琥珀色の戯言

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【読書感想】ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
子供たちの独立国家は、本当に実現するのか?そこで浮き彫りになる、日本の現在(いま)とは?本書は、竹島問題、憲法改正象徴天皇制などのアクチュアルなテーマを、架空の小学校を舞台に平易な言葉で論じる、一八世紀以前にヴォルテールやルソーなどが得意とした「小説的社会批評」だ。謎の園長・ハラさんが経営する小学校に通う、主人公の小学生「ぼく(ランちゃん)」とその仲間たちは、知性と個性に彩られた不思議な大人たちに見守られながら、少しずつ自分たちの「くに」を創り始める。


 このタイトルで、著者が高橋源一郎さんということで、『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編的なエッセイ集かと思って購入しました。
 ところが、読み始めてみると、自分たちの「くに」を作ろうとする小学生たちの話が繰り広げられて、面食らってしまいました。
 
 子どもの目線を借りて、いまの日本という「国」への問題提起をしようとしている、というのはわかるんですよ。
 こういう「子ども憑依」って、大概、あざとい感じになるもので、この小説(?)もその節はあるのだけれど、それでも最後まで読者を引っ張っていける高橋源一郎さんの筆力には感嘆せざるをえません。
 
 子どもたちが作ろうとしている「くに」という視点から、寓話的に描くつもりなんだな、と思いながら読むと、こんな文章が出てきて、僕は冷水を浴びせられたような気分になりました。

 そして、肝太先生は、こういった。
「この前、わたしは、みなさんに『平和』のはなしをしました。『平和』の問題こそ、自由に考えなければなりません。『おとな』になって考える必要があります。さて、銅像してみてください。二つの国があります。その二つの国の間には海があって、そこに、ちいさい無人島がある。だれも住んではいません。でも、長い間、その無人島がどちらの国に属するのか、二つの国は争ってきました。ときには、どちらの国も忘れたふりをしたこともあります。けれども、なぜか、このごろになって、その無人島のことで、再び、激しく争うようになりました。いまは、どうやら、その無人島は、あなたたちの国のもののようですが、もう一つの国は、強く、自分たちのものだと主張しているようです。そればかりか、その無人島の周りでは、その国の軍艦が姿をみせ、飛行機も旋回しています。いったい、どうすればいいのでしょうか」
 そこまでいうと、肝太先生は、遠くをみるような目つきになった。思わず、ぼくたちも、肝太先生がみつめている方角をながめた。そこには、なにもなかったのだけれど。


 これが尖閣諸島のことだということは一読していただければわかると思うのですが、自分の言いたいことを小説という形式を使って、子どもに言わせてるだけです。
 正直なところ、この本って、「腐れインテリ向け」みたいな感じがものすごくするんですよ。
 「こういう物語をちゃんと読みこなせる自分すごい!」って、気持ち良くくすぐってくれるところがある、というか、くすぐるためだけの物語なのではないか、とさえ思うんですよね。


 主人公たちの「くに」の「こく民」になりたいという女の子は「アイと雪の女王」というハンドルネームで、彼女は、東京の真ん中の自然が豊かな豪邸に住んでいます。
 これはフィクションなんだけれども、フィクションで、実在の人物(「人間」ですよね今の日本では)を想起せずにはいられないキャラクターを登場させて、あれこれ自分のスタンスを補強する発言をさせるというのは、『幸福の科学』の「霊言」と似たようなものじゃなかろうか。
 
 僕は高橋源一郎さん大好きなんですよ。
 小説も好きだし、小説論も素晴らしいし、競馬中継で、司会にもかかわらず、馬券が外れたら明らかに無念そうな姿を見せてくれるのもまた良し。
 愛について語りながらも私生活では結婚と離婚を繰り返しているのも、人間の業みたいなものを感じずにはいられません。
 
 だからこそ、この作品の「あざとさ」みたいなものが、僕は好きになれませんでした。
 これって、さまざまな暗喩が理解できるレベルの「同好の士」が、読んで、「わかるわかる」(これがわからない奴らは、愚かだよね)って、言うための物語になっているような気がしてならないのです。

 「キャラメル箱のおじさん」って、最後まで名前が明かされていないのですが(参考文献のところまで目を通せばわかります)、南方熊楠って、そんなにもったいぶるほど無名でもなければ、この新書を偶然手に取った人の80%が「察する」ことができるほど有名でもない人だと思います。
 有名週刊少年漫画誌に、南方熊楠を描いた作品が連載されていたことはあったけれど、「ああ、熊楠のことか」って、すぐに理解できる人、そして、熊楠がどんな人だったか思い浮かべることができる読者は、圧倒的多数ではないはずです。
 そういうことを、いちいち説明しないのがエレガントなのだ、という考え方は、わからなくはないのだけれど、僕は「そういうことを説明抜きで察することができる人たちの選民意識を満足させるだけ」になってしまっているように感じたんですよ。
 『幸福の科学』は、ペーパーテストの成績で教団内でのポジションが上がっていく、という話を聞いたことがあります。
 いわゆる「サヨク」が抱えている問題は、自分たちで仲間を「選別」しておきながら、なんでみんなはこの「正しい話」を理解するための勉強しないんだ、と嘆いていることにあると僕は感じます。
 彼らもまた、「ペーパーテストができる人が偉くなれ、『庶民』は彼らを崇めるのが当然の社会」をつくろうとしているだけのように思うことがあるのです。
 

「いま、きみは、知らないのに、わからないのに、大好きだっていったね。それは、ほんとうは、わからないのに大好き、なんじゃなくて、わからないから大好きなんだとおとうさんは思うんだ」
「わからないから、大好きなの?」
「そうだよ、ランちゃん。『家族』というものは、だれよりも近くにいる。だれよりも近くにいるから、ほんとうはわからないということが、わかるんだ。遠くにいると、ただみているだけだし、ただはなしているだけだから、なんとなくわかった気になる。なんとなくわかった気になって、だから、それ以上わかろうとも思わない。わからないものだけが、ほんとうに大好きになることができるんだ。なぜって、わからないから、知りたくなって、少しわかると、もっと好きになって、だから、もっとたくさん知りたくなるんだよ」


 高橋源一郎さんに「悪意」はないのだろうし、これは「試行錯誤のひとつ」なのでしょう。「この本は21世紀版の『君たちはどう生きるか』を目指して書いた」そうですし。
 ただ、この作品に関しては、僕とは相性が悪かった、としか言いようがありません。


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丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ(2) (朝日新書)

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