琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】戦争とバスタオル ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

タイ、沖縄、韓国、寒川(神奈川)、大久野島(広島)――
あの戦争で「加害」と「被害」の交差点となった温泉や銭湯を各地に訪ねた二人旅。


ジャングルのせせらぎ露天風呂にお寺の寸胴風呂、沖縄最後の銭湯にチムジルバンや無人島の大浴場……。
至福の時間が流れる癒しのむこう側には、しかし、かつて日本が遺した戦争の爪痕と多くの人が苦しんだ過酷な歴史が横たわっていた。

■タイ…………ジャングル風呂と旧泰緬鉄道
■沖縄…………日本最南端の「ユーフルヤ―」
■韓国…………沐浴湯とアカスリ、ふたつの国を生きた人
■寒川…………引揚者たちの銭湯と秘密の工場
大久野島……「うさぎの島」の毒ガス兵器


 太平洋戦争が終わってから(国際法的な「終戦」には、いくつかの解釈が存在しているのは承知していますが)、77年。
 僕がまだ子供だった1980年くらいでも、8月6日の登校日に講堂に集められて原爆の話を聞きながら、「戦争って、原爆って怖いな……でも、もう30年以上も昔の話なんだよな……」と思っていた記憶がありますし、今の若者たちの感覚では、「歴史年表のなかのエピソード」なのかもしれません。

 僕の子どもたちは「ソ連」という国が存在した時代には生まれておらず、「歴史」としての社会主義国家に興味を持っているようです。アメリカとソ連の核戦争で世界が滅びて人類が滅亡するのではないか、という不安は、あの時代に生きていないと実感するのは難しい。

 太平洋戦争についても、戦後の「平和教育」の時代に子どもだった僕は、「日本は軍部の野心に基づいて他国を侵略し、多くの人を苦しませた」と教えられてきました。
 その後、小林よしのりさんの著書の影響もあって、「戦争にはそれぞれの事情があって、日本だけが悪かった、とか酷いことをしていたわけではない」とも思うようになりましたし、その後のイラク戦争でのアメリカの「イラク大量破壊兵器を持っている」という虚偽情報に基づく開戦に、「結局、こういうのは『勝ったもの、強いものが善悪を決めている』だけなのではないか」と考え込んでしまうところもあるのです。

 ウクライナでの戦争で行われているとされる、戦場での蛮行についての報道をみるたびに、「あの時代の日本人が異常な人たちだったわけではなく、戦争や戦場という状況は、平時にはありえないことを人にさせるのではないか」とも。
 ホロコーストの時代にだけ、ドイツに残虐な人たちが大量に生まれたとは思えませんし。

 この本、安田浩一さんと金井真紀さんの二人のノンフィクションライターが、「風呂」それも「公衆浴場」と「かつて戦場となった場所」を訪ねて、地元の人々の「あの(太平洋)戦争の記憶」を掘り起こす、という内容です。


 映画『戦場にかける橋』の舞台となった、タイのクウェー川鉄橋にて。

 クウェー川鉄橋は、のどかな観光地だった。周りにはお土産物屋さんや飲食店が立ち並び、客待ちのトゥクトゥクの座席で運転手さんが昼寝をしている。そのゆるい雰囲気のなかで、わたしの心は沈んでいった。
 橋の奥にある金属のプレートに、この旧泰緬鉄道の工事で命を落とした人の数が刻まれていた。アジア人80000±、イギリス人6540、オランダ人2830、オーストラリア人2710、アメリカ人356……。あぁ、ここで。日本軍は取り返しのつかないことをしたのだ。暗い気持ちで、その数字を指で撫でる。
 マレーシアやビルマから無理やり連行された「ロームシャ」の死者数が桁ちがいに多い。彼らは食べるものもろくにあたえられず、病気になっても放置された。大量の命が次から次に使い捨てられたのだ。ロームシャのなかには、自分が連れてこられた場所がどこなのかさえ知らずに死んでいった人も多かったという。
 命からがら終戦を迎えることができても、そのあとがまた悲惨だった。連合軍の捕虜たちは解放され、日本軍は引き上げ、ロームシャだけが残された。故郷に帰る金も方法も持たず、縁もゆかりもない土地で一生を終えたロームシャも少なくない。そんな人生ってあるだろうか……。
 プレートのいちばん下の行に、「ジャパニーズ、コリアン1000」とある。死者数がまとめてあるのは、朝鮮半島は当時日本の植民地だったため。イギリス人捕虜の日記を読むと「コリアンガード」という単語がしょっちゅう出てくる。日本軍は、多くの朝鮮人兵士に捕虜を監視する役目をやらせたらしい。


 日本は、日本軍はひどいことをした。それはわかる。
 でも、僕はこれを読みながら、「では、日本の非戦闘員たちも無差別に殺した原爆や空襲は許されるのだろうか?」とも考えずにはいられなかったのです。
 捕虜への扱いが酷くなるのは、物資が不足し、敗勢が濃厚になって精神的にも余裕がなくなっているから、という面もあるでしょうし。

 正直、この本を読んでいて、「日本は悪いことをした」と言われ続けていると、なんだかもう、うんざりしてくるのです。なぜ、日本が加害者側だった事例ばかりが採りあげられるのか?
 
 でも、この本で取材を受けている、市井の戦争経験者たちの話を読んでいくと、「どこの国が悪かった」というよりも、「戦争というのは、どこの国であっても、戦勝国であっても負けた側であっても、一般市民に理不尽な犠牲を強いる」ということが伝わってくるのです。
 そして、戦場や空襲以外でも「戦争の犠牲」になった人たちは大勢いるのです。


 神奈川県高座郡寒川町で銭湯の取材をしようとしたのがきっかけで、著者たちは、かつて日本軍がつくっていた毒ガス兵器「イペリット」にたどり着きます。

「かつて寒川にあった相模海軍工廠で、毒ガスをつくっていたと聞きました。それに関連する資料はありますか?」
 安田さんとわたしが寒川文書館に勢いよく飛び込むと、館長の高木秀彰さんが穏やかな表情で応対してくれた。
「ええ、ひと通りの資料はそろっていますよ」


(中略)


 相模海軍工廠でつくられていた「毒ガス」の正体はイペリット。その呼称はベルギーの都市イーペルに由来する。第一次世界大戦の激戦地で、ドイツ軍が初めてこの化学兵器を使った場所がイーペルなのだ。このイペリット、「ガス」といいながら常温では液体で、触れると皮膚がただれ、吸い込むと気管支や肺にひどいダメージを受ける。主な使用法は、砲弾に詰めて空中で爆発させ、その恐ろしい液体を空からばらまくというもの。風上でこの兵器を使えば、風下の広い範囲に甚大な被害が出る。市民が巻き込まれると、とんでもなく悲惨なことになる。それで第一次世界大戦後、化学兵器の使用はジュネーヴ議定書で禁じられたのだった。
 にもかかわらず、日本軍はこそこそ隠れてイペリット爆弾を製造していた。
「戦時中、陸軍は広島県大久野島という離島でイペリットを「つくっていました。当時、大久野島は日本地図から消されていた。それくらい極秘事項でした。一方、海軍がイペリットを製造していたのが寒川。やはり徹底的に秘密にされていて、ようやく真相が語られるようになったのは戦後ずいぶん経ってからでした」
 相模海軍工廠では、1941年から1944年までの4年間で約500トン、砲弾にして約4万3000発のイペリット爆弾が製造されていたことが判明している。
「多いときには3000人が働いていたようです」


 徴用工として、相模海軍工廠イペリット爆弾をつくっていた河中さんの話も紹介されています(「寒川町史研究」からの引用)

(河中さんの話)

 作業はこういうことをしていました。第一工場からパイプで原液を送っていったものを、タンクのなかへ入れる。そのさい、4メートル四方のガラスでぜんぶ仕切った作業場があるのですが、そこに穴が二つあるんです。その穴に手袋をした手をいれ、防毒用のマスクをして、完全にゴムガッパを被って爆弾の信管にイペリットを詰めるようになっていたのです。この原液をいれる作業は30分やって、1時間休みというサイクルでやっていました。(中略)
 夏の暑いときに、汗がでるでしょう。ところがもう悪いことというか、自分の体を守らなければいけないのに、防毒面のところに一円ほどの小さい玉を一つ入れるんです。そうすると、そこから通気がいくらか入るものだから、楽なんです。それをしたら自分が肺をやられるのもわかっているんですが。やっぱり暑くてたいへんだから。それで吸い込んで、要領の悪いのは、僕らのように働いているうちに、5人も6人も死んでいます。


 河中さんが相模海軍工廠にいたのは1年ほど。その間だけで5、6人の死者を見たというのだ。亡くなった人について公式記録はいっさい残っていない。

 工廠内の運動場で、いろいろな体操などをして、解散といってみんな散らばる。ところが僕らが働いていた第二工場と第一工場のものはかけ足ができないんです。ほかの工場のものはみんなかけ足でダーッと散らばるんですけれども。かけ足したらもう咳き込んで、もうそこで10分か20分、みんな咳が止まらないんです。肺をやられてしまっているものだから。


 1945年5月、河中さんは軍に入隊するために寒川を離れる。ところが石川県の小松海兵隊に入隊直後、雨の中で作業をしたら3日間40度の高熱が続いて病院送りになってしまう。イペリットを吸い込んだ後遺症だった。そしてほどなく終戦を迎える。
 戦後、河中さんの体が元に戻ることはなかった。家業を継いで大工さんになったが、土壁を解体するときに埃を吸うと咳が止まらなくなった。雨が降ると高熱が出た。徴用される前は、荷物満載のリヤカーをつけた自転車を元気よく漕いでいたのに、その後の生涯で走ることは二度と叶わなかった。


「非人道的な兵器」は、それをつくる側にも、大きな犠牲を強いていたのです。
 戦争で犠牲になるのは、前線で戦っている兵士たちだけではありません。
 戦争の記憶は、歴史とともに、英雄譚か悲惨な犠牲者の記憶だけになっていくけれど、実際は「勝つために」「これが戦争というものだから」という大義名分のもとに、記録よりもずっと多くの人が身体や心に多大な後遺症を負っているのです。

「あの戦争でされたことはずっと忘れない」
「いつまでこちらは昔の人がやったことを謝罪し続けなければならないのか」
 どちらが正しい、とも言いきれない。
 恨みや嫌悪感の連鎖というのも、その後遺症のひとつなのでしょう。


 僕の子供たちやその次の世代になれば、太平洋戦争も体験者がいなくなり、「年表上の歴史」の一部になっていくはずです。現代における、日清戦争日露戦争のように。
 この先、ずっと僕が知っていた世界が続いていくわけではない、というのは、ソ連の崩壊やウクライナ戦争ですでに証明されています。
 忘れてはいけない、と思う一方で、忘れるから人間は生きていけるという面も確実にある。
 ただ、毒ガスとか、作るのも使うのも使われるのも嫌だよね。

 権力者でも政治家でもない、ふつうの人は、SNSで国家の戦略を語るよりも、まず、「戦争になったときに自分がする、されるかもしれないこと」を考えてみるべきだと僕は思います。


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