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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】下り坂をそろそろと下る ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
成長社会に戻ることのないいま、私たちは、そろそろ価値観を転換しなければならないのではないか。あたらしい「この国のかたち」を模索し、私たち日本人のあり方を考察した、これからの日本論!/絶賛の声、続々! 内田樹氏:背筋のきりっと通った「弱国」への軟着陸を提案する“超リアリスト”平田オリザの「立国宣言」。/藻谷浩介氏:避けてきた本質論を突きつけられた。経済や人口に先立つのは、やはり「文化」なのだ。


 少子化による人口減、頭打ちになっている経済成長など、日本は、良く言えば「成熟期」、悪く言えば「下り坂の時代」になってきている、という言説が、どんどん増え続けています。
 僕は子どもの頃、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉をきいて、「この国に生まれて、たぶん得をしているのだな」と思っていましたし、バブルの時代には「とはいえ、僕がモテるわけじゃないんだけど」と思いつつ、世間の狂想を眺めていました。
 東京では、タクシーに乗ることができなくて、1万円札をヒラヒラさせて運転手さんにアピールしていた、なんて話を聞くと、「それはどこの国の話だろう」なんて思っていたんですけどね。


 そういう意味では、いまの「下り坂の日本」に対して、あんまり「残念な感じ」は持っていないのです。
 ただ、この新書で、平田オリザさんの話を読んでいると、経済的な苦境というのは、人の心から、余裕とか思いやりみたいなものを奪ってしまうのかな、という気もするんですよね。
 太平洋戦争直後の日本での混乱と助け合い、について考えると、結局のところ、人それぞれで、苦境というのは、人の性質を極端に映し出してしまうものなのかもしれませんが。


 この本、平田さんの「四国論」であり、「日本論」であり、「司馬遼太郎論」でもあるのです。

 まことに小さな国は、衰退期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。讃岐の首邑は高松。


 と、これは、読者諸氏がよくご存じの『坂の上の雲』の冒頭の、出来の悪い贋作である。実際の司馬遼太郎さんの小説は、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という印象的な一文で始まる。舞台はもちろん讃岐ではなく、正岡子規秋山好古・真之兄弟を生んだ伊予、松山。ではなぜここで讃岐なのかという話は、のちのち書いていく。
 されこれから私は、明治近代の成立と、戦後復興・高度経済成長という二つの大きな坂を、二つながらに見事に登り切った私たち日本人が、では、その急坂を、どうやってそろりそろりと下っていけばいいのかを、旅の日記のように記しながら考えていければと思っている。

 「司馬史観」などともいわれ、毀誉褒貶が激しい司馬遼太郎さんの仕事なのですが、日本人に長年愛読され続けていることは間違いありません(僕もかなりの作品を読んでいます)。
 

 著者の平田さんは、文科省の「研究開発学校」に指定された香川県の小さな街の小学校で、小学校の全学年に1週間あたり約2時間の演劇を使った様々な教育プログラムを実施し、コミュニケーション能力を育てるという「キラリ科」の創設に関わり、そこで多くの気づきを得ておられます。
 

 子供たちがのびのびと育っているようにみえる、田舎の小学校。
 東京の人からみれば、「自然が多いし、塾だお受験だとあくせくしていなくて、うらやましい」ようにもみえていそうです。
 子どもたちも、「すれたところのない、素直ないい子たち」だと平田さんは仰っています。

 しかしながら、現実は厳しい。
 四国が大きな島であったときなら、それでよかったのだ。だが、この大きな島に、太い橋が三本もかかってしまった。
 四国経済に爆発的な変化をもたらすはずだった三本の本四連絡橋は、当初は多くの観光客を集め、物流を一変させた。しかしやがて典型的なストロー効果を起し、香川県は1995年以降20年近く、人口減少が続くこととなった。単なる転出だけではない。高松、坂出などから岡山の大学に通うような学生も多数いる。残念ながら、逆のケースは少ない。いや、実は少ないながらも例はあるのだが、それは医学部など特殊な学部学科に限られる。香川大や愛媛大の医学部が、本州から来る学生に多数を占められて県内からの進学者が減っているのだ。

 香川の子どもたちは、好むと好まざるとにかかわらず、他県との接触を強いられるようになった。香川県の教育関係者は口を揃えて言う。
「この子たちはいい子たちなんですけど、他県に行ってからコミュニケーションで苦労するんです」
 これは日本の縮図ではないか。日本という国家と民族が、もしも鎖国していけるなら、敢えて「(グローバル)コミュニケーション教育」なんてする必要はない。しかし、この狭い国土を鎖国して生きていけるのは3000万人が限度だという。何もしなくても、やがて6000万人くらいまでは人口が減るようだが、いきなり3000万人に減らすことは不可能だろう。
 では、この極東の島国が、国際社会の中でかろうじて生き延びて行くには、どのような能力が必要なのか。四国には、その先進事例があふれている。


 平田さんは、この小学校の「キラリ科」や四国学院大学の運営に関わった経験を中心に、「地方が、日本のなかで生き延びていくこと」そして、「日本が、世界のなかで生き残っていくこと」について考察しています。
 僕は四国学院大学をよく知らなくて、というか、「とくに何のイメージもなかった」というのが、正直なところです。
 平田さんは、この大学で、入試改革や講義の内容の改革に取り組んでおられ、とくに「アートの発信地」としての役割を担うことを目指しているのです。
 「アート」というと、変わった人のなかで、才能がある人だけが芸能界などでもてはやされる世界だと思ってしまうのだけれど、欧米では「演劇をやっていた経験」というのは、さまざまな世界で好意的な評価を受けるそうなのです。
 その「演劇」というのも、演者としてだけではなく、脚本や演出、照明などの裏方の仕事から、舞台をプロデュースするのに必要な会計的な観念までを含めており、その人の適性を活かすことを重んじておられるのだとか。
 地方の大学には、ここまでやっているところがあるのか、と感心させられましたし、僕は「アート」が好きなつもりで、まだまだ特別視しているのだな、ということに気づかされました。
 ひとつの職業につくというのは「演じる」側面があるのも事実なんですよね。
 医者が患者さんに説明する際などは、「いかにして自分の言葉に説得力を持たせるか」が大事ですし。


 平田さんは、今後の日本の「教育改革」においては、ペーパーテストではなく、「受験準備ができない設問」(たとえは、グループディスカッションや、社会問題に対する提言力を問うような問題)が重視されていくはずだと述べています。
 そうなると、有名進学塾に通えない、田舎の子どもにも「平等」になるのではないか?と僕などは考えていたのですが、実際は、そうはならないのです。

 要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、恊働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。こういった能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉で言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。

 この身体的文化資本を育てていくには、本物に多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。それはそうだろう。子どもに美味しいものと不味いものを交互に食べさせて、「どうだ、こっちが美味しいだろう」と教える躾はない。美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。
 骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ。理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。
 しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。
 もう一点、この文化資本の格差は、当然、貧困の問題とも密接に結びついている。たとえば、いま全国の小中学校で「朝の読書運動」が広がっている。教員は生徒たちに、「何でもいいから本を持って来なさい。どうしても本が難しければ、はじめは漫画でもいいよ」とやさしく声をかける。しかし現実には、家に一冊も本がないという家が、多く存在するのだ。これなどは端的に分かりやすい文化資本の格差である。

 文化の地域間格差はどうだろう。「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」というのは、やはり詭弁に過ぎないのではないか。


 自然に触れて、のびのび育つことができる、とは言うけれど、田舎の子どもたちは、学校の統廃合で通学に時間がかかるためにバス通学になって、自然に触れる時間が増えているわけではない。
 いくら自然に触れていても、それを「表現する能力」がないと、いまの社会では評価されないのではないか、と平田さんは仰っています。
 冷徹なようだけれど、僕も、そのとおりだな、と思うのです。
 結局のところ、「自然のなかで、のびのび育つ」ことを美化する人は多いけれど、それが「長所」として役立つ場面というのは、少ないんですよね。
 自然と触れ合うことは不要、というわけではないけれど、「文化資本」のことを棚上げにして、田舎=心が豊か、というのは、あまりにも短絡的な考え方です。


 平田さんは、子どもの教育のみならず、大人についても、「文化へのアクセス権」が大切であることを強調しています。

 私たちは、そろそろ価値観を転換しなければならないのではないか。雇用保険受給者や生活保護世帯の方たちが平日の昼間に劇場や映画館に来てくれたら、「失業してるのに劇場に来てくれてありがとう」「生活がたいへんなのに映画を観に来てくれてありがとう」「貧困の中でも孤立せず、社会とつながっていてくれてありがとう」と言える社会を作っていくべきではないか。そしてその方が、最終的に社会全体が抱えるコストもリスクも小さくなるのだ。失業からくる閉塞感、社会に必要とされていないと感じてしまう疎外感。中高年の引きこもりは、やがて犯罪や孤立化を呼び、社会全体のリスクやコストを増大させる。


 平田さんによると、西欧の社会保障、生活保障のなかには、きわめて当たり前に「文化へのアクセス権」が含まれており、公立の劇場や美術館には学生割引や障害者割引と同じように「失業者割引」が存在するのだそうです。
 失業しているのに、生活保護を受給しているのに、遊んでるんじゃない!と監視され、責められる社会と、どちらが、生きやすいのか。
 過剰なギャンブルや昼間からの飲酒のような娯楽に関しては思うところもありますが、生活保護を受けていても観劇や映画鑑賞くらいは許される、あるいは、せっかくの時間を有益に使うことが推奨させる社会のほうが、たぶん、また働こう、という気持ちにもなるんじゃないかな。


 ちなみに、平田さんは、こうも仰っています。

 子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作ること。

 これは「政治」だけの問題ではなくて、みんなで「考え方を変えていくこと」が必要なのだと思います。


「経済的な停滞」の時代でも、「人生を楽しむ」ことは、不可能じゃない。
というか、そんな時代だからこそ、生きる喜びが必要なのでしょう。


 こういう「日本は下り坂だ」という話を読むたびに、「でも、実際にこれからを生きる人は、バブル時代にお立ち台で踊ってシャンパン一気飲みしていた人たちに、『お前らはつつましく生きろ』なんて言われても、ムカつくだけだろうな」って、僕は思うんですよ。
 なぜ、自分たちだけが「我慢が必然の世代」にされてしまうのか、と。