- 作者: V.E.フランクル,山田邦男,松田美佳
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1993/12/25
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第二次大戦中、ナチス強制収容所の地獄に等しい体験をした彼は、その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。本講演集は、平易な言葉でその体験と思索を語った万人向けの書であり、苦悩を抱えている人のみならず、ニヒリズムに陥っている現代人すべてにとっての救いの書である。
この本は、著者のV・E・フランクルさんが1946年に行った講演をもとにしたものです。
フランクルさんは、1905年生まれの精神科医。
第二次世界大戦中に、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとに書いた『夜と霧』は、20世紀を代表する本の一冊とされています。
この本は、講演をもとにしているだけあって、専門的な本としてはとても読みやすいんですよね。
とはいえ、内容的には読み飛ばせるようなものではないし、けっして「簡単」でもないのですが。
タイトルにもあるように、V・E・フランクルさんは、この講演のなかで、「生きることを肯定する」という立場を貫いておられます。
強制収容所という「絶望」のなかで過ごし、奥様をはじめとする多くの家族を失ってもなお、「生きること」の素晴らしさを訴えかける人がいる。
それだけでも、僕などは圧倒されてしまいます。
この本のタイトルが、単に『人生にイエスと言う』ではなく、「それでも」という言葉がついていること、そしてこの「それでも」の「それ」が指すものは、とても「重い」のです。
あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうところはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く離れた外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
僕はこの部分が、すごく印象に残りました。
「私は人生にまだ何を期待できるか」ではなくて、「人生は私になにを期待しているか」
ああ、なるほど、そういうことなのか……
この言葉を聞いて、J・F・ケネディの「国家が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国家に何をできるかを考えてほしい」という有名な演説を思い出しました。
しかし、この講演は1946年に行われたものですから、もしかしたら、ケネディ大統領は、このフランクルさんの言葉をどこかで耳にして、参考にしたのかもしれません。
ここまで書いて、おそらく、「でも、そんな立派な仕事もしていないし、子どももいないし……」と言いたくなる人も多いと思うんですよ。
フランクルさんも、もちろんそういう反論が出てくることは承知していて、
けれども、たとえば失業者の場合はどうなるのか、とここで異議を唱える方もあるでしょう。でも、お忘れにならないでください。職業上の労働は、自分の人生を活動によって意味のある唯一の場ではありません。
と仰っています。
それよりは、つぎのような思考実験をするだけにしておきたいものです。ぜひ思い浮かべてみてください。あなたは、コンサートホールにすわって、大好きなシンフォニーの大好きな小節が耳に響き渡っているところです。あなたは、背筋がぞくっとするほどの感動に包まれているとします。そこで、想像していただきたいのです。心理学的には不可能でも、思考実験は可能だとおもいます――その瞬間にだれかがあなたに「人生には意味があるでしょうか」とたずねるのです。そのときたった一つの答えしかありえない、それは「この瞬間のためだけにこれまで生きてきたのだとしても、それだけの甲斐はありましたよ」といった答えだと私が主張しても、みなさんは反対されないと思います。
けれどもまた、芸術ではなく自然を体験した人にしても、おなじことでしょうし、ひとりの人間を体験した人にしてもおなじことなのです、ある特定の人を目の前にして心を捉えるあの感情、言葉で表現すると、「こんな人がいるだけでも、この世界は意味をもつし、この世界のなかで生きている意味がある」とでもいいたくなるような感情は、だれもがよく知っています。
ちなみに、「自殺はなぜ無意味か?」という問いに対して、フランクルさんは次のような話をされています。
ここでもう一度、チェスの勝負をたとえに使う必要があります。ここでわかっていただきたいのは、人生が出す問題を自殺によって「解決」しようとするのは、まったくばかげているということです。
まあちょっと、考えてもみてください。あるチェスの選手が、チェスの問題に直面して、解答がわからず、盤の石をひっくり返すとします。なんということをするんでしょうか。そんなことをして、チェスの問題の解決になるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。けれども、自殺する人はまさにそのとおりの行動をしているのです。自分の人生をほうり出しておいて、解けないように思われた人生の問題をそれで解決したと思っているのです。自殺することで人生のルールに違反しているとは思わないのです。さっきのたとえのチェスの選手が、チェスの勝負のルールを無視したのとおなじです。チェスの問題は、ルールの範囲内で、けいま飛びとか、王と塔の位置を入れ換えたり、なにか知らないですがそういったことで、いずれにしてもなんらかのチェスの手で解かなければならないのです。盤の石をひっくり返して解くというようなことがあってはけっしてならないのです。自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。
これを読みながら、僕は、この「解答」の美しさに「なるほど」と感じながらも、「しかし、自殺する人というのは、それが『答え』だと思っているわけではなくて、チェスの次の一手がどうしても思い浮かばず、苦しくてしょうがないから、盤をひっくり返してリセットしてしまうのではないか?」とも考えてしまうのです。
自殺というのは、「人生の問題を解決するため」ではなく、「苦しさに耐えかねて、人生の問題から逃亡すること」なんですよね。
それはたぶん、「間違っている」のだと僕は思います。
しかしながら、そういう状況に陥っている人が、「それはルール違反だから」という理由で納得し、もう一度人生に立ち向かっていけるのかどうか?
フランクルさんのこの解答については、僕はあんまりスッキリしなかったんですよね。
実際、「自殺が良いことだ」と思いながら自殺している人というのは、ごく一部の宗教の狂信者くらいでしょう。
それでも、自殺する人はいなくなりません。
これだけ長い間、「自殺はよくない」と多くの人が言い続けているにもかかわらず。
僕は、この本でフランクルさんが仰っていることが間違っているとは思いません。
ただ、「人生の意味」を考えることができるのは、心身に力が残っているときだけではないかと感じるんですよ。
この『それでも人生にイエスと言う』は、すばらしい本だけれど、これはあくまでも「考える余裕があるときに読んで、いざというときのために、あらかじめ心に装備しておくべきアイテム」なのです。
強迫的な希死念慮にとらわれれいるときになって読んでも(まあ、そういうときには本を読むことそのものが難しいとは思いますが)、特効薬にはなりえません。
だから、いま、この本を読んでおくべきだと、僕は思います。
そして、折をみて、読み返しておきたい。
僕はこの本を震災の1ヶ月後に読んだのですが、この感想を書くためにまた少し読み返してみて、「ああ、まだ読み終えて2ヶ月くらいなのに、やっぱり僕は人生に『イエス』って言えてないなあ」と痛感させられました。
それでも、人生に「イエス!」って、いつか言えたらいいなあ……