琥珀色の戯言

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【読書感想】22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

これから大切な能力って何? いまの子どもたちの文章読解能力は本当に「危機的」? 未来の大学入試とは? 英語教育は必要? そもそも日本人の大多数が、ネイティブと同じ発音をする必要がどこにあるの? ・・・・・・祖父母から孫へ、親から子へ――。世代を超えて伝えたい、教育の「本質」を探る。


 平田オリザさんの新書といえば、『わかりあえないことから』が強く印象に残っています。


fujipon.hatenadiary.com


 平田さんは、演劇での経験を通じて、人と人とのコミュニケーションの技術について、さまざまな試みを続けているのです。
 この新書のタイトル『22世紀を見る君たちへ』からは、「若者たちへのメッセージ」という印象を受けるのですが、内容の多くは、いま、平田さんが関わっている、「入学試験や採用試験で、どうやって、人を評価していくべきなのか」そして、「学生や新入社員に、何を伝え、教えていくべきなのか」で占められているのです。
 正確には「22世紀を生きる君たちを育てる大人たちへ」という感じなんですよ。
 

 平田さんも協力して、2017年から、兵庫県豊岡市の市内38の小中学校で、演劇的手法を使ったコミュニケーション教育を行っているそうです。

 小中一貫教育の完成年度でもあった三年目の2017年度は、すべての学校で、小学六年生と中学一年生が毎学期、演劇の授業を体験することになった。
 市教委の狙いの一つは、単に演劇教育を導入するだけではなく、この手法を全教員が学ぶことで教員自身の授業力向上、さらには若手教員の授業の質向上へのモチベーションそのものを上げていこうというものだった。
 豊岡市の小中一貫教育は、この「コミュニケーション教育」と、「ふるさと教育」「英語教育」を三本柱としている。市内全小中学校にALT(外国語指導助手)を配置するほか、幼稚園/保育園からネイティブの英語に触れる機会を多く用意している。
 しかし私たちは「豊岡の英語教育は、文部科学省が謳うようなグローバル教育ではない」と公言している。豊岡の英語教育は、世界で活躍する人材、世界で闘う人材を育成するための教育ではない。豊岡そのものを国際化するための教育だ。
 たとえば、先に掲げた「コミュニケーション教育」「ふるさと教育」「英語教育」を連動させて、子どもたちが習った英単語を織り交ぜながら外国人観光客を道案内するといった授業プログラムも実施している。ここでは、正しい英語を使うことが目的ではなく、どうすれば海外から来てくれた観光客に自分の気持ちを伝えられるかの工夫が評価される。


 「演劇的手法」と言われると「何なんだそれは?」と戸惑ってしまうのですが、「知識だけでは解けない問題」が、試験的に導入されている大学院や自治体が存在するのです。
 平田さんは、岡山県奈義町という、人口6000人の山村の職員採用試験で試験的に導入されたグループワークの問題をいくつか紹介しています。

【問題通し番号八】
 以下の題材で、ディスカッションドラマ(討論劇)を創りなさい。

 皆さんは、奈義町役場に入所早々、町長から、2020年東京オリンピックの合宿所として、どこかの国の、どこかの競技チームを必ず誘致してくるように厳命を受けました。
 各自が、自分が誘致したい競技と、できれば、どこの国を呼びたいかを決めて議論をしてください。
 ディスカッションドラマですので、ディスカッションをして自分の意見を通すことが目的ではありません。各自が役割を分担して、どうすれば議論が盛り上がるかを考えて、最後に10分前後のディスカッションドラマを創っていただきます。


※参考
 それぞれの国と競技に、一長一短があればあるほど議論は盛り上がります。まず、どの競技、どの国を候補にするかを全員で考えましょう。
 さらに、誰が、どの順番で、どのような発言をすれば議論が盛り上がるかを考えてください。議論がかみ合うだけが目的ではありません。わざと脱線させたり、その脱線にヒントがあったりするかもしれません。


 いきなりこんな問題を出されたら、面食らってしまいますよね。
 とりあえず、奈義町のことをよく知っておくのは試験対策として有効と思われますが、知識というよりは、突発的な事態への対応力とか同じグループの人たちと、いかにそれぞれの長所を持ち寄って役割分担していくかが決め手になるのです。
 こういうのをきっちりこなせる人は、やっぱり「賢い」とか「地頭がいい」という感じがしますが、ペーパーテストや一般的な面接の経験しかない僕は、うまくやれる自信が全くありません。


 これからの日本は、その人自身の勉強量、知識量を主に問う試験で入試や採用の合否を決めるのではなく、こういうやり方で「優秀な人材」を発掘しようとしているのです。

 うん、これなら、お金持ちの家の子は塾や家庭教師で効率的に勉強していけるし、親も教育熱心なので、偏差値の高い学校に行く率が高い、という「教育格差」を埋められるかも!
 
 ……とはいかないのが現実なのです。

 平田さんは、読者に、身も蓋もない現実を突きつけます。

 ベネッセ教育総合研究所で行われた「教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書(2007年~2008年)」は、学力テストの上位25%のA層と下位層25%のD層に関して、親の日頃の子どもに対する働きかけ、接し方の何が影響しているのかを細かく調査している。

 一番ポイント差の大きかったのは、「家には、本(マンガや雑誌を除く)がたくさんある」という項目で、小6の国語の学力テストの結果A層は72.6%、D層は48.0%と、25ポイント近い差がある。ちなみに算数の数値でも15ポイントほどの差がある。


・子どもが小さいころ、絵本の読み聞かせをした……17.9ポイント差
・子どもが英語や外国の文化に触れるよう意識している……17.5ポイント差


 などがある。興味深いのは、次に大きなポイント差が付いたこの項目だ。


・博物館や美術館に連れて行く……15.9ポイント差


 これは、「毎日子どもに朝食を食べさせている」の10.4%差を大きく上回っている。子どもの成績を上げたければ、朝ご飯を食べさせるより美術館に連れて行ったほうがいいということになる。
 もちろん、「博物館や美術館に連れて行くような親は富裕層だから、子どもを塾に行かせられるだけではないのか?」という疑問もあるだろう。しかし浜野先生に伺った話では、同等の所得層でも、こういった文化施設に連れて行く家庭と連れて行かない家庭では、子どもの成績に有意な差が見て取れるそうなのだ。
 この点、これまで指摘してきた「教育政策と文化政策を連動させて、子ども一人一人の身体的文化資本を高める必要がある」という主張に、強いエビデンスが現れたと私は思っている。
 余談になるが、さらに興味深い指標もある。


・ほとんど毎日、子どもに「勉強しなさい」という……マイナス5.7ポイント差


 これは衝撃的な数字だ。乱暴な言い方をすれば、このD層の親たちは、「子どもに『勉強しろ、勉強しろ』とは言うが、博物館・美術館には連れて行かない」ということだ。あるいは、子どもの成績を上げようと思ったら、「勉強しろ、勉強しろ」などとは言わずに、周りにそっと本を置いておいた方がいいのかもしれない。好奇心をそそれば、子どもは勝手に学んでくれる。

 教育改革を語る上では「個性尊重」ということがよく言われる。しかし、教育社会学でよく言われるように、個性を尊重しようとすると、実は教育格差が生まれやすい。
 それはそうだろう。そこでいう「個性」は、多くの場合、家庭の教育、あるいは育った地域や、受けてきた幼児教育によって形成されてきたものなのだから。
 単純に、身も蓋もない言い方をすれば、学校で、まとめて、詰め込み教育を行った方が格差は生まれにくい。だって、みんな一律に扱うのだから。
 自由と平等は相反するのだ。
 本文中でも触れたように、私たちは、この冷徹な認識から出発するしかない。


 「詰め込み教育」とか「これまでの入試で行われてきたペーパーテスト」のほうが、実際は「機会平等」に近いのです。「演劇的なテスト」というのは、その子の地頭の良さが反映されるような気がするけれど、むしろ、これまで「勉強漬けではなく、アートや小説などの創作物に触れてきた子ども」のほうが、より有利になっていきます。
 「個性を伸ばす」「個性を評価する」という教育方針は、「身体的文化資本」を持つ人たちと、そうでない人たちの「格差」を、さらに広げていくことになります。
 最近「アートとビジネス」について語っている本が書店で目立つようになったのも、世の中の流れを考えると、自然なことなのです。
 「身体的文化資本の差」というのは、子ども自身の努力だけでは埋めがたい。


 そんななかで、「公的な教育」に、何ができるのか?
 親たちは、どうするべきなのか?


 この新書、タイトルは「未来への希望」を綴っているかのようですが、ここで予言されているのは、「さらなる格差社会の出現」なのです。
 結局のところ、大人が好奇心を持ち続けることが、子どもにも良い影響を与えるのではないか、とは思います。
 ここまで書き終えて、言うは易し、だよなあ、とわが身を振り返らずにはいられなくなるのですが。


 

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