Kindle版もあります。
大学一、二年生向けの大人数の授業では、私が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材として用いることが多い。そうしたとき、学生から次のような質問を受けることがある。
「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」
私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生は客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していくと、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会で真理とみなされているが、客観的なデータではなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。
(「はじめに」より)
「それってあなたの感想ですよね」
この言葉、「ひろゆき」こと西村博之さんの決めゼリフとして有名になりました。
健康食品の宣伝では、「個人の体験談」を大きくとりあげて、万人にものすごく効果があるように思わせる手法が問題となり、「体験者個人の感想です」という注意書きが加えられるようになりました。
著者は、自身の体験に基づいて、こう述べています。
客観性への過剰な信頼について、私が違和感を感じ始めたのは、研究のなかで医療と関わるようになってからである。医療は客観性を非常に重んじる分野であり、客観的なデータの積み重ねから診断や治療法を改良していくのだが、がん看護を専門としている看護師にインタビューしたときに次のような場面があった。
春木さん:とても印象的な膀胱がんの末期の患者さんがいて、私はまだ2年目の看護師だったんですけど、先輩の看護師さんが、「あの人、痛そうじゃないよね」っていう話をするんですけど、私が患者さんのベッドサイドに行くと、「痛い」っていうんですよね。「痛い」って言ってるから「何とかしてあげたい」と思うんだけれども、まあ先生と相談して色々と対処するけれども、また違うスタッフになると、痛み止めが使われないまま来ていて、私、まだ受け持ちで行くと、「痛い」って言うんですよね。だから、「あれ、なんでこんなことになっちゃうのかな」と思って。でも「あの人は痛そうじゃないから」っていう、客観的な先輩ナースの感じ方と、「でも本人が『痛い』って言ってる以上、痛いよね、なんかしなきゃいけないんじゃないか」って思う、なんかそこのなんか違いみたいなものがまずあって。
で、ドクターに相談しても、ひどい先生なんかだと「気のせい」みたいなこと言ったりするわけですよ。「あの人、痛いって言ってるけど、そんなに痛そうじゃないよね」とか「気のせいじゃない?」みたいなことを言うときに、「どうしてそうなっちゃうのかな」っていう感じがあって。
患者の「痛い」と言う訴えが、検査データを見て客観を装う医療者の判断によって無視される。このように客観性の名のもとに患者本人の声がないがしろにされる場面は、医療現場の取材のなかでときどき見聞きするものである。
著者は、医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを、大学1、2年生の大人数の授業での題材にすることが多いそうです。
「検査データ」や「統計的な数値」を重視して、その個人が置かれた状況やその訴えに耳を傾けなくなっている「客観性重視の社会」に対して、著者は「インタビューでも、なるべく相手の言葉をこちらの判断でまとめたり、一部を抽出してしまったりせずに、生の語り口に近い形で収録する」ようにしているのです。
上記のインタビューは、たしかに語り手の肉声を再現ようとしているのが伝わってきます。
「まとめた数値やデータ、『客観性』では語り尽くせない、いや、こぼれ落ちてしまう、今、そこにいる人の体験や言葉」を重視するべき、という考えは、「なるべく多くのことをデータ化して、解析し、『効率化』し、『生産性』を高めていこうという社会」へのアンチテーゼとして、広がりをみせています。
僕自身も医療、現時点では治療する側の仕事をしているので、この看護師さんの話には、痛いところを突かれたのと同時に「とはいえ、そういうレントゲンにも検査データにも反映されない『痛み』に毎回真摯に対応するには現場は忙しすぎるし、モルヒネをその都度増量すればいいわけでもないしなあ」と考え込んでしまうのです。
お気に入りの医療スタッフに構ってほしい、とか、寂しいから苦痛を訴える、みたいな状況も、現場では起こりうるし、高齢者の認知症に伴う訴えは扱いが難しい。
なんでも「気のせい」にしてしまうわけにはいかないけれど、薬物療法にも話を聞くのにも限界があり、診察した結果や検査データ、画像所見などの「客観的な証拠」に頼らざるをえない面はあるのです。
「声の大きな個人」に振り回されて、全体像を見失ってしまうことが多いから、「客観的なデータ」を重視せざるをえないのだけど、そうすると「本来はひとりひとり異なるはずの苦痛」への対処が大雑把なものになってしまう。
難しいよね、本当に。
著者は、「客観性」を重視し、人間を数値化していった社会が陥った「落とし穴」として、優生思想に基づいて「生産性が低く、社会にとって生きている価値がない」として障害者や病気の人を安楽死させたり、断種を行ったナチスの政策や、日本の「らい予防法」2016年に神奈川県の「やまゆり園」の入所者19名が「生産性をもたない」という理由で元職員に殺害された事件を挙げています。
「やまゆり園」の事件の犯人・植松聖は、”名前を呼びかけても反応できない入所者を選んで殺害した”と供述し、重度心身障害者を「心失者」と呼んでいます。
人間として70年養う為にはどれだけの金と人手、物資が奪われているか考え、泥水をススり飲み死んで逝く子どもを想えば、心失者のめんどうをみている場合ではありません。
心失者を擁護する者は、心失者が産む”幸せ”と”不幸”を比べる天秤が壊れて、単純な算数ができていないだけです。(中略)目の前に助けるべき人がいれば助け、殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません。
植松は障害を持つ人の生活を「幸せ」と「不幸」の問題へと読み替え、必要とされる社会的コストが見合うものではないのは「単純な算数」だと語る。この「幸せ」を測る「算数」とはなんのことだろうか。人が生活するために必要な福祉的なコストのことだろうか。いずれにしても効率と生産性を指すだろう。彼は、人間が数値化され、障害を持つ人は無用であり、社会から排除されるべきだと考えている。やまゆり園で他の所員たちによる深刻な虐待が横行するなかで、植松が優勢主義的な差別意識をもつようになったと言われている。福祉職・介護職をめぐる劣悪な労働環境が背景にはあるだろうし、植松個人の問題ではなく我々自身のなかにある集合知的な思考の問題でもある。
あの事件で、植松容疑者に共感し、その考えを支持している人を、ネット上ではかなりたくさん見てきました。
僕自身の考えとしては、「人間の幸・不幸とか『生きている価値』なんて、他の人間が勝手に決められるようなものじゃないだろう」なのです。
でも、劣悪な労働環境のなかで、なんとか生活をしていて、自分より劣っている(と考えている)相手の「生産性の低さ」を理由に殺してしまう介護職員がいる一方で、莫大な財産と発言力を持っているハリウッドスターが、マイノリティに配慮し、ボランティア活動に熱心な社会というのは、イビツだな、とも感じてしまうのです。
自分に余裕があれば、他者にも優しくしやすいよね。もちろん「自分だってこんなに頑張って成功したのだから、ダメなのはお前の努力不足!」というタイプの人もいるのですが。
著者は、ひとりひとりのことば、「語り」の重要性を指摘しています。
個別の人生や個別の出来事を一人称の視点から分析するとき、外から見た客観的な指標では見えてこない具体的な像が生まれる。客観的なデータの背景に横たわる血肉の通った生の姿を理解できるようになり、読み手をなにかの行為へ向けて触発する。
また、語りを大事に扱うことは、語る人の経験を大切に扱うことである。一人一人の人生はまったく異なる。これは、「個性的」といった話ではなく、どうしたって対人関係や環境、行動は一人ひとり異なるという意味だ。人と異なる部分はしばしば偶然の出来事、とりわけ困難や苦痛にかかわる。生まれ育った環境は人によって異なる。貧困や差別もあるし、障害や病などの身体的な条件も異なる。そのため、個性的であろうがなかろうが、人生は否応なく一人ひとり異なるものになる。苦労や苦痛は取り替えが利かない偶然性と個別性において人を襲う。語りはまさにこれらを映し出す。
一人ひとりの苦労の経験は、科学的な客観性に回収することができない。だから個別の苦労をそのまま尊重し描き出すことには意味がある。そしてこのような苦労は、即興的な語りのなかにこそ背景の文脈や対人関係の布置とともに保存される。それゆえに語りをそのまま大切に扱うことが、語る人の経験を大切にすることになる。
社会科学の論文のみならず新聞や雑誌がインタビューを用いるときには、要約し、わかりやすく書き直すことがほとんどである。しかし、私はあえて「語られた言葉をそのまま記録する」ことの重要性を主張していきたい。口癖の使い方や人称代名詞のゆらぎ、言い間違いのなかに、経験のひだと複雑さが表現されるからだ。語りのディテールを尊重しながら多様な出来事のあいだのつながりを考えることで、本人も気づいていない経験の隠れた意味を浮かび上がらせることもできる。
僕はこれを読みながら、誰にも添削されない個人のブログの記述には、こういう「語り」が多いよなあ、と考えていました。「3行でまとめて」とネットの人たちは言いたがるけれど、まとめてしまうことで、伝わらなくなるものはあるのです。
作家の百田尚樹さんが『愛国論』という本での田原総一朗さんとの対談のなかで、こんな話をされています。
百田尚樹:評論家なんかはよく「この小説にはテーマがない」と、いったりします。たとえば「戦争は絶対にダメである」というテーマが重要だ、とかね。そんな意見を聞くと私は、だったら原稿用紙を500枚も600枚も埋めていく必要なんかない。「戦争はダメだ」と1行書けば済むじゃないか、思います。
田原総一朗:うん、そりゃそうだ。
百田:小説が論文と違うのは、そこです。「戦争はダメだ」「愛が大切だ」「生きるとは、どれほどすばらしいか」なんて1行で書けば済むことを、なぜ500枚、600枚かけて書くのか。それは心に訴えるために書くんです。「戦争はダメ」なんて誰だってわかる。死者300万人と聞けばアタマでわかるし、悲惨な写真1枚見たってわかる。けれども、それはアタマや身体のほんとに深いところには入らない。そんな思いがあって、『永遠の0』という小説を書いたんです。
この新書で、著者が紹介している、さまざまな「語り」を読んでいただければ、著者が「語られた言葉をそのまま記録する」ことを重視している理由がわかります。
とはいえ、こうして一人ひとりの言葉に、丹念に耳を傾ける余裕はない、そんなことをしていては、自分の人生がすぐに終わってしまう、と僕が感じたのも事実でした。
正直なところ、タイトルで僕が想像していた「客観性が重視されすぎることへの警鐘」とは、ちょっと違った切り口の内容であり、こういうことが書かれているにもかかわらず、「あんまり『客観的』にはオススメしづらい本だな」とも思いました。
でも、こういう時代だからこそ、この本を一度読んでみて、自分を疑ってみるべきなのかもしれませんね。
ナチスの優生思想の暴走や「らい予防法」も、それを実行していた人たちは、「客観的にみて、自分は正しい」と考えていたのだから。