琥珀色の戯言

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グレート・ギャツビー ☆☆☆☆

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

村上春樹さんが、「自分にとって最も大事な小説」と公言されていた20世紀を代表する作品を自ら翻訳したもの。
今月(11月)10日に発売されたのですが、発売2週間で既に11万部を超えるベストセラーになっているそうです。恐るべき、村上春樹ブランド。僕もそうなのですが、村上さんの小説やエッセイのなかでしばしば取り上げられるこの作品に興味はあったものの、今まではなかなか手に取るまでには至らない、あるいは、手にとっても途中で挫折してしまっていた人たちが、一挙にこの新訳になだれこんできた、という感じなのでしょう。村上さんがしばしば「読むべき小説」として挙げておられる『カラマーゾフの兄弟』に比べれば、はるかに「読みやすそう」な作品であることも事実ですしね。
この小説の第1章の冒頭の部分と最終章の終わりの部分を村上さんは「珠玉」だと表現されているのですが、正直、1920年代のアメリカにほとんど興味がない僕にとっては、「うーん、この冒頭の部分、冗長でテンポが悪いなあ」と村上訳ですらちょっと眠くなってきたくらいなので、現代の「トレンディドラマ的な展開」「ジェットコースター・ノベル」に慣れきっている読者には、なかなか厳しい面もあるのではないかという気もするんですけど、それでも最後まで読んでしまえるところが、歴史的名作の力なのかもしれません。
 そして、僕がこれを読んでいて感じたのは、この作品が村上春樹という作家に与えた影響力の強さでした。村上さんはこの『グレート・ギャツビー』を「村上春樹風にアレンジして」訳しておられるのですが、「村上春樹を先に読んでしまっている」僕としては、この名作も「こういうところが村上春樹に影響を与えたんだなあ」というような「村上さんの文学的ルーツへの興味」の対象でしかなかったような気がするのです。先に「影響を受けた側」である村上さんの作品に親しんでしまっていると、やっぱり、「斬新さ」というのは、リアルタイムで読んだ人や村上春樹を知らずに読んだ人たちに比べたら、薄れてしまっているのだと思います。リアルタイムでいきなりレベッカを聴くのと、ジュディマリからレベッカに遡るのとでは、同じ『フレンズ』でも受けるインパクトは違うでしょうし。
 あと、「僕は、文章そのものを味わうことではなくて、ストーリーを追うことを優先している『本読み』なのだな」ということを痛切に感じました。残念なことに、「ストーリーを追うことを優先するタイプ」にとっては、この『クレート・ギャツビー』は、そんなに大きな悦びを与えてくれる作品ではないようです。それでも、この作品世界に漂う無垢な虚無感というのは、少なくとも近代以降の人間に共通した概念だとは思うのだけれども。
 僕はこれを読みながら、「自分に原著を読む力があって、この村上さんが訳したものとフィッツジェラルドの原著を比較することができたなら、きっとすごく面白いだろうなあ」と考えていたのです。はたして、この『グレート・ギャツビー』(ああ、でも僕は以前の日本語訳の『華麗なるギャツビー』というタイトルもすごく好きなんですよ)の原作は、どのくらい「村上春樹的」な作品だったのか?いつか、原著に挑戦できるくらいの英語力を身につけて、チャレンジしてみたいものです。
しかし、語学っていうのは、読める、書ける、話せる、使える、というレベルと「文学作品のリズムや文章の凄さを読み取れる」というレベルのあいだには、ものすごく大きな壁がありそうだね、オールド・スポート。
 とりあえず、村上春樹ファンとしては、「読んでおくべき作品」ではあります。ただ、「名作」を読むためには、意外と「読書力」みたいなのが必要なのだな、と、僕はこれを読みながら感じました。『グレート・ギャツビー』は、今の僕にとっては、「非常に興味深い本」ではあるけれど、「面白い本」だとは言い難い。
 僕は自分が若いころに「日本・世界の名作」をキチンと読んでおかなかったことを後悔しているのですが、今から考えてみると、「評価が定まっている名作」を読むことにこだわるより、その時点で「自分にとって面白い本」を読んでいたことは、たぶん正解だったのではないかと思うのです。むしろ、僕にとってのそういう「歴史的名作」というのは、読書体験を積んでからのほうが、読む意味があるような気がするから。

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