャンプ中のある日のことだ。打撃練習で坂田は野村に聞いてみた。
「監督、高めのボールはどうやって打つんですかね?」
 大らかな人柄の坂田が発した問いに、投手コーチの萩原は思わず顔をしかめた。
 萩原が振り返る。
「監督はプロ野球史に残る強打者じゃないですか。『そんなのも分からないのか。こうやって打つんだよ』と上から目線で答えると思っていたんです。、ところが『うーん』と考え込んだまま、どこかに行っちゃって」
 翌朝のミーティング。野村は真摯に話し始めた。
「昨日、坂田からこんな質問があった。あれからずっと考えていたんだけど、俺の考えはな……」
 萩原はその姿勢に感銘を受けた。
「これだからアマチュアは……と言うんじゃなくて、僕らの質問を受け入れて、しっかり答えてくれた。そんなところから『何とかこの人を日本一にしたい』という意識が、芽生えてきたと思うんですね」

 2回戦は5日後の(2003年)8月28日、NTT西日本戦だった。不安は的中した。先発した野間口はコントロールが乱れ、4回3失点KOと誤算。しかし3点を追う7回、4番・キンデランが同点の3ラン。延長に持ち込んだ。
 延長10回裏、無死満塁のチャンスだった。ネクストバッターサークルの主将・松岡を呼び止め、野村がささやいた。
「内角一本を待て。必ず来るから。力むとファウルになるから、軽くレフトに犠牲フライを打つつもりで、待っておけ」
 アドバイス通り、2球目の内角に沈むシンカー系の球をコンパクトに叩くと、左翼線をライナーで抜けるサヨナラ打となった。
 松岡はこの日それまで4打数無安打だった。劇打の記憶は今でも鮮明なままだ。
「代打を告げられるのかと思ったら……監督の言った通りでした」
 翌日の練習が始まる前、松岡は野村に尋ねた。
 監督、なぜあのような助言をしていただけたんですか?
 野村は言った。
「無死満塁だから、相手は絶対にゲッツーを取りたい場面や。詰まらせて、サードゴロに仕留めたいやろ。試合の前の日にビデオで見ていたんで、思ったんや。得意球のシンカー系のボールが、早いカウントで来るとな」
 松岡は回想する。
「『すごいな。この人』と思うしかなかったです。今まで、結果論でいろいろ言われることはありました。しかし、野村さんは違うんです。勝負所であればあるほど、情報を出してあげて、勝負をかけさせる。そして読みが外れても『俺の責任だから心配するな』と。我々選手に『割り切り』と『思い切り』を生ませてくれる指導者でした」

 士気を高めるための操縦術。総監督としてベンチ入りしていた志太(勤:シダックス会長)も、野村の気遣いと育て方については勉強になったと語る。
 ある接戦での一コマだ。ヒットで出塁した選手が二塁への盗塁を試みたところ、アウトになった。選手は落ち込み、首脳陣に顔を合わせられず、ベンチ裏のトイレに向かった。
「そしたら野村さんもトイレに行ったんだ。試合中なのに『あれ?』と思ったら、その選手が僕のところに来て、泣いて言うんだよ。小便していたら、野村さんが隣で小便を始めて、一言だけ『スタートは良かったんだけどな』って独り言を言ったと。怒鳴られるのかなと思ったら、監督は一言だけ言って、ベンチに戻って行ったと。それで彼は泣きながら僕に『監督の優しさに救われました』と言うわけ。ボロクソに言って発奮させる選手と、褒めて伸ばす選手……全員の人柄をよく見ていた。一番発奮させる言い方をするんだね」


 「選手に真摯に向き合い、自分自身にも妥協を許さない姿勢」と「データと経験に基づき、適切なアドバイスができる戦略眼」、そして「情」。
 この3つの要素を併せ持ったリーダーというのは、稀有な存在でしょう。
 あらためて、野村克也という人は、すごい監督だったのだなあ、と思い知らされます。
 そして、野村さんは、プロ野球よりも世間の注目度も報酬も低かった社会人野球でも、けっして手抜きはしなかった。

 著者は、社会人野球について、「トーナメントで一試合負けたら終わりで、学生野球のように『教育や人格形成のため』という理由づけもできない」と述べています。
 選手たちは、プロではまだまだ脂が乗った時期である30歳くらいで、「今後のこと」を考えなければならないし、活躍してもプロ入りすることができなければ、給料が劇的に上がるわけでもない。
「社員が稼いだお金で、好きな野球をやっている人たち」に向けられる目は、好意的なものだけではありません。
 
 野村監督が楽天監督としてプロ野球に戻った後のシダックスというチームのことを考えると、「野村さんにとっても、選手たちにとっても貴重な3年間ではあったけれど、結局のところ、志太会長と野村監督の友誼のために、多くの人が振り回されたとも言えるのではないか」という気もするのです。
 野村監督自身は、「ずっとシダックスの監督でもいい」とおっしゃっていたそうで、プロの世界への復帰には、自分のせいで阪神を追われた、という負い目を感じていた沙知代夫人の意向が大きかったのです。とはいえ、沙知代さんの存在は、ネガティブ思考に陥りやすい野村さんにとって大事なものだった、ということもよくわかります。

 「みんなが注目しない場所」でも決して手を抜かなかった野村克也監督の凄さをあらためて実感したのと同時に「一将功成りて万骨枯る」という言葉も思い出しました。
 野村さんは、たくさんの選手を「再生」した人でもあるのだけれど。


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