絶叫機械+絶望中止(8/31)「小さなウソほど難しい」
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20060831#p1
とても考えさせられるエントリ。
戦場で「誰か(例えばそれは母親とか恋人とか「日本人」とか)のために死ぬ」という物語は非常に美しいのだけれど、実際はそういうのって、「死ななければならない」「死ぬしかない」という状況に置かれている人間が、「○○のために」という「付加価値」みたいなものを後付けして自分を納得させているだけなのかもしれません。もちろん個人差はかなりあるのだろうけど。でも、「誰のためでもなく、ましてや、自分のためにでもなく死んでしまう」っていうのは、やっぱりあまりにも悲しすぎる。
そして、これを読んで僕はちょっと思い悩んでいるのです。
僕は、何のために仕事をしているのだろう?と。
患者さんのため? お金のため? 自分の存在証明のため? 仕事が楽しいから?
でも、「患者さんのため」なら、もっと腕の立つ医者に診てもらったほうがいいのでは?
「お金のため」というのはあるのだろうけれど、僕はもう、そんなに欲しいものって無いんです。
「自分の存在証明」に、なってるのかな今の仕事は?
「楽しい」かと問われたら、目の前で人が痛がっていて、それをなんとかしなければ自分の責任になるという状況は、けっして楽しくはありません。
実は僕を日々の仕事に向かわせているモチベーションって、実は「目の前に仕事があって、それを自分で高めていく気迫も、そこから逃げ出す勇気もない」だけなのかもしれないな、と思います。崇高な「モチベーション」なんて、自分を納得させるための言い訳でしかなくて。少なくとも普通に仕事をしていれば、周りからバカにされてプライドを傷つけられることもありませんし。
伊坂幸太郎さんの「魔王」という作品に、こんな文章があります。
「でも、戦争では、人は人を殺す」
「だから、殺人を実行するにはいくつかの要因があるんですよ。たとえば、面白いことが書いてあったんですが、戦場から帰ってきた兵士に、『なぜ人を撃ったのか』と質問をした時、一番多い答えは何かと言うと」
「殺されないために?」
「俺もそう思ったんだけど、違いました。一番多いのは、その本によれば」
「よれば?」
「『命令されたから』」
「なるほど」
「これは他の人の実験でも明らかになっているらしいんですよ。人は、命令を与えられれば、それがどんなに心苦しいことであっても、最終的には実行する」
自分ではどうしようもない状況で、誰かに命令されれば、人間というのは「殺す」ことも「死ぬ」こともできるのではないかいう気がするのです。そういう「状況」に組み込まれてしまったら、もう逃げられない。
敵前逃亡で銃殺されるか、敵に突撃してやられるか、という選択肢しかないようなシステムの中に組み込まれてしまった時点で、もうおしまい。
そして、人間というのは、自分で自分に「命令」してしまうこともあるのです。
実際のところ、こうして平和に自由に生きているつもりでも、自分で「選択」なんてしていないのかもしれません。
死ぬ間際になって「つまらない人生だった」と嘆くのも情けないし、「平和だけど淡々とした人生」を「幸せだった」と振り返るのも、なんだかちょっと物足りない。
「人生」なんて、所詮そんなものだと、あなたは言うのかもしれないけれど。