読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】孤独の価値 ☆☆☆


孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)


Kindle版もあります。

孤独の価値

孤独の価値

内容(「BOOK」データベースより)
人は、なぜ孤独を怖れるのか。多くは孤独が寂しいからだと言う。だが、寂しさはどんな嫌なことを貴方にもたらすだろう。それはマスコミがつくったステレオタイプの虚構の寂しさを、悪だと思わされているだけではないのか。現代人は“絆”を売り物にする商売にのせられ過剰に他者とつながりたがって“絆の肥満”状態だ。孤独とは、他者からの無視でも社会の拒絶でもない。社会と共生しながら、自分の思い描いた「自由」を生きることである。人間を苛む得体の知れない孤独感を、少しでも和らげるための画期的な人生論。


 「本当に『頭が良い人』というのは、無人島や刑務所にいても、退屈しないで生きていける人のことだ」
 誰が言ったかは忘れてしまったのですが、こんな言葉を聞いたことがあります。
 この新書で、森先生の話を読みながら、僕はこの言葉を思いださずにはいられませんでした。

 隠居している感覚はときどき仄かにある。たとえば、毎日がほぼ自由時間だし、約束もなく、来る日も来る日も遊んでばかりいる。もちろん、二十代と三十代は、猛烈に働いたし、四十代も嫌々仕事を引き受けた。それらから解放されたのだから、隠居にはちがいない。その後、五年ほどまえになるが、遠くへ引越をして、どこに住んでいるのかも明かさないようにした。編集者にも会わないようになった。これは、明らかに「隠れた」と表現できる状態だ。したがって、やはり隠遁、あるいは隠居にほかならない。
 たとえば、二年ほどまえに、人に会うために東京に行ったのを最後に、以来ずっと僕は電車というものに乗っていない。大勢の人が集まる場所へはもともと出ていかない。一人が好きな人間だったが、それでも世間の柵があり、仕事でしかたなくつき合うことも少なくなかった。そういった義理と不可抗力を一切断ってしまったのが、今の生活の始まりである。


 ただし、森先生は、こういう生活について、「人に会わなくても生活ができる基盤を築けたから」で、「普通の人に気楽にすすめられるものではないことは理解している」とも仰っています。
 そもそも、人間関係が難しい大学という組織で長い間教員を勤めておられたのですから、内心はどうあれ、他人とうまくやっていく能力は、それなりにはあったはずですし。
 それに、現在のように、ネットで多くの情報が得られ、通販でなんでも買える時代だからこそ「隠遁生活」がやりやすくなったのも事実でしょう。
 インターネット以前だと、「隠遁」するには、ちょっとしたサバイバル能力、みたいなのが求められていたのです。


 この新書で森先生は「孤独になることを積極的に勧めている」わけではありません。
 「孤独」というのは、そんなに悪いことなのだろうか?
 と問題提起をされているだけです。


 そもそも、「孤独」という言葉の定義も、人それぞれ、なんですよね。

 人によって、どんな状態を孤独と表現するのあ、これにはかなり違いがあるかと思う。ある人は、友達がいないことだと言うし、またある人は、仲間と一緒のときに孤独を感じると言う。まるで正反対のようにも思われるkれど、僕は個人的には、後者が近いのではないかと考えている。つまり、人が孤独を感じるときというのは、他者を必ず意識している、と思うからだ。
 友達がいない、というのも意味がさまざまである。友達というものが最初からいないのか、あるいは、かつてはいたのに今はいない、という意味なのかで、ずいぶん違ってくる。いなくなったという場合でも、そのいなくなった友達はどうしたのか。友達がみんな死んでしまって、一人だけが残されたというような場合もあれば、喧嘩をして、友達が離れていった、というようなものもあるだろう。


 僕は、自分ひとりで周りに誰もいない状態よりも、大勢の人が集まるパーティで話し相手がいないような状況のほうが「孤独」を感じるような気がします。
 6歳の長男と生まれたばかりの次男と僕と3人のとき、僕が次男の世話ばかりしていると、長男は機嫌が悪くなる。
 傍にいても、いや、傍にいるからこそ、「孤独」を感じることって、あるのですよね。
 大自然のなかにひとりきり、だと「孤独」よりも、「緊張感」「開放感」のほうが大きい。

 さて、ここで考えるのは、死に直結するわけでもないのに、どうして、我々の多くは孤独をそれほどまで怖れるのか、という問題である。この傾向は、とくに若者に多い。やはり、社会全体をまだ知らない、社会と自分の関係も不明瞭だ、という時期に抱く孤独感は、無視できないほど本人に影響を与えることがある。実は、本書を書こうと思ったのも、できれば、その得体の知れない孤独感のようなものを、少しでも和らげることができないか、と思ったからだ。すなわち、僕は、そういった孤独感が、主として外界の観察不足と本人の不自由な思考から生じるものだと感じていて、「思い込み」を取り除くことと、少し「考えてみる」ことが、危機的な孤独からの脱出の鍵になると考えているからである。


 この新書で森先生が重視されているのは「若者の孤独感」にどう向き合っていくか、なのです。
 前述したように「孤独」という言葉には、さまざまな解釈があります。
 そのなかで、このネット社会で、SNSなどでの「つながり」がアピールされればされるほど、「孤独感」をつのらせてしまう人もいる。
 

 でも、「孤独」というのは、そんなに悪いものなのか? 異常なものなのか?

 孤独によって生産されるものは、思いのほか多い。そして、その故人活動のほとんどは頭脳によって行われるものだ。躰を使った作業は、一人でなくてもできる。

 念のために書いておくが、友達が沢山いて楽しいこと、仲間と楽しく仕事ができること、そういったことがすべて虚構だと書いているのではない。それが本当に楽しいと感じれば、大変に幸せな人生だ。好運以上に、本人の人徳、魅力があるのだろう。それを妬んではいけない。ただ、人生には、その道しかないのではない、ということ。人それぞれに生きる道が必ずある。自分は、一人だけで静かにこつこつと仕事をいていたい、という人間もいる。そういう人は、その状態を「寂しい」とは感じない。それを、「寂しい奴だ」と指をさすことが間違いだ、という話である。わかっていただけただろうか?

 森先生は、「協調」の意義も十分理解したうえで、「孤独を選ぶ人間がいても、良いのではないか」と仰っているのです。


 ただ、現実問題として、「寂しさ」みたいなものに囚われてしまう人間はいるので、それに対しては「その孤独のエネルギーを創作に向けてはどうか」と述べておられます。
 実際に、多くの創作は、そういう感情から、生まれてきたわけですし。
 幸福感に満たされている人は、文章とか詩を書こうなんて、なかなか思いませんよね。

 毎日、ほとんどの時間、僕は一人で遊んでいる。家には家族も住んでいるけれど、顔を合わすのは食事のときと、犬の散歩に出かけるときくらいしかない。出かけるときは、自分で車を運転していく。だからせいぜい半径数百キロ程度が行動範囲といえる。仕事で人に会うことも滅多にない。すべてメールで済ませている。買い物は95パーセントが通信販売で、宅配便が毎日届いている。電話が鳴っても出ないし(ほぼ間違い電話だから)、手紙も来ない(みんな僕の住所を知らない)。
 それでも、一年に数回は、遠くから友達がはるばる訪ねてくる。そのときは、楽しく過ごすことができる。そういったゲストを煙たがっているわけではない。


 森先生の生活というのは、「極端な例」ではあると思います。
 御本人も仰っているように、これをそのまま真似できる人は、なかなかいないはず。
 でも、ネットで見かける「リア充」の生活を、僕がなぞる必要もないのです。


 人が「孤独」でいられるのは、いることが許されるのは、ある意味、環境が安定しているから、でもあるのです。
 戦争のさなかだったり、大災害に見舞われると、人は「協力」して生きていかざるをえません。
 それが正しいかどうかは別として、人間に「孤独」が許される時代というのは、史上、そんなに長くはなかったはずです。
 

 ああ、でもこの新書を読めば読むほど、「孤独に生きることができる」というのは「自分で考えられる、頭の良い人間の特権」なのではないか、とも思うんですよ。
 普通の人間にとっては、「ちょっと寂しいな」くらいが、ちょうどいいのかもしれませんね。