琥珀色の戯言

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【読書感想】特攻―戦争と日本人 ☆☆☆☆

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

特攻――戦争と日本人 (中公新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
第2次世界大戦末期、追いつめられた日本陸海軍は、爆弾もろとも敵艦船などに体当たりする特別攻撃=「特攻」を将兵に課した。当初は戦果を上げたが、米軍の迎撃態勢が整うと効果は低下。軍は特攻専用の航空機「桜花」、潜水艇「回天」なども投入する。だが大勢は挽回せず、敗戦までの1年弱の間に航空機だけでも4000人が犠牲となった。本書は、日本人特異の「戦法」の起源、実態、戦後の語られ方など、その全貌を描く。


 「特攻」について書かれた本は、これまでにもたくさん出ています。
 この新書、内容的には、新事実や感動的な秘話が明かされているというわけではありません。
 僕がこれまで読んだ「特攻」関連の本のなかでは、純粋に軍事的な意味での「特攻」とその「戦果」が紹介されており、情緒的な記述は抑えめになっている印象を受けました。
 「特攻」というのは「100%死ぬ作戦」というか、「搭乗員が死ぬことを前提とした作戦」なわけで、それが、これほど大規模に行なわれた例は、太平洋戦争後期の日本軍が最初です。
 その後も、ひとつの国の正規軍全体がそういう作戦をこれほど大規模に推進した例はありません。

 いかに戦争中といえども、「死んでこい」という命令はめったに出されるものではない。後に続く兵士の士気は下がるのが当然であり、その後の戦争行為遂行能力が低下するのは必然だからである。第二次世界大戦末期、大日本帝国陸海軍はしかし、そのことを組織的に兵士に課した。「特別攻撃隊」(特攻)である。爆弾もろとも敵の艦船などに体当たりするこの戦法は、1944年10月のフィリピン戦線から翌45年8月の敗戦まで行なわれた。
 人間=兵器である特攻は、「九死に一生」どころか「十死零生」の作戦であった。
 典型は特攻専用に開発された人間爆弾「桜花」である。二トン爆弾にエンジンがついた構造。車輪はない。一度出撃したら生還はほぼ不可能であった。
 こうした特攻は、米軍にとって信じがたい作戦であり、予想していなかった。このため、当初は大きな戦果を挙げた。しかし米軍がレーダー網を駆使して迎撃態勢を整備した結果、特攻機は目的とする敵艦船に突っ込むどころか、付近に到達することさえ難しくなった。
 敗戦までの1年足らず、航空機による特攻だけでおよそ4000人の若者が死んだ。さらに、本書が明らかにしていくとおり、実際は海軍艦船などによる「水上特攻」も行われ、航空特攻に匹敵する若者が死んだ。
 特攻第一陣を送り出した海軍中将、大西瀧治郎でさえ「統率の外道」と断じたこの作戦はなぜ、いつ、誰によって始められたのか。誰が推進したのか。どんな人たちが選ばれたのか。何人が死んだのか。戦果はどれくらいあったのか。推進者たちはどのように責任をとったのか、とらなかったのか。そしてその特攻は、戦後の日本、今日に至るまでどのように評価されてきたのか。


 命令した側でさえ「統率の外道」と言っていたこの作戦はどのようにして成立し、続けられていったのか?
 そもそも「特攻」が選択されるような戦況では、すでに「まともに戦う力がない」にもかかわらず、なぜ、そこから1年近く戦いを続けたのか。
 

 (2014年10月25日)午後10時45分、「敷島隊」は「タフィー」部隊に襲いかかる。空母「セント・ロー」に一機が体当たりし、飛行甲板を貫通、炎上した。さらに魚雷と爆弾に引火し、7回にわたり爆発、30分足らずで沈没した。
 別の一機は旗艦空母「キトクン・ベイ」に体当たりを試み、果たせなかったものの爆弾が炸裂し、被害を与えた。さらに空母「ホワイト・プレーンズ」に向かった一機も、体当たりは失敗したが「至近弾」となり、機体の破片などで乗組員11人が負傷した。
 敵艦隊を攻撃する正規空母が全長200メートル以上、80機前後を搭載できるのに対し、護衛空母は文字通り艦隊の護衛、支援が主な役目である。おおむね150メートル前後、30機ほどの搭載である。
 レイテ沖海戦で、戦艦「大和」以下の栗田艦隊は米護衛空母艦隊を執拗に追いかけ、ようやく空母一隻、駆逐艦三隻を沈めた。代償に重巡三、駆逐艦一隻を失った。
 敷島隊は、栗田艦隊よりはるかに少ない犠牲で、同じく米護衛空母を撃沈した。またマリアナ沖海戦では日本の機動部隊が500機近くで正攻法の攻撃をしかけながら、一隻も沈めることができなかったことを考え合わせると、この時点での特攻の威力は驚異的であった。


 敷島隊は、5機の特攻機と4機の援護機で編成されていました。
 この「最初の特攻」での大きな戦果が、結果的に、「特攻」を続けさせることになったのです。
 逆に、当時の日本軍には、「特攻」以上の戦果を期待できる戦法が残っていなかった、とも言えます。
 しかし、この「特攻」、最初は米軍も予想していなかったため、大きな戦果をあげるのですが、対策が練られてくると、ほとんど戦果がない「死ぬための出撃」になっていくのです。
 どんどん熟練のパイロットがいなくなり、物資不足から、飛行機の質も低下し、さらに、相手は万全の防御網を敷いている。
 

 特攻が拡大するにつれ、肝心の航空機が足りなくなった。さらにマリアナ諸島、フィリピンも占領され、航空機の生産資材、燃料の輸入も一層困難になった。つまり航空機の増産は難しくなった。
 そこで、陸海軍は練習機を投入することとなった。
 海軍は「九三式中間練習機」である。機体がオレンジ色に塗られていたことから「赤トンボ」と呼ばれた。複葉機で、最高時速は200キロそこそこである。特攻の主力機の一つだった「九七式艦上攻撃機」は老朽機だったが、それでも370キロである。迎え撃つ米軍の主力戦闘機「グラマンF6F」のそれはおよそ600キロであった。「赤トンボ」投入の異常さがわかる。


 また、海軍は特攻専用兵器として、「桜花」を投入しました。
 これは自力では離陸できず、実践では他の飛行機が胴体につり下げて戦場で投下するという「人間爆弾」とも言うべきものでした。
 ところが、ただでさえ装甲が脆い飛行機が、重い「桜花」をつり下げて飛ぶのですから、敵にとっては格好の的にしかなりません。
 「桜花」は55機が出撃し、撃沈した軍艦は駆逐艦1隻のみでした。


 今の時代から振り返ってみると、なんでそんな、勝ち目のない戦争、死ぬことだけが目的のような戦闘を続けていたのだろうか、と思わざるをえません。
 当初は、日本軍にそっては「統率の外道」ながらも、それなりの戦果もあった「特攻」なのですが、終戦間際になると、敵艦に近づくことすら、ほとんどできなくなっていたのですから。


 そして、「特攻」は、飛行機によるものだけではありませんでした。
 人間魚雷「回天」や水上特攻なども行われていたのです。
 なかでも知られているのは、戦艦大和の特攻でしょう。

 「世界最強」の戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が散った。生還者は1割に満たない276人である。
「矢矧(やはぎ)」のほか「磯風」、さらに「浜風」「朝霧」「霞」も沈み、艦隊全体では4044人が死んだ(死亡者数には諸説がある)。二時間余の戦闘で、1年弱続いた航空特攻に近い犠牲者数である。


(中略)


 しかしこの水上特攻による直接的な戦果、つまり米軍の損失は戦闘機三、爆撃機四、雷撃機三の計10機と12人。これが「帝国海軍のシンボル」とも謳われた「大和」以下6隻と、およそ4000人の命とを引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。


 航空機による特攻で亡くなった若者は、およそ4000人といわれています。
 この大和の特攻だけで、ほぼ同じ人数の戦死者が出ているのです。
 まあ、「10分の1くらいは生き残っている」と言えなくもないですが……
 ほとんど航空機による援護がない状態での出撃で、無謀、というか、死に場所を求めたというか……たぶん、アメリカ軍としては、ここまで一方的に虐殺されながら、なおも向かってくる日本軍というのは、ものすごく不気味だったのではなかろうか。
 

 ソ連参戦直前の1945年夏、満州にいる18歳から45歳までの男性20万人が召集されたそうです。

 あわてて人員を揃えてみたものの、満足な兵器はなかった。たとえば満州国の首都・新京(現長春)では、召集令状に「出刃包丁とビール瓶二本」を持参するよう記されていた(『シベリア抑留――未完の悲劇』)。出刃包丁は木などにくくりつけて槍にするもので、ビール瓶は「火炎瓶」にするためであった。


 「特攻」に関しては、最初にある程度、戦果をあげてしまったのが不運だった、というのと、戦局が悪化すればするほど、とりあえず戦い続けるためには、それしか方法が残らなくなってしまった、という面がありそうです。
 戦友が特攻で命を落としてしまうと、自分だけ「嫌だ」とは言いがたいだろうし。
 彼らに特攻を命じた指揮官たちも、終戦とともに自決した人がいる一方で、「これからは新しい日本のために尽くす」と言い放ち、戦後長く生き延びた人もいます。
 

 「国のため、故郷や家族のために、自ら命を捨てる若者たち」という情に流されすぎずに、あえて、「太平洋戦争のなかの、ひとつの『戦法』としての『特攻』」を資料にあたって記した好著だと思います。
 しかしながら、こうして客観的にみても、いや、みればみるほど、やはり、「なぜこんな、戦闘ともいえない自殺行為を続けてしまったのだろう?」という疑問は消えることがないのです。
 あの時代を生きた人たちでさえ、戦争が終わってみれば、みんな、そう感じているのに。

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