琥珀色の戯言

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【読書感想】サピエンス全史 ☆☆☆☆☆

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福


Kindle版もあります。

内容紹介
国家、貨幣、企業……虚構が他人との協力を可能にし、文明をもたらした!ではその文明は、人類を幸福にしたのだろうか?現代世界を鋭くえぐる、40カ国で刊行の世界的ベストセラー!


 この単行本のオビには、『銃・病原菌・鉄』の著者であるジャレド・ダイアモンドさんのコメントがあるのですが、僕が上巻の半分くらいを読んだ時点での印象は、「これ、『銃・病原菌・鉄』みたいな、人間の文明史を概観した本なのかな」だったんですよ。
 ところが、人類史の概観は、上巻でほとんど終わってしまっているのです。
 そして、この本の後半では、「これから、人類=サピエンスは、どこへ向かっていくのか?」まで、語られていくのです。
 この『サピエンス全史』を読んで、人間の歴史を辿っていくと、「身も蓋もない」というか、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」というのは、あくまでも「現在の、2016年の人間にとっての正しさでしかない」ということを考えさせられます。
 現代人にとっては、ハンムラビ法典で、「自由民」と「奴隷」への量刑が異なることや、「民主主義」を生んだアテネで、意思決定に参加できたのが男性だけだったり、そのシステムが奴隷制度によって支えられたりしていたことに対しては、違和感がありますよね。
 それに比べて、男女差別の撤廃や奴隷制度の廃止に向けて進んできた今の人類は「進化している」のだと僕も思っています。
 というか、そう思いたい、という気持ちがあるのです。
 ところが、著者のスタンスは、奴隷制度も絶対君主による専制政治も「それぞれの時代では、それが正しかった」という事実があるだけのことで、絶対的な正しさ、普遍的な正義というのは存在しないのではないか、というものなのです。


 そもそも、本当に人間は「平等」なのか?


 本当に「同じ」かどうかなんてわからないんですよね。
 でも、「平等であることが正しい」という「共通幻想」を、2016年に生きている人間の多くは抱いているのです。
 そして、昔の人たちは「平等でないのが当たり前だ」という「共通幻想」を持っていた。
 「共通幻想」なんていうと、良いイメージをもたれないかもしれないけれど、著者は人間の文明をここまで進化させてきたのは「虚構(フィクション)を信じる力」なのだと繰り返し述べています。

 伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
 現実には存在しないものについて語り、『鏡の国のアリス』ではないけれど、ありえないことを朝飯前に六つも信じられるのはホモ・サピエンスだけであるという点には、比較的容易に同意してもらえるだろう。サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない。だが、これはどうして重要なのか? なにしろ、虚構は危険だ。虚構のせいで人は判断を誤ったり、気を逸らされたりしかねない。森に妖精やユニコーンを探しに行く人は、キノコやシカを探しに行く人に比べて、生き延びる可能性が低く思える。また、実在しない守護神に向かって何時間も祈っていたら、それは貴重な時間の無駄遣いで、その代わりに狩猟採集や戦闘、密通でもしていたほうがいいのではないか?
 だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。


 「宗教を信じられなくなった、合理的に生きる現代人」というのは、集団における協調という点では、「退化」しているのかもしれません。
 ただし、宗教の代わりに、「自由」とか「民主主義」という「かたちのない虚構」が、多くの人を結びつけ、ときには命を捨ててまで「集団や理念のために」奉仕させるのです。
 著者は、その「共同幻想」の最たるものとして「お金」を挙げています。
 お金に価値があるのは、みんながそれを価値あるものだと「信じているから」なんですよね。
 そうでなければ、単なる紙切れか金属片でしかない。
 

 また、人類が狩猟採集生活から、定住して農耕をはじめた「農業革命」については、このように書かれています。

 かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
 だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
 では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。


「農業革命」は、人類という種の繁栄には大きく貢献したけれど、個々の人間を幸せにはしなかったのです。
これも当時の人にインタビューすることはできないし、当時の文献が残っているわけではないので、さまざまな歴史的遺物からみた著者の推測ではあるのでしょうけど。
 獲物を追いかける生活が不安定なのに比べて、農耕では比較的収穫が計算できるかわりに、土地に縛られるようになりました。
 そして、得られる食糧の総量が増えても、その分人口も増えていったのです。
 

 たしかに村落の生活は、野生動物や雨、寒さなどから前よりもよく守られるといった恩恵を、初期の農耕民にただちにもたらした。とはいえ、平均的な人間にとっては、おそらく不都合な点のほうが好都合な点より多かっただろう。これは、繁栄している今日の社会の人々にはなかなか理解し難い。私たちは豊かさや安心を享受しており、その豊かさや安心は農業革命が据えた土台の上に築かれているので、農業革命は素晴らしい進歩だったと思い込んでいる。だが、今日の視点から何千年にも及ぶ歴史を判断するのは間違っている。それよりもはるかに典型的な視点は、一世紀の中国で、父親の作物が収穫できなかったために栄養不足で死にかけている三歳の女の子のものだろう。はたして彼女はこんなことを言っただろうか?
「私は栄養失調で死んでいくけれど、2000年後には、人々はたっぷり食糧があって、空調の効いた大きな家で暮らすだろうから、私の苦しみは価値ある犠牲だ」


 本当に身も蓋もない話、ではありますよね。
 ただ、こういう「未来の人間のための犠牲」という「想像」に基づいて行動できることこそが、現代では「人間らしさ」ともいえるわけで。
 そして、未来の人からみれば、2016年の人間の暮らしなんて、僕からみたこの「三歳の栄養失調の女の子」と同じように感じられるのかもしれないのです。


 この『サピエンス』で、僕がいちばん考えさせられたのは、著者が「将来の人類」について想像している最後の章でした。
 これまでの人類は、外部の、あるいは自分の身体や心の問題に対して、さまざまな道具を使って状況を改善しようとしてきたのです。
 ところが、遺伝子の研究により、人間の身体の「解析」が急速に進んできました。
 そして、人間は、「自分の力で、自分たちの種の特性を変えることができる技術」を手にしようとしています。
 昔は「そんなことは技術的にできなかった」ので、考えるまでもなかったのですが、現在では、それを阻むのは「倫理の壁」だけなのです。
(もちろん、技術的にも「実用化」されるには、まだまだ時間がかかるでしょうけど)

 世界人権宣言や、世界中の政府の医療制度、国民健康保険制度、世界各国の憲法は、人間社会はその成員全員に公正な医療を提供し、彼らを比較的良好な健康状態に保たなくてはならないことを認めている。これは、医療が主に病気の予防と病人の治療にかかわっているかぎり、何の問題もなかった。だが、医療が人間の能力を高めることに専心するようになったら、何が起こりかねないのか? 全人類が、そのように能力を高める権利があるのか、それとも、新しい超人エリート層が誕生するのか?
 現代世界は、歴史上初めて全人類の基本的平等性を認めたことを誇りとしているが、これまでで最も不平等な社会を生み出そうとしているところなのかもしれない.歴史を通して、上流階級はつねに底辺層よりも賢く、強く、全般的に優れていると主張してきた。彼らはたいてい自分を欺いていた。貧しい農家に生まれた赤ん坊も、おそらく皇太子と同じくらい知能が高かった。だが、新たな医学の力を借りれば、上流階級のうぬぼれも、間もなく客観的現実となるかもしれない。
 これはサイエンス・フィクションではない。ほとんどのサイエンス・フィクションの筋書きは、私たちとそっくりのサピエンスが光速の宇宙船やレーザーガンといった優れたテクノロジーを享受する世界を描いている。これらの筋書きの核心を成す倫理的ジレンマや政治的ジレンマは、私たち自身の世界から取り出されたもので、未来を背景にして私たちの感情的緊張や社会的緊張を再現しているにすぎない。だが、未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。子供ももうけず、性行動も取らず、思考を他者と共有でき、私たちの1000倍も優れた集中力と記憶力を持ち、けっして怒りもしなければ悲しみもしないものの、私たちには想像の糸口もつかめない感情と欲望を持ち、永遠に若さを保つサイボーグと比べれば、宇宙船など物の数にも入らないではないか。
 サイエンス・フィクションがそのような未来を描くことはめったにない。なぜなら、それを正確に描こうとしても、当然ながら、私たちの理解を超えているからだ。スーパーサイボーグの生活についての映画を制作するのは、ネアンデルタール人の観客を相手に『ハムレット』を上演するのに等しい。それどころか、おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、私たちとは違った存在となるだろう。私たちとネアンデルタール人は、少なくとも同じ人類であるのに対して、私たちの後継者は、神のような存在となるだろうから。


 たとえば、アルツハイマー病の治療のために、記憶力を強化するようなDNAの操作が開発されたとして、それを「病気でない人が自分の能力を高めるために使う」ことを禁止し続けることは可能なのか?
 あるいは「人が憎悪や他人を傷つけようとする感情を抱かないようにすること」を「それは人間らしさを失うことだから」と全否定することができるのか?
 みんながそうなってくれれば、自分が理不尽に傷つけられるリスクが大きく減るとわかっていたとしても?


 松本零士さんの『銀河鉄道999』では、「限りある命だから、人間は他人に優しくなれるし、懸命に生きようとするのだ」と描かれています。
 でも、僕は子供の頃にこの作品を読んで、感動しながらも、ちょっと納得できない気持ちがあったのです。
 人間、死ななくてすむのであれば、そのほうが良いのではないか?
 死なない人間が、みんな機械伯爵みたいに「人間狩り」とかするとは限らないんじゃないの?
 そりゃ、ずっと生きられるとはいっても、ネジにされるのはまっぴらごめんだけど……


 手術をしてもらうのであれば、「私、絶対に失敗しませんから」という人にやってもらいたいですよね、それが「超人」だろうが何だろうが(「超人」が存在する時代に外科手術が必要なのかはさておき)。
 いまの政治をみていると、何かと問題ばかり起こしてしまう東京都知事は「すべてを客観的に判断して答えを出すAI」があれば、任せてしまったほうが良いのではないか、とも思えてきます。
 いままでは「そんなことは、そもそも技術的に無理だ」で済んでいたことが、これからは「倫理」の問題になっていく。
 「倫理のために、助かる可能性がある子供を、見殺しにするのか?」


 僕は、おそらくそんなに遠くない未来に、人間は自分自身を「つくりかえる」と予測しています。
 だれかがやりはじめれば、その流れを押しとどめることはできないでしょう。

「想像もつかないような未来のサピエンス像なんて、想像するだけ時間のムダ」なのかもしれませんが。


 本当に「おもしろい」ですよ、この本。
 僕はアメリカ大統領選挙の開票速報を観ながら、この本に書かれていた「人間が平等であるというのは、『共同幻想』なのだ」ということを、考えずにはいられませんでした。
 もちろん、「だから、差別を容認すべきだ」とは思わないし、きっとそれは、現代に必要な「虚構」なのだと信じてはいるのだけれど。

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