琥珀色の戯言

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【読書感想】夢の叶え方を知っていますか? ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
何故、あなたの夢は実現しないのか?「自分の庭に小さな鉄道を建設することが小学生の頃から夢だった」―。あなたの夢は「見たい夢」か「見せたい夢」か?もし後者であるなら、願いは永遠に実現しない。小説家として億単位を稼ぎ、あこがれの隠遁生活で日々夢に邁進する。それを可能にした画期的方法論。


 森博嗣先生のエッセイは麻薬だ。


 僕は森先生のエッセイをほとんど読んでいますが、最近の新書に関しては、読んでいて打ちのめされるというか、ちょっとうんざりしてしまうんですよね。
 読まなきゃ良いのに、と自分でも思います。

 大事なことは二つある。いずれも、夢を実現させた人に共通することだ。
 一つは、自分の夢を知っていること。自分が何をしたいのか、明確なビジョンを持っていることである。これがないと始まらない。単に他者を見て、「いいなぁ」と思う程度では駄目で、自分の一生の中でそれを実現するための予定表を持っていることがまずは第一条件だ(これが、本書のタイトルになっている)。
 そして、二つ目には、それをなるべく早く実行することである。この実行が伴わないと、夢を思い描くことがライフワークになってしまう(それも、それなりの幸せかもしれないが)。
 自由には、自分が思ったとおりに行動することだ。これは僕の自由の定義である。まず思うこと。つぎにそのとおりに行動すること。この二つ。すなわち、夢を実現させることは、自由を獲得する行為なのである。


 ああ、たしかに「夢」を持っているとしても、それがものすごく漠然としたものであるってことは、多いですよね。
 「幸せな結婚をする」という「夢」を持っている人は少なからずいるけれど、それを実現するためには、まず「幸せな結婚」とは、自分にとってどういう状況なのか?を定義しておかなければならないはずです。
 完成形を想定していなければ、設計図もつくれない。


 この新書では「そもそも、『夢』とは何なのか?」という定義からはじまっていくのですが、真ん中くらいで、森先生がアンケートで集められたいろんな人の「夢」について論評する部分があるのです。
 そのうちのいくつかを紹介してみます。

「家族でいつまでも幸せに過ごしたい」
 奥床しい夢であるが、初詣で賽銭を投げて神様にお願いしているようだ。「夢」ではなく「祈願」では? そのために自分でなんらかの行動をして努力をするという意味なら評価できるものの、そうは取りにくい。突発的なトラブルがないことを神様にお願いしているのだろう。そのトラブルに対して自分はどう対処していくのか、どんな防御、安全策を取るのか、というレベルでもない。あくまでも他力本願な気持ちである。たしかに、寝ているときに見る夢は自分の思いどおりにはなりにくい、だから、これを敢えて「夢」だと言う謙虚さも、非常に日本的な精神で、淑やかで、上品だと思う。きっと、本当の「野望」は表に出さないものだ、とお考えなのだろう。

「専用ホールを借りて家族でコンサートをしたい」
 典型的な周囲巻添え型。しかも、コンサートとなれば、聴きにくる人まで集めないといけない。拍手をもらい、花束を贈られて、感動するシーンを思い描いているのだろう。


 容赦ないというか、書かれていることは、至極もっとも、なんですよね。
 僕も読んでいて、痛快だな、と思いました。
 でも、本をいったん置いて考えてみると、僕もそういう「夢とは言えないような夢」を持ち続けている側の人間なんですよね。
 ところが、森先生の文章を読むと、「自分が森博嗣になった気分」に浸ってしまう。
 斬られているのは、自分なのに。


 現実問題として、森先生のように生きられる人は少数派だと思うのだけれど、森先生が書く「身も蓋もない正論」は、多くの人に支持されているのです。
 本当に、これで良いのだろうか?
 「森博嗣の本を読んで、森先生が斬っている愚かな人々を一緒にバカにすることだけで満足して、現実の自分を変えられない人」というのは、自己啓発本を片っ端から読んで「その気」になっているだけで、実行していない人と同じですよね。
 というか、「参考になる部分はあるけれど、そう簡単に真似できるような人じゃない」のだよなあ。


 もちろん、参考になるところもたくさんあるのです。

 多くの人が、夢といえば、「高い目標」と意識してしまうらしい。何故か、「目標は高い方が良い」などと教える指導者も多い。僕はそうは思わない。目標は低い方が良い。ようするに、目標なんて、「実現できてなんぼのもん」なのである。たとえ、高い目標を掲げたとしても、そこへ向かう道筋の一段一段は低く設定しておこう。踏み外さないように、勾配の緩やかな安全な道を選ぶ。日々その一段を確実に上ることが、充実感をもたらし、また自信にもつながるはずだ。
 そういった意味では、目標は抽象的でも、日々の前進の目安は可能なかぎり具体的であるべきだと思う。たとえば、「遠くまで行きたいな」という夢があるなら、明日は家の前のあの角まで、明後日はその次の交差点まで、と決めるように、である。

 まず、毎日駒を進めるために、僕が採用している一つの手法は、キリが悪いところで終わる、というものである。方々で書いていることで、一部では有名かもしれない。
 これは、工作をするときに思いついた。同じものを四つ作るとしたら、たいていは、その日のうちに四つを作り終えて、「キリ良く」終わろうとする。仕事はたいていこのようにして、後片付けをして一日を終える。しかし、僕は研究をずっと仕事としてきた。実は、研究には「キリ」というものがない。キリが良いところまで、などとやってしまうと、それこそどこまでいっても終わらない。
 躰を壊すから、とにかく時間で切り上げる。「仕事が終わった」とも感じない。帰宅するのは、トイレに行くような、ちょっとした「躰のための面倒」なのである。そんな生活で気づいたのだが、キリが悪いところ、つまり中途半端な場面で作業が中断していると、翌日すぐに作業を始められるのである。
 やることが決まっているし、慣れている手順なので、起きたばかりで頭が働いていなくても、とりあえず取りかかれる。やる気などなくても始められる。とにかく、その作業を終わらせないと、なんとなく落ち着かないからだ。


 そうですよね、キリが良いところまで終わらせてしまったほうが、その日はスッキリするのだけれど、なんとなく、そこから再開するのはめんどくさくなることって、多いのだよなあ。
 あえて中途半端にしておく、という手もあるのか……

 夢の基本は、「作る」ということである。これまでに述べてきた「夢を自分で構築する」という抽象的な意味ではなく、ここでは、もっとそのものすばり、なにか材料を使って形のあるものを作ることについて書こう。
 考えて自分で見つけろ、と書いてきたが、それだけでは何をどう考えれば良いのかわからない、という人が多数だと思う。まずは一番見つけやすく、自分なりの工夫がしやすい手法として、「作る」という行動がある。手っ取り早いやり方なので、おすすめしたい。
 なんでもけっこう.作曲、作詞、作文、作画と熟語を挙げていくだけで、想像が広がるだろうし、また自分にもできそうな分野が一つくらいは思い浮かぶのではないだろうか。


 森先生は、この「作る夢」で大事なことは、「まずは人に見せないことである」と仰っています。
 今は、ネットなどで、すぐに他人に見せることが可能になっています。
 でも、そこで上手い人と比べられたり、厳しい意見を言われたりすることによって、やる気を失ってしまうことも少なくありません。
 「少なくとも一年くらいは頑張ってみる。諦めない」のが基本なのだそうです。
 見せられる手段があると、つい、見せたくなってしまうので、そういう欲求とたたかう、というのも、けっこう大事なことなのかもしれませんね。
 プロになろうというレベルであれば、「誰に何を言われてもやり続ける」くらいの「やむにやまれぬモチベーション」が必要なんでしょうけど。


 どちらかというと、「夢なんて持たずに、なんとなく生きている」という人向けなのかもしれません。
 自分なりの夢をすでに持っている人は、それを否定されて落ち込みそうな本なので。

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