琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】体験格差 ☆☆☆☆


KIndle版もあります。

習い事や家族旅行は贅沢?
子どもたちから何が奪われているのか?
この社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態とは?
日本初の全国調査が明かす「体験ゼロ」の衝撃!

【本書のおもな内容】
●低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」
●小4までは「学習」より「体験」
●体験は贅沢品か? 必需品か?
●「サッカーがしたい」「うちは無理だよね」
●なぜ体験をあきらめなければいけないのか
●人気の水泳と音楽で生じる格差
●近所のお祭りにすら格差がある
●障害児や外国ルーツを持つ家庭が直面する壁
●子どもは親の苦しみを想像する
●体験は想像力と選択肢の幅を広げる


 ああ、いわゆる「文化資本」の格差、みたいな話だよね、と思いながら読み始めました。
 実際にこの本で紹介されているデータも、「経済的な事情や親自身の体験の欠如から、子どもが興味を持った、あるいは持ちそうなことをやらせてあげられない家庭が、かなりの数存在している」というものではありました。
 そんなイメージは、みんな漠然と持っているけれど、実際に「体験の格差」についてきちんと調べたデータはほとんどなかったそうなのです。


 そして、実際に著者がインタビューした親や子供の話を読んで、当事者にとっての体験格差とそれに関するコンプレックスというのは、外部の人間が思っているよりも、ずっと大きなものなのだな、と痛感しました。

 社会政策学者の阿部彩氏は、2008年の著書『子どもの貧困』の中で、日本の一般市民においては、イギリスやオーストラリアといったほかの社会に比べて、「子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い」と述べている。
 阿部氏が紹介するイギリスの調査では、「趣味やレジャー活動」(90%)、「水泳(1ヵ月に1回)」(78%)、「1週間以上の旅行(1年に1回)」(71%)など、子どもたちの様々な「体験」に関わる項目について、大多数の大人が、子どもたちにとって必要なものと回答している。
 その一方、阿部氏自身が2015年に日本の大人を対象に行った調査では、「1年に1回の家族旅行(最低1泊)」(30.5%)や「スポーツ・チーム(野球・サッカー等や音楽活動への参加」(22.0%)などの項目について、必要であり、すべての子どもが持つことができるべきであるとする回答が、相対的にかなり低い割合にとどまっていた。
 ここからわかるのは、子どもにとって何が「必需品」であるのか? という問い、つまり、「たまたま恵まれた家庭に生まれた一部の子ども」だけではなく、「その社会に生まれたすべての子ども」が享受できて然るべきものは何か? という問いに対する答えや考え方が、それぞれの社会によってかなり違うということだ。ある社会にとっての当たり前が、別の社会にとっても同じであるわけではないように。
 私たち、日本社会で生きる大人たちの多くは、子どもたちにとっての「体験」の機会を、いまだ「必需品」だとは見なしていないのだろう。阿部氏の調査では、泊まりの旅行、スポーツ、音楽活動への参加などについて、「あったほうがよいが、持てなくても、いたしかたがない」、「必要ではない」という回答が大多数を占めている。


 「子どもの体験」に格差があるのと同時に、子どもの体験の重要性に対する、親の意識の差が大きいことが、著者たちの調査で明らかにされています。
 僕自身も子どもの頃、あれこれ習い事をさせられていて、「男なのにピアノとか嫌だなあ」と思っていましたし(今から40年前の田舎の小学生男子は、それが普通だったのではないかと思います)、家族旅行とかめんどくさいなあ、家で本でも読んでいた方がラクだなあ、というのが正直な気持ちではあったのです。

 でも、本人にとっては気乗りしない「体験」であっても、後からみて、「やっておいて良かった」と思うことはたくさんあるんですよね。
 まあ、うちの場合は、若干やりすぎの感はあったけれど。
 僕の子どもたちも、あまりにもあれこれ手を出しすぎて疲弊しているように見えたので、いくつか習い事をやめました。

 この本で、親に「サッカーがしたいです」と突然正座してシングルマザーの母親に訴えた子どもの話を読んで、「習い事が多くてめんどくさい、こんなの興味ないのに」というのは、けっこう贅沢だったのだな、とも思いました。

 今の日本では「子どもが地域のクラブに所属してサッカーをプレーする」というのは、お金だけではなく、送り迎えやさまざまな子供たちをサポートするさまざまな「当番」があり、時間的にもかなり縛られるのです。

 お金がなくても、地域の行事などで、手間暇をかければ、それなりの「体験」をすることも可能なのです。
 しかしながら、自分自身の子供時代も「食べていくのに精一杯」で、そういう体験の重要性を知る機会がなく、大人になってからも情報を集める積極性にも乏しいと、どんどん子どもたちの世界は、閉じていってしまう。

 とはいえ、まずは衣食住、続いては学習(勉強)というのが一般的な優先順位で、それ以外のことは、後回しにせざるを得ない家庭が少なからずあるのです。

 最初に、全体の中で「体験ゼロ」の子どもたちがどれだけいるのか、その割合を見ていくところから始めよう。
 ここでいう「体験ゼロ」とは、私たちが調査の項目に含めた様々な学校外の体験が、直近1年間で「一つもない」ことを意味する。要するに、スポーツ系や文化系の習い事への参加もなければ、家族の旅行や地域のお祭りなどへの参加も含めて「何もない」ということだ。お金を払わなければ参加できないものが多いが、無料で参加できるものも含まれる。
「放課後の体験」も「休日の体験」もゼロ。あるいは有料であろうが無料であろうがゼロ。こうした「体験ゼロ」の子どもたちは、調査の結果、全体のおよそ15%を占めることがわかった。逆に言えば、残りの85%、つまり大多数の子どもたちは、少なくとも何らか一つの「体験」に参加する機会を得ていたことになる。
 もちろん、「体験ゼロ」以外という形で括られる子どもたちの中には、動物園に一度行っただけという子どもから、週に何日も習い事に通い、旅行やキャンプにも何度も行っているという子どもまでが含まれている。その違いに目を向けることはもちろん重要だが、同時に、ゼロかゼロでないかの違いにも注目が必要だろう。
 こうした「体験ゼロ」の子どもたちの割合を、家庭の世帯年収別にも見てみよう。すると、世帯年収が低い家庭ほど、「体験ゼロ」の割合が高くなっていることがわかる。世帯年収が600万円以上の家庭だと「体験ゼロ」が11.3%であるのに対し、300万円未満の家庭では29.9%となった。つまり、2.6倍以上もの格差だ。
 こうした経済的な格差は、各家庭が支払っている「体験」の平均的な年間支出額にも表れている。世帯年収600万以上の家庭のおよそ12万円に対して、300万円未満の家庭では5.5万円弱。具体的な金額の面でも、およそ2.2倍の格差が生じている。


 それはそうだろう、という結果ではあるのですが、ここまではっきりと違いが出てしまうのですね。
 「お金がなくても、親の工夫で子どもにいろんな経験をさせてあげている家庭」がクローズアップされがちだけれど、やはりお金がないと「ない袖は振れない」あるいは、親の意識として「子どもの『体験』の優先順位が低い」ことが多いのです。

 正直「体験ゼロ」の子どもが15%、6〜7人に1人、というのは、「そんなにいるの?」と驚いてしまうのですが、おそらく僕には「体験ゼロの子どもが当たり前の世界」が見えていないのでしょう。
 逆に「まわりもみんな『体験ゼロ』だから、特別なこととは感じない」という状況の家庭も少なからずあるのでしょうね。
 同じ「日本」という国に住んでいても、みんなが同じ世界を見ているわけではない。

 私たちがかつて塾代を支援し、現在はすでに大人になっている男性は次のように話す。彼が子どもの頃は生活保護を受給していたという。

 お出かけとか旅行とか、基本何もなかった。保護を受けているときはどこにも行かないし。


 こうした現実が広く存在する一方で、中高生向けのスタディツアーを企画・運営する団体の方からはこんなお話も聞いた。この社会にあるまた別の現実だろう。

 これ自体は悪いことではないですが、お金のある家庭が、子どもの体験や経験を「買いにきている」と感じることは多いです。東南アジアでスタディツアーを行った際、航空機代が値上がりしていることもあり、参加費が30万円と高額な設定になりました。それにも関わらず多くの申し込みがありましたし、なかにはご兄弟ご姉妹で申し込んだ家庭もありました。


 子どもが海外も含めた色々な場所に行き、普段とは違った経験をする。そこには娯楽的な側面と教育的な側面の両方があるだろう。昨今、学力だけでなく、学生時代の活動や経験も重視される入試制度が広がりつつある。そんな中、保護者は、我が子にできるだけ多くの「体験」の機会を提供しようと考える。だが、それをすることができる親は、実際にはかなり限られているのだ。


 学力だけではない評価を、ということではじめられた「一芸入試」も、その「一芸」を身につけられる環境を考えると、テストの点数勝負よりも、かえって格差が浮き彫りにされやすい方式になってしまうのかもしれません。
 著者たちは「地方(田舎)に住んでいるからといって、自然に接する体験の頻度が高くなるわけではない」というデータも紹介しています。
 現代では、自然や多様な人々とのふれあいは「お金で買う」ものになりがちであり、それに価値を見いだし多額のお金を使える人が少なからずいるのです。

 子どもの体験格差を考えるうえでは、保護者の収入や居住地などの客観的な情報だけでなく、親子の間の関係性や働きかけについても想像し、考えをめぐらせることが重要になる。そこで、今回の調査では、親自身がまだ子どもだった頃の「体験」のあり方についても質問の項目を設けることにした。
 具体的には、自身が小学生だった頃にスポーツ系や文化系など定期的に通う習い事をしていたかどうか(「放課後」の体験)、そして自然体験や文化的体験などの機会が年に1回以上あったかどうか(「休日」の体験)を聞いた。
 その結果、親自身が小学生時代に「体験ゼロ」であった割合は19.3%だった。逆に、保護者の80.7%はかつて何らかの「体験」をしていたことになる(なお、子どもについては「昨年1年間」の体験を聞いているので、親と子の数値を同列に比較することはできない)。
 この割合を確認した上で、自身が小学生時代に「体験ゼロ」の保護者とそれ以外の保護者とで、その子どもの「体験」のあり方にどのような違いがあるかを分析した。
 すると、親自身が「体験ゼロ」の場合は子どもも「体験ゼロ」である割合が5割を超える(50.4%)のに対し、親が何らかの体験をしていた場合は子どもの「体験ゼロ」が1割強(13.4%)にとどまることがわかった。非常に大きな違いだ。これは何を意味するのだろうか。


 「習い事ばかりで、自由な時間がない」という子どものほうが、僕にとっては身近な感じがしていたのですが、経済的に「やりたいこともさせてもらえない」あるいは、「子どもの『体験』の価値を親が実感できていない」という家庭もたくさんあることを知りました。
 こういうのは、「やりすぎ」が良くないのはもちろんなのですが、「体験ゼロ」は、やっぱりかわいそうだな、とは思うのです。

 子どもの体験をサポートしてくれる組織もけっこうあるみたいなのですが、親に知識や興味がないと、そういう情報に辿り着くのも難しい。
 「格差」は拡がっていくばかり、ではありますね……


fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター