琥珀色の戯言

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【読書感想】ぼくらの民主主義なんだぜ ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
日本人に民主主義はムリなのか? 絶望しないための48か条。
「論壇時評」はくしくも3月11日の東日本大震災直後からはじまり、震災と原発はこの国の民主主義に潜んでいる重大な欠陥を炙り出した。若者の就活、ヘイトスピーチ特定秘密保護法従軍慰安婦表現の自由……さまざまな問題を取り上げながら、課題の解決に必要な柔らかい思考の根がとらえる、みんなで作る「ぼくらの民主主義」のためのエッセイ48。
大きな声より小さな声に耳をすませた、著者の前人未到の傑作。
2011年4月から2015年3月まで、朝日新聞に大好評連載された「論壇時評」に加筆して新書化。


 いきなり、上の「内容紹介」に噛み付いてしまうんですが、これを「著者の前人未到の傑作」と評してしまうのは、高橋源一郎という作家に対して、ちょっと失礼なんじゃないかな、と僕は思います。
 このエッセイで書かれていることは、これまで、高橋さんがずっと小説で書かれてきたこととつながっているし、ある意味、「ものすごくわかりやすく言葉にされすぎている」ようにも感じるのです。
 だからこそ、ここに著者の「善意」と「危機感」を垣間みてしまうのですが。


 僕は高橋源一郎さん大好きなのだけれど、こんな善性があって、美しい文章を書いている人が併せ持っている「魔性」みたいなものについても考えずにはいられません。
 競馬好きで、競馬中継に出演しているときには馬券が外れるとちょっとムッとしているのがわかるし(逆に当たったときは嬉しそう)、4回の離婚歴と5回の結婚歴があるという(すべて離婚の原因は高橋さんの浮気で、子どもは元妻が引き取って育てているらしい)「困ったひと」でもあるんですよね。


 かなり脱線してしまいましたが、この『ぼくらの民主主義なんだぜ』は、朝日新聞の『論壇時評』に2011年3月11日の東日本大震災後から連載されていたものをまとめたものです。
 震災前から連載は決まっていたそうなのですが、「あの時期」の日本の姿を再確認するための観測者として、高橋さんは、最適な人だったのではないかと思えてなりません。
 高橋さんは「絆」などの美しく響く言葉に頼ることもなく、いたずらに恐怖を煽ることもなく、古今のさまざまな知見や、いま、日本のあちこちで活動している人々の言葉を紹介していきます。
 

『100000年後の安全』は、フィンランドの、地下500メートルに建設される放射性廃棄物の最終処分場についてのドキュメンタリー映画だ。カメラは、施設最奥にまで入りこみ、監督は、建設に関わる人びとにインタビューする。ほんとうに安全なのか。未来の人びとに、どう警告するつもりなのか。鋭い質問に、関係者たちは、時に絶句し、考えこむ。そして、彼らは最後に、「自分のことば」で答えようとするのである。
 その応答を見て、観客は、質問する者と回答する者がいわゆる「反原発」派と「原発推進」派であることを忘れる。なぜなら、双方に、会話を成り立たせようという強い意志が感じられるからだ。制作者の意図とは異なるかもしれないが、徹底した「情報公開と透明性」を貫く、フィンランドという国の民主主義のあり方の方に、ぼくは強い印象を受けた。
 日本と同様、国家として原発を推進するフランス国家を代表してジャック・アタリは「100%の透明性ですべてを公表せよ」と発言している。


 民主主義とは何か?
 それは、ものすごく難しい問いだと思います。
 でも、この文章には、そのエッセンスが詰まっている、そんな気がするのです。
「情報公開と透明性」そして、「自分のことば」をそれぞれの人が持とうとすること。
 そのうえで、相手との会話を成り立たせようという強い意志を持つこと。


 この本を読みながら、「いまの日本は『民主主義国家』と言えるのだろうか?」と僕は考えていました。
 僕自身も「民主主義的」な人間なのだろうか?


 僕にとってもっとも印象的だったのは、この新書のタイトルにもなっている「ぼくらの民主主義なんだぜ」という項のエピソードでした。
 

 2014年3月18日に、台湾の立法院(議会)が数百人の学生によって占拠されるという事件が起こりました。
 学生たちは、中国大陸と台湾の間に交わされた、相互に飲食業・金融サービスなどの市場を開放するという「中台サービス貿易協定に反対し、この挙に及んだそうです。
 この占拠のきっかけは、3月17日に、政権与党である国民党が協定発効に関わる審議を、一方的に打ち切ったことでした。

 占拠の一部始終を記録したNHKBS1の「議会占拠 24日間の記録』に、こんな光景が映し出された。
 占拠が20日間を過ぎ、学生たちの疲労が限界に達した頃、立法院長(議長)から魅力的な妥協案が提示された。葛藤とためらいの気分が、占拠している学生たちの間に流れた。その時、ひとりの学生が、手を挙げ、壇上に登り、「徹底するかどうかについて幹部だけで決めるのは納得できません」といった。
 この後、リーダーの林飛帆がとった行動は驚くべきものだった。彼は丸一日かけて、占拠に参加した学生たちの意見を個別に訊いてまわったのである。
 最後に、林は、妥協案の受け入れを正式に表明した。すると、再度、前日の学生が壇上に上がった。固唾をのんで見守る学生たちの前で、彼は次のように語った後、静かに壇上から降りた。
「撤退の方針は個人的には受け入れ難いです。でも、ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します。ありがとう」
 それから、2日をかけ、院内を隅々まで清掃すると、運動のシンボルとなったヒマワリの花を一輪ずつ手に持って、学生たちは静かに立法院を去っていった。


 この本の「『壁』にひとりでぶつかってみる」という項には、こんなことが書かれていました。

衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」という動画を見ていて、途中で画面がよく見えなくなった。どうしたのかと思ったら、涙がこぼれそうになっていたんだ。なんて、こったい!
 これは、ひとりの無名の青年が、自分の選挙区の候補者たちのところに出かけて質問をするところを(自分で撮影した)、どう見ても面白くなさそうなドキュメンタリーだった。そして、たいていの場合、候補者の事務所は、そんな青年の希望を、時にむげに、時にやんわりと断る。気が弱そうな青年の声、断られてしまった後の徒労感。ある事務所のスタッフは「マスコミじゃないんだから」と冷たく言い放つ。それでも、気を取り直して、青年はまた別の事務所をひとりで訊ねる。そして、この映像を見ていた者は、突然、この青年がぶつかって弾き飛ばされる「壁」の正体に気づくんだ。実は、その「壁」に、ぼくたちみんなが弾き飛ばされているってことにも。


 台湾が「善」で、日本が「悪」だと言いたいわけではありません。
「効率」を考えれば、ひとりひとりの有権者に、いちいち会って説明するのが難しいのもよくわかる。
 でも、僕はこの「ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します」という台湾の青年の言葉に、思わず涙ぐんでしまいました。そうだ、そうなんだよね。すべて言う通りになるわけがないことなんて、わかっているんだけれど、みんな「自分の意見を聞いてほしい」んだ。
 そして、自分の意見に耳を傾けてもらえた、という確信があれば、みんなの決定が自分の意思と異なるものであっても、それを受け入れることができる。
 結論はさておき、こういう「他者の意見をまず聞いてみる、という態度」こそが、「民主主義」なのではなかろうか。
 そういう意味では、「マスコミじゃないから」という理由で「無視」されてしまう個人というのは、「民主主義社会では死んでいるのと同じ」なのかもしれません。
 

 高橋源一郎さんは、さまざまな実例をあげて、「民主主義」というものについて検証しておられます。
 それは、ものすごく非効率的で、歴史的には間違った答えを出すことも少なくないのだけれど、少なくとも、その「選択の責任」は「ぼくら」にあるのです。
 「誰か」にでも、「あなたたち」にでもなく。

 

 なぜか美しいと思い、体が震えた。
 何年も前の国際児童図書の大会で、ある女性が基調講演を行った。わたしは、それを偶然読み、自分の中でなにかが強く揺り動かされるのを感じた。
 彼女は、自らの個人的な、戦争と疎開の不安な経験について、それから、時に子どもたちが感じなければならない「悲しみ」や「絶望」について語った。中でも、わたしの記憶に焼きついたのは、次のことばだった。
「読書は、人生の全てが、決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても、国と国との関係においても」
 以来、わたしは、彼女が書くもの、彼女の語ることばを、探すようになった。彼女とは、美智子皇后である。

 「私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならない」。
 世の中には、物事を単純にしてみせることによって、人を誤った方向に連れて行こうとする人や勢力も存在しています。
 もし、いろんなことが面倒に思えたときには、この新書を手にとってみていただきたい。
 人生は複雑だ。
 でも、複雑だったり、思いのままにならなかったりするのは、悪いことばかりじゃないんだよ、たぶん。
 

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