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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】カンプノウの灯火 メッシになれなかった少年たち ☆☆☆☆

カンプノウの灯火 メッシになれなかった少年たち

カンプノウの灯火 メッシになれなかった少年たち

内容紹介
いまや世界最高峰のサッカー選手となったメッシとともに、
かつて名門FCバルセロナの下部組織でプレーした少年たち。
彼らはいま、どこで、いったい何をしているのか――
将来を嘱望されながらも、道半ばでバルサを去ったかつての少年たちの現在を追う。
メッシになれなかった少年たち――彼は、それぞれの人生を歩んでいた。


 書店で見かけて購入。
 僕はなぜか、成功したスーパースターよりも、成功に近づきながらも、結果的にうまくいかなかった人たちに魅力を感じてしまうのです。
 いや、魅力を感じてしまうというか、共感してしまう。
 僕自身が「そちら側」の人間である、ということもあるのでしょうね。

 十五年前に撮られた、一枚の写真がある。
 FCバルセロナの下部組織の、とある試合での選手の集合写真だ。
 僕がそれを目にしたのは、カンプノウの最上階にある記者席でのことだった。
 知人に借りた、バルサの育成関連の山のような資料の中に、忘れ去られたように一枚挟まれていた。
 古ぼけたセピア色の景色の中で、少年たちがはにかんだ表情を浮かべている。
 愛するクラブのユニフォームを身につけた彼らの、その誇らしげな顔からは、膨らんでいく喜びと、ひと握りの不安が伝わってくる。
 丸々と太った少年がいる。こういう子供がやらされるのは、決まってゴールキーパーだ。
 気の強そうな、リーダーの雰囲気を醸し出す子がいる。ほっそりと痩せた子に、屈強なフィジカルをもつ子がいる。早く蹴りたくてしかたないのだろう、両手でボールをつかんだ子は今にも駆け出していきそうだ。
 集合写真の前段に、さらさらした髪の少年がいた。
 小さな右手が、自らの左足を大事にいたわるように、そっと包んでいる。たくさんの少年のなかで、彼はとりわけ華奢で小さく見えた。
 それは十三歳のリオネル・メッシだった。
 彼がバルサに入って間もなく撮られた、数少ない写真のなかの一枚だ。


 この本、サッカー界のスーパースター、リオネル・メッシ選手とバルセロナの下部組織でチームメイトだった少年たちの「その後」を追い、現在の彼らにインタビューしたものなのです。
 こういう企画って、「幼少時のメッシはどんな選手、少年でしたか?」という話に終始しがちなのですが、著者は、メッシではなく、「彼ら自身」のことについて丹念に話を聞いているのです。


 この本の主旨を読んだとき、僕はこんなふうに考えていました。
 ああ、これは「メッシになれなかった、挫折した人々」のトラウマと人生の彷徨を描いているのだな、と。
 そこには、プロッサッカー選手になれなかった悔しさや、自分自身への苛立ちが告白され、彼らは人生に絶望しているはずだ。


 でも、この本を読んでみて、それは僕の思い込みだったことがわかりました。
 彼らは、現在20代の終わりを迎えているのですが、今もサッカーに関わる仕事をしているのは、ごくひとにぎり。
 ボクシングのトレーナーになって、自分と同じような立場の移民の子どもたち(かなりの「ワル」だった子どももいるそうです)の指導に生きがいを見出している人もいれば、動物に関わる仕事がしたい、と飼育員をやっている人もいます。
 彼らは、「メッシになれなかった人生」を生きているわけではなくて、ディオン・メンディやロジェール・フランクの人生を生きているのです。
 彼らの名前をあげても、「ああ、あの選手か!」と思うのは、ごくごく一握りのバルサ・マニアだけでしょうけど。
 バルセロナでの夢が実現しなくても、多くの選手はバルセロナを応援しているし、当時の仲間たちへの親近感を抱き続けている。
 現在のメッシに対しても、「メッシと一緒にプレーしていたことを誇りに思う」と語っている人がほとんどでした。
 彼らは、いまでも心の中でつながっているし、それはメッシも同じなのです(この本のなかに、「昔の仲間」に対してメッシがとった行動のひとつが、当事者の話として紹介されています)
 その一方で、失業率の高さや宗教問題など、現在のスペインやヨーロッパが抱えている問題に、彼らも無縁ではいられません。


 この本を読んでいて痛感するのは「子どもの才能を見出して育成することの難しさ、残酷さ」なんですよね。
 バルセロナの育成システムは、世界的に有名で、各地から有望な子どもをスカウトしてきて下部組織からバルセロナのシステムを叩き込んでいきます。
 ただ、子どもの成長曲線には、個人差があって、そのことが、残酷な結末を生むことがある。
 1シーズンで40ものゴールを決めて、天才ストライカーとして期待されていた、ディオン・メンディさんは、「身体能力の高さ」が長所で、他の選手との接触プレイで遅れをとることはなかったそうです。
 ところが、彼のアドバンテージは、永遠のものではありませんでした。

 サッカー選手としてのキャリアは順調だった。少なくとも、俺も、周りも、誰もがそう思ってた。最初だけじゃない。どのカテゴリーでもゴールを決めたし、十六、十七歳のときにも得点王にもなった。ただ、今思えばそのことからなんだろうな。いろんなことがうまくいかなくなったのは。
 少しずつ、何かが変わってきた。
 最初にそれに気づいたのは、何でもない体と体の接触だった。昔なら相手をふっ飛ばしてたんだが、それがどうにもうまくいかなくなった。気のせいかと思ったよ。いや、そう思おうとしたのかもしれないな。
 しかし勘違いなんじゃなかった。変化は残酷だったよ。俺は昔みたいに、相手をスピードで抜けなくなっていった。昔は誰にも当たり負けしなかったが、ぶつかっても相手が倒れなくなることが増えたんだ。
 周りの選手のフィジカルが急激に伸び、体がたくましくなってきた。そして、それまでは絶対だった俺の武器が少しずつ色あせていった。
 焦ったよ。
 そんなはずはない。そうも思った。ガツンと当たりにいった。思いっきり走った。
 でも、そのころのピッチにいたのは、もはや昔、他のやつらを圧倒してたディオン・メンデスじゃなかったんだ。


 そして、世界的に注目されるバルセロナの一員として、周囲の期待を集めてプレーするというのは、やりがいがあるのと同時に、大きなプレッシャーにさらされることでもあるのです。


 フェラン・ビラさんの項では、こんな「サッカー選手の現実」が紹介されています。

 たった1年でバルサを辞めたのにはもうひとつの理由があった。
 母親のマリア・ホセと話をしていたとき、彼女は「フェランがあなたに言ったかどうかはわからないけれど」と、少しだけ言いにくそうに、あることを教えてくれた。
「あの子は、バルサ鬱病にかかったんです」


 サッカーと鬱については、各国でさまざまな研究が行なわれている。
 スポーツは健全な精神を育成し、悩みや鬱を解消する——。
 おそらくはほとんどの人が持つそんなイメージは、必ずしも正しいとは言えない。
 特にカテゴリーやレベルが上がるほど、アスリートが精神的問題を抱える傾向は強くなるのである。
 最も信憑性が高い最近の研究例は、FIFpro(国際プロサッカー連盟)のものだ。
 2015年10月に発表された、FIFproのヴァンサン・グーテバージュ(彼も元プロサッカー選手だった)率いるチームの調査では、「プロのサッカー選手は一般人よりも鬱にかかる確率が高い」という結果が出た。
 現役選手と引退選手を含め、三分の一が鬱、あるいはそれに準ずる精神疾患にかかっているという。
 スペイン、日本を含む世界中の現役、引退選手総勢826人に行ったこの調査によると、現役選手の38%が、引退した選手の35%が精神的問題を抱えている。
 一般人で何らかの精神的問題を抱える人は約13%と言われており、割合はサッカー選手のほうが大きく上回っているのだ。
 健全な肉体と人格形成のためにスポーツを、というのは日本や欧州でも当たり前のように言われていることである。
 しかしFIFproによるこの調査は、そんな昔からの常識に疑問を投げかけている。


 フェランさんは、バルセロナ退団後も治療をつづけ、現在は症状も落ち着いて、実家の肉屋で働いておられます。
 あのメッシでさえも、プレー中に嘔吐する姿が何度か伝えられており、著者は、精神的なプレッシャーによるものではないか、と述べているのです。
 メッシは特別な選手ではあるけれど、彼にかかっているプレッシャーもまた、特別なんですよね。


 子どもの場合、とくに「親がどう関わっていくか」というのが大きな問題になります。
 いま、子どもをプロスポーツ選手にするためには、大人のサポートが必要不可欠なのです。
 彼らの監督だった、チャビ・ジョレンスさんは、こんな話をされています。

 やはり家族というものはとても大事なのです。バディは消え、ディオンはサッカーをやめ、メッシは世界一になった。その差は才能だけじゃなかった。メッシの父親は素晴らしかったです。彼はサポートだけに集中して、余計なことは一切言いませんでした。メッシが何点とっても浮かれることはなかった。それは若い選手に落ち着いてサッカーに取り組ませるうえで、欠かせないことです。


 これはたぶん、サッカー選手の親だけの話ではないはずです。
 子どもがスポーツをやっているという親は、ぜひ読んでみてほしい。


 人生、なかなか思いどおりにいくものじゃない。
 でも、それで「すべて終わり」というわけでもない。
 「夢がかなわなくても、しっかりと地に足をつけて生きていくこと」は、十分可能なのだということを教えてくれるノンフィクションです。