- 作者: 鬼頭莫宏
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/06/30
- メディア: コミック
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- 作者: 鬼頭莫宏
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/12/24
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出版社 / 著者からの内容紹介
夏休み、過疎地の村へ“自然学校”にやってきた少年少女15人。1週間が経ったある日、海辺の洞窟へ探検に入った一同は、その奥にコンピューターを持ち込んで住んでいた謎の男・ココペリと出会う。彼は自分が作ったゲームをやらないかと誘い、宇白可奈を除く14人の中学1年生が同意して契約を結ぶ。半信半疑で宿舎に戻った一同だったが、その日の夕刻、大きな物音と共に巨大ロボットが現れて…(第1話)。
まだ1巻、2巻しか読んでないんですが、いろんな意味で「ズルいなあ」と感じてしまう作品ではあるんですよね。そして、「作者はきっと『エヴァンゲリオン直撃世代』だったんだろうなあ」と。
巨大ロボット、謎の使命、少年少女、約束された死、命をかけて地球を守る……
人を無理やりに感動させるための要素をありったけミキサーに投げ込んでグルグル回したような作品で、設定としては冷静に考えれば明らかに「荒唐無稽」です。それでもこの作品に引き込まれてしまうのは、やっぱり「人は『使命を果たすための死』に対して、どう向き合っていくのだろう?」という不安と疑問を、みんなが抱えているからではないだろうかと思うのです。
これを読みながら僕は考えていたのですが、「いずれにしても自分は死ぬけど、人類を救うかどうか」というシチュエーションであれば、大部分の人は「それなら人類を救って死ぬ」と思うのです。しかしながら、この選択肢が、「自分が死ぬか、あるいは自分が生き延びて大勢の人が死ぬか」となったら、一体どのくらい「大勢の人」の命となら、僕たちは自分の命を引き換えにできるのでしょうか?
「1億人対自分ひとりの命」なら、まあ自分が死んでもしょうがないかな、と思う可能性が高いですが、じゃあ、100万人なら? 1万人なら? 100人だったらどう? 10人でもだいじょうぶ? 1対1でも、死ねる?
僕は……うーん、誰も観ていない、誰も僕がそれを選択したことを知らないようなシチュエーションであれば、100万人対僕の命ひとつでされも、なげうつ自信があんまりないなあ、と思ってしまいました。いや、どうせ自分が死ぬならいいことして死んだほうがマシだというくらいの「性善」ではあるのですけど、自分が死ななくていいという選択肢があるのなら……
正直、僕自身にとっては、「自分が死ぬこと」と「世界が滅亡すること」というのは、この「世界」を認識しているのが自分自身であるかぎり、ほとんど同じことなんですよね。僕が、っていうより「人は死ねばすべてが無」というような「合理性」って、そういうものじゃないかなあ。自分が犠牲になることに意味がある、というのは、犠牲になる人の「希望」でしかないわけです。本人は、明日の野球の試合の結果でさえ「わからない」のだから。
そして、その一方で、「こうしてダラダラ生きている間に、どんどん年をとっていき、ある日突然進行がんが発見され、家族に『幸せな人生だった』なんて述懐しながら死んでいく」なんていう未来予想図が怖くなることもあるのです。それって、本当に「幸せ」なの?自分でそう思い込もうとしているだけじゃないの?って。
実際にそうなってしまったら、たぶん僕には耐えられない状況だろうけど、こういう作品を読んでいると、「ああ、『死に場所』があって、羨ましいな」と感じることが最近多くなりました。いまの世の中だって、探せば「死に場所」なんていくらでもあるんでしょうけどね。
ほとんど「感想」になってなくてすみません。またこのマンガの続きを読んだら、感じたことを書くかもしれません。