琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】不運と思うな。大人の流儀6 ☆☆☆☆

不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life

不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life


 このタイトルをみて、僕は思ったのです。
 ……不運と思うな、って言うけどさ、伊集院静さんって、小説家としても作詞家としても大成功を収めていて、奥さんは夏目雅子さん(死別)に篠ひろ子さん。そういう「幸運な人」に、「お前は不運とかなんとか御託を並べるな!」って言われてもねえ……


 しかしながら、あらためて考えてみると、伊集院さんは若い頃に弟さんを水の事故で亡くされており、夏目雅子さんも若くして病死されました。
 アルコールに依存しかけていたこともあるし、けっして順風満帆な人生ではないんですよね。
 この「不運な人生などない」という言葉は、伊集院さんが自分自身に言い聞かせてきたのではないかと思うのです。
 「なんて不運なんだ!」と言いたくなる状況が人生には存在するのを承知のうえで。

 少年の頃、差別用語でなじられ殴られて家に戻った弟が、兄ちゃん、なんでボクここの家に生まれたんじゃ、と泣いた時、それは口にしちゃいけんよ、お母やんが泣くぞ、わしら男じゃけん、兄ちゃんが明日殴り返しに行ってやるから、と言うと、そうじゃの、お母やんは御飯も食べられん家もあると言うとったもんな、と話したことがあった。まだ餓死する人、行き倒れの人がいた時代だ。十五歳を過ぎた頃には私も弟も、不運とは思わなくなったし、そんなことを考える暇なく走った。
 ヤンキース松井秀喜コーチも、守備で手首が滅茶苦茶になった時も一度も、不運とは口にしなかった。大きな落馬事故で復帰まで時間がかかった武豊騎手の口からも、不運という言葉は一度も聞かなかった。
 なぜだろうか? それは己を不運と考えた瞬間から、生きる力が停滞するからではなかろうか。同時にその人の周囲の人たちを切なくなるだけで、生きる上で大切な、誰かのために生きる姿勢が吹っ飛んでしまうからだ。


 伊集院静さんのエッセイを読んでいると、説教くさいなあ、と思うことも多いのです。
 でも、その一方で、こうやって説教することができる「めんどくさいオヤジ」って、絶滅危惧種だよなあ、とも感じるんですよね。
 今のメディアでは、いろんな立場からツッコミが入ってきて、ネットで炎上すつことも多いので、どうしても八方美人になりがちです。


 家の庭仕事をしてくれている男性が、東日本大震災で行方不明になった娘さんをずっと探している、という話のなかで、伊集院さんは、こう書いておられます。

 北の街はこれから命日が続く。我が家の庭仕事をしてくれている男性の娘さんもそうである。娘さんを探し続けている父が、彼女の着ていた服が見つかり、またひとつ娘に近づいた気がする、と言ってちいさな腹をいとおしそうに見つめていた。
 娘さんを探している父親にお願いがある。
 あなたが明るい顔で笑えるものを探しなさい。それが生き残った者の使命です。
「いやです。自分一人が幸せなんて」
 それはわかるが、自分一人が笑う方がつらいことなら辛いことを選ぶのも大人の男の選択ではないかと思う。
 不運などということはこの世にはない。探したいのならとことん探すしかないのだろうが、私たちの生は、生きている誰かのためにあるのであって、不運などと言う、いい加減な、他人が勝手に思う状況の中で生きていることではないことをわかって欲しい。

 他人の人生を自分基準で判断したり、自分の人生の幸不幸を他人目線でしか評価できない、というのは、僕自身もそうだよなあ、と、これを読みながら考えていました。
 大事な人を失う、というのは「自分で幸せだと思えば、幸せなんだ」なんてシンプルなものではないのでしょうけど、生きている人は、とりあえず生き続けるしかない。
 そういうのは、「無宗教」がスタンダードな時代・国に生きている人間の強みでもあり、弱みでもあるのかもしれません。


 僕は伊集院さんのような「ちゃんとした大人」ではありませんが、読んでいて「僕もそう思ってました」と言いたくなるところがたくさんありました。

 あの葬儀場で聞いた女性司会者の声と話し方である。いかにも悲しみに満ちた口調に、正直驚いた。演技をしているのか……。
——なぜ、あんな話し方を平然とするんだ?
 いかにも情感を込めて、当人は話しているつもりだろうが、いかにもとは偽物ということだろう。私には死者を愚弄しているようにか聞こえなかった。あれでいいと言う大人の男がいたら、私の感覚がおかしいのかな。
 この頃、葬儀を斎場の司会者に託すと、二回に一回、この手のカタリ(騙りの方)のような話し方をする者がいる。聞いていて不快になる。坊主でさえ自前の御詠歌を唱えるバカモノがいる。人の死の周辺で商いをする輩は、死がいかにも特別なものと扱って、平然とそれをやる。聞くに堪えない、と思っているのは私だけなのだろうか。

 あれだけの大きな事故があった聖夜、スキーツアーのバスはどんどんスキー場にむかって運行し、若者はバスに乗り込み、楽しみにしていたスキーにむかう。その映像を映し出すテレビのニュースを上野の居酒屋で見た。
「いいんですかね、これで」
 カウンターの中から主人が言う。
「よくはないさ」
「でもあれだけの事故があったんで、親の方ももうないってことで出すんですかね」
「それも違うよ。親は子に連絡して、今は自粛できないのかと言うべきだよ。あれだけの同世代が命を失い、悲しみに暮れている家族のことを考えて、自粛はできないか、とはっきり子供に告げるべきなんだ。それが日本人というものの家族の考えだと私は思う」
「それでやめますか?」
「たぶんやめないさ、それでも子供にそれを告げるのが親のなすべきことだ」


 「大事な用事を携帯電話で済ませようとするな」なんていうのは、「いまの時代には合わないよなあ……しかも伊集院さん仙台在住だし……」とか言いたくもなったんですけどね。
 そうそう、こういうこと、言いたかったんだ!と頷きながら、僕と同世代、あるいはもう少し上の、おじさんたちが読んでいるのが頭に浮かんでくるエッセイ集。
「頑固おやじポルノ」って言われそうだけど、こういうお説教をしてくれる人、本当に少なくなりましたよね。
 あと、「アニサキスに二度もやられてしまった女性」の話を読んで、「やっぱりあの人か!」って、笑ってしまいました。
 本当にものすごく痛いらしいので、笑い事じゃないんですが。

アクセスカウンター