琥珀色の戯言

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凡人として生きるということ ☆☆☆☆


凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

内容(「MARC」データベースより)
95%の凡人と5%の支配層で構成される社会。支配層が流すさまざまな「嘘」を見抜けるかどうかで、僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる-。自由な凡人人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。

 とにかく、押井監督は「仕事」と「犬」が大好きなんだなあ、ということが伝わってくる新書でした。
 「若さにこそ価値がある」「利害を伴わない友情こそ素晴らしい」というような、巷間で言われている「常識」に対して屁理屈をこねているようで、読んでいるうちになんとなく納得させられてしまう「押井節」は健在です。
 この本のなかで、押井さんは、宮崎駿監督と自分についてこんなふうに語っておられます。

 若者に対して「君たちはかけがえのない青春の中にいる。今この瞬間を大切にして生きろ」と諭す教師もいるだろう。そして、その言葉には何の問題があるわけでもない。その教師は、建前に準じようとしただけなのだ。
 あるいは別の教師が、「大人になったら楽しいことが山ほどある。今はつまらないことばかりかもしれないが、将来に夢を持って、この日常を生き抜け」と言ったとすれば、彼は本質に準じようとしたということだ。
 どちらの言葉は素直に若者の胸に届くかは、僕は教育者ではないので分からない。ただ、二人に違いがあるとすれば、自分の信念を伝えるための道具として、片方は建前を、片方は本質を使ったという、ただそれだけのことなのだ。
 これは映画制作者としての、宮崎駿監督と僕の違いでもある。宮さんは青春を賛歌する作品を作り、僕は青春の苦味を描こうとしている。宮さんの映画に出てくる少年少女はどれも健全で、まっすぐで、若者にはこうあってほしいという彼自身の思想が表れている。僕の映画には、彼の作品に出てくるような若者は登場しない。
 宮さんと僕の間に違いがあるとすれば、若者の姿に限って言えば、宮さんは建前に準じた映画を作り、僕は本質に準じて映画を作ろうとしているという、映画監督としての姿勢の差異だけだ。宮さんだって、事の本質は見えているはずで、あえて本質を語っていないだけなのだ。オヤジというのはそういう生き方もできるのである。
 先ほどの教師の例もまったく同じだが、ただし前者の教師が、心底「若い君たちがうらやましい」などと思っているとしたら、それは問題だろう。その教師はただの未熟者であり、教師たる資格はない。

 押井監督に言わせれば、「宮崎駿だって、『わかってやっている』のだ」ということなのでしょうね。たぶん、実際にそうなのだろうな、とは思います。「作品に描写されているもの」は正反対のように見えたとしても、押井さんは宮崎監督と「共通の認識」を持っていると考えておられるようです。あとは、「理想」を描くことによって、そこに近づけていこうとするのか、「現実」を描くことによって、足元を確認しようとするのか。

 押井さんは、「友達なんて必要ない」と、この本のなかで高らかに宣言しておられるんですよね。

 僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない。年賀状にしても、こちらから出すのは毎年ふたりだけ。師匠ともうひとり。さすがに出さないと失礼と思われる大先輩のふたりを除いて、年賀のあいさつを出す相手もいない。
 だから、正月にうちに配られる年賀状はどんどん減ってきた。それでもいいと僕は思っている。他人とのコミュニケーションは、こんな僕でも大事だ。いや、多くの人の才能に支えられて映画を作る僕のような人間には、コミュニケーションほど大切なものはない、と言ってもいいだろう。
 だが、それはあくまでも映画を作るという目的があってのことだ。もしも僕がたったひとりでも映画を作ることができるなら、ひとり家にこもって誰とも交わらず、黙々と作業をするだろう。
 だが、実際にはそんなことはできるはずもない。だから、僕は他人を必要とする。他人を必要とするから、他人と一晩でも二晩でも、相手に自分の考えを納得してもらえるまで、とことん話す。
 その過程で、その人とどんなふうに付き合えばうまくやっていけるかを真剣に考える。仕事仲間になるのだから、映画を作る数年の間は、その人とうまくやっていきたいと自然に思うから、そうするだけのことだ。
 逆に、話す必要もない相手とは話さない。僕は別にお友達がほしいわけじゃないからだ。友人なんてそんなもの、と思ってみれば、友人関係であれやこれやと悩むこともバカらしくなってくるはずだ。
 だから、若者は早く外の世界へ出て、仕事でも見つけ、必要に応じた仲間を作ればいいと、僕は思っている。ただ、そばにいてダラダラと一緒に過ごすだけではない仲間がきっと見つかるはずだ。
 損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得だけでしか動けないものだ。無償の友情とか、そんな幻想に振り回されてはいけない。
 そうすれば、この世界はもう少し生きやすくなる。

 僕がこれを読みながら考えたのは、スティーブ・ジョブズも、同じような思想の持ち主なのではないか、ということでした。
 そして、こういう「友達なんて必要ない。必要な『仕事仲間』だけで十分だ」と言い切れるのは、これを書いている人が、まさに「オンリー・ワン」の存在である、「映画監督・押井守」だからなのだと思います。
 逆に「押井守になれない僕たちは、せっせと年賀状を書き、とりとめもない世間話に花を咲かせ、『友達』を作っておくべきなんじゃないか」と。
 能力がない人間にとっては、こういう生き方は、かえって辛いというか、「生きやすくない」。
 いや、そんなに「友達欲しい」とか言いながらパソコンに向かっているくらいなら、「人格はさておき」他人に必要とされるくらい実力をつけて、「仕事」をしてみろよ、という押井さんの言いたいことはよくわかるんですよね。他者とのコミュニケーションが苦手でも、その人にしかできないことがあれば、周囲のほうから歩み寄ってくる例はいくらでもあるでしょうし。

 でもまあ、僕も大人になって、なんとなく「生きやすくなった」ような気はしています。
 大人って、友達が少なくても生きていけるのは確かだから。

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