Kindle版もあります。
事件記者になりたい一心で産経新聞に入社した著者は、現場での同業者たちに違和感を抱くようになる。なぜ彼らは特定の勢力や団体に甘いのか。左派メディアは、事実よりもイデオロギーを優先していないか。ある時は警察と大喧嘩をし、ある時は誤報に冷や汗をかき、ある時は記者クラブで顰蹙を買い、そしてある時は「産経は右翼」という偏見と闘い……現場を這いずり回った一人の記者の可笑しくも生々しい受難の記録。
僕は1970年代はじめの生まれですから、子どもの頃は「天皇の戦争責任」とか「核戦争で人類滅亡の恐怖」とか「共産主義が理想の社会をもたらすという思想」が、人々によって真剣に語られている時代だったのです。
その後、ソ連の崩壊や北朝鮮の拉致事件、中国の経済大国化など、さまざまな社会や常識の変化を目の当たりにしてきましたし、インターネットの普及も見届けてきました。ポストペットでクマのキャラクターがメールを運んできてくれるのが嬉しかった時代から、四半世紀。
今となっては。毎日届くスパムメールの多さにうんざりしています。
この本、1991年に産経新聞に入社した事件記者の半生記なのですが、「エリート記者」ではないからこそ経験してきた、20世紀の終わりから21世紀のはじめにかけての「マスメディアの内部事情」が、かなり赤裸々に綴られています。
マスメディアに対しては、僕の家族がある事件の被害者になったときに、打ちのめされて何も話したくなかったのに、取材の記者が家に押しかけてきて、「取材を受けなかったら、何を書かれても知りませんよ!」と捨て台詞を吐いていったのを思い出します。
そのとき、「記者というのは、自分たちの取材を受けてくれない人には、何を書いてもいいと思っている人たちなのか」と痛感しました。
彼らもまた「仕事」であり、情報を多くの人に伝えることによって、社会を良くしたい、という気持ちはあるけれど、それとともに、組織のなかで出世し、自分の待遇を良くする、あるいは、敏腕記者として承認欲求を満たしたい、という「普通の人」でもあるのです。
こうしてブログをやっていると、僕自身「メディア不信」を持ちながらも、信頼度が高い情報としては、大手新聞社やテレビ局、公的機関を頼らざるをえないという、じれったさも抱えています。
だからといって、すべての情報を自分自身で「独自取材」をして集めるわけにはいかないし、ネットで個人が発信する「ニュース」は、嘘だったり、発信者の立場や思い込みによるバイアスがひどかったりするのです。
インターネットが立ち上がった当初は「マスメディアに踊らされない、真実のニュース」が直接届けられることを期待していたけれど、実際は「発信者にとってメリットがあること」ばかりで、ネットはデマの巣窟となり、人は、自分が伝える側、報道する側になると、マスメディアと同じように堕落していくのだな、と思い知らされました。
もちろん、すべてのメディアが利己的である、というわけではないけれど、「弱い人たちを助ける、彼らの声を届ける」ことを標榜しているメディアが、組織内では、パワハラ、セクハラの巣窟だった、なんていうのも、よくある話なのです。
そういう内部事情がわかるようになったのは、ネットの功績と言えるかもしれません。
本書は、1991年に産経新聞に入社して2019年に退社するまで、記者として僕が経験したことの記録である。華々しい手柄話よりは、失敗やトラブルが多いこともあって、タイトルに「受難」の言葉を入れた。何せ冒頭はクビを宣告される話なのだ。
僕は評論家や学者ではなく、ずっと現場で這いずり回ってきた記者なので、大所高所から「メディアの左傾化」を論じるつもりはない。ただ、現場でしか見えてこないメディアの実情というものがある。産経新聞は往々にして「右翼の新聞」と誤解されている。しかし、それが不当なものであることは、本書を読んでいただければおわかりになるだろう。同時に、多くのメディアが左傾化する事情も何となく見えて来るはずだ。
また、そうした堅苦しい話を抜きにして、新聞記者が現場でどういうことをしているのかについて、肩の力を抜いて楽しんでいただけるようにも書いたつもりだ。令和の今となってみると、かなり乱暴な話もあるのだが、ご容赦いただければ幸いである。
著者は、僕より少し年上なのですが、情報を得るために取材相手の警察関係者の家を探し出して「夜討ち朝駆け」(自宅の前に張り込んで関係者の話を聞いたり、疑問をぶつけて反応をみること)をやる、なんていうのは、2024年に読むと「そんなの迷惑だよなあ」と思うのです。
でも、インターネット以前の「事件記者」というのは、そういう取材対象への姿勢が是とされていた記憶があります。
僕も仕事をはじめてから、もう30年近くになるのですが、世の中の常識や「望まれる仕事への姿勢」は、こんなに変わってしまったのだなあ、と感慨深かったのです。
著者は、同期で入社した朝日新聞の「Nくん」と、毎日新聞の女性記者のことを書いています。
「Nくん」は、著者と同じ早稲田大学で、左翼組織の「学生委員長」をつとめていて、女性記者は別の大学の学生委員会にいて、Nさんを尊敬していたそうです。
Nくんとはそれなりに仲が良かったが、彼は程なくして朝日を辞めた。
それから10年以上経ったある日、国税担当になった僕は、ある全国的な組織を持つ労働組合が東京国税局査察部に強制捜査(査察)を受けた際、国税や特捜部の係官が段ボールを押収して車に積み込むおなじみの写真を撮ろうと、その組合に急行した。建物の外で推移を見守っていたら、何とNくんが出てきたではないか。
「おうっ、N、ひさしぶりじゃないか」と言ったら、彼はバツが悪そうに、「カネの話は抗弁できない。取材は拒否だ」と苦笑いを浮かべて建物の中に消えた。何と朝日を辞めて、労組の職員になっていたのだった。
毎日の女性記者はその後も毎日にいて、特派員として活躍している。
彼女がデスククラスにでもなれば、新入社員を採用する1次試験の面接担当官くらいにはなるだろう。また左派系の学者のゼミに入っていて、その担当教授から推薦をもらって朝日や毎日の面接を受けている学生は多いだろう。こうして左派系のある意味で「色のついた学生」の系譜は絶えることなく続いていくのだと思う。
朝日や毎日新聞の記者の中には、明らかに活動家系の記者がいる。その記者が事件を担当する官庁を経験したという話は寡聞にして知らない。別に事件持ち場をやらなければ新聞記者ではない、といった時代錯誤なことを言うつもりはない。ただ、その記者が書く記事、書く記事、いつもそうした「界隈の人々が喜ぶ記事」と言うことは、その記者はそれ以外に書きたい記事はないのだろうか、と邪推してしまう。
冤罪を自分で見つけて記事にする……という当時の威勢のいい目標は、半年もすると徐々に心の裡(うち)にも想起されなくなってきた。あまりにも見え透いた嘘をつく被告が多く、かれこれ100も裁判を傍聴しただろうか、と思う頃には、被告というものは少しでも自分を有利に見せようと思うものだ、と確信するようになってきた。これが意外な落とし穴なのだが……。
この本を読んでいると、日本の「知識人」というのは、もしかしたら、アホなんじゃないか、と思えてくるのです。
1968年に起こった「金嬉老事件」、知人の暴力団組員とその連れの19歳の少年を射殺した金嬉老という男が、旅館に人質をとって立ちこもった事件で、金は警察との交渉の最中に、事件を起こした理由を「在日朝鮮人である自分に対する民族差別問題」だと言い出します。ある刑事が、繁華街で暴れていた自分を咎めて「朝鮮に帰れ」と侮辱したのが原因だ、と。
在日朝鮮人に対する差別そのものはあった、あるいは、差別されている、と感じることはあったのではないかと思います。
でも、だからと言って、こんな犯罪が許されていいはずがない。事件の経緯からも、「後付けの理由」みたいに感じますし。
ところが、当時のメディアは、金嬉老を「民族差別の犠牲者」と持ち上げ、ヒーローのように扱い、警察を批判していたのです。
のちに、金嬉老は、刑務所でさまざまな「自由」が許され、特別扱いを受けていることを地裁での公判中に自ら明かして大きな問題となりました。
法務省矯正局は局長以下26人に対し停職・減給・戒告などの処分を行なった。包丁を差し入れた職員は後に服毒自殺した。
参議院法務委員会で弁護士資格を持つ社会党の亀田得治参院議員が「刑務所における管理の大きな欠陥だ」と追及している。が、静岡刑務所の処遇は、あまりにも金がヒーロー視されていたことと無関係ではない。何しろ県警本部長の頭まで下げさせて、新聞、テレビだけでなく、日高六郎、中野好夫、鈴木道彦、それに俳優の宇野重吉ら名だたる文化人、有名人らが「金さん、金さん」とおだてて囃していたのだから、今さら、刑務所の職員のせいだけにする社会党参院議員のご都合主義にも呆れてしまう。
余談だが、保守職が強い産経新聞の「正論」メンバーだっった現代中国政治の碩学、中島峰雄元東京外語大学長ですら、この事件では、銀座東急ホテルで「あなたの声を真っ向から受け止めたい」と彼に寄り添うような声明を出していることから察するに、左派にあらずんば知識人に非ず、という時代だったのだろうと思う。
僕自身も半世紀以上生きてきて、心情的には「2024年基準でいえば、やや左派寄り」という意識なのですが、SNSなどでのいま還暦くらいのちょっと先輩たち、とくに知識人・文化人とされている人たちのSNSなどでの発言には、首を傾げることが多いのです。
リベラルって、多様性とか反差別、そして自由を大事にするイメージがあったのだけれど、彼らは、ものすごく党派性が強くて、「敵」と認識した存在に対しては差別的な言動を辞さず、学歴や肩書きに「右派」以上にこだわっているように見えます。
現代の感覚で、金嬉老事件を擁護した人たちを断罪・嘲笑するのは、先ほどの「働きかたの違い」と同じで、ちょっと卑怯なのかもしれませんが、「メディアの左傾化」の原因は「マスメディアで左派人脈が受け継がれているから」というのは、ひどい話ですよね。
大学の研究室内で培養された「滅びかけた左派思想の活動家」が採用され続け、情報の受け手とは、どんどん感覚が乖離していく。
いま、メディアで偉くなっている人たちも、自分と同じ系譜の思想の後輩のほうが、自分の立場を守るのに都合がいいはずです。
この本を読んでいると、本当に「朝日新聞ってひどいな」と「朝日新聞的な思想が主流だった時代」に若かった僕でさえ呆れてしまうエピソード満載なんですよ。
イデオロギーのために、事実を歪めたり、偏りすぎた見かたをしたりしているメディアが、インターネット時代に凋落しているのは、当たり前だよなあ。
とはいえ、ネット時代だからといって、「まともなメディア」が増えているわけではないんですよね。
芸能人のスキャンダル、PV(ページビュー)稼ぎのテレビ番組の切り抜き記事や「釣りタイトル」ばかりが目立っているし、実際、そういう記事のほうが「読まれていて、メディアの経済的基盤を支えている」のも事実で、これは、読者、視聴者の問題、でもあるのですけど。