- 作者: 木谷恭介
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2011/09/29
- メディア: 新書
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内容紹介
83歳小説家、長く生きた。絶望の果てに―― 自死決行。結果は!?
もう充分に生きた。あとは静かに死にたい――。83歳の小説家は、老いて身体の自由がきかなくなり、男の機能も衰え、あらゆる欲望が失せ、余生に絶望した。そして、ゆるやかに自死する「断食安楽死」を決意。すぐに開始するや着々と行動意欲が減退、異常な頭痛や口中の渇きにも襲われ、Xデーの到来を予感する……。一方で、テレビのグルメ番組を見て食欲に悩まされ、東日本大震災のニュースにおののきつつも興味は高まり、胃痛に耐えられず病院に行く。終いには、強烈な死への恐怖が……! 死に執着した小説家が、53日間の断食を実行するも自死に失敗した、異常な記録。
これは「奇書系の新書」と言うべきでしょう。
正直、読んでいて、苛立つところがたくさんありました。
「死ぬ死ぬ」って言いながらも、「胃が痛いのはイヤ」「心不全で死ぬのもイヤ」。
「即身仏になった人たちのように『餓死』したい」
本当に、「死にたい」と思っているの?
断食19日目の記録。
昨日は「バカなことをやめろ」という忠告の電話が2人からあった。
それはそれで、嬉しい。
この2〜3日、雛冷えというのか、気温の低い日がつづいているが、家のなかで暖房器具に囲まれていても肌寒い。数年ぶりに長袖の下着を引っ張り出して着ている。
視力もすこし落ちたらしく、テレビの小さい文字が眼鏡をかけても、よく読めない。
胃(だと思う)痛は相変わらず、つづいている。
一昨日、ホットケーキを食べたせいか、食欲がぶり返し、“食べたい”切なさに苦しめられている。
贅沢はいわない、ドンクかサンジェルマンあたりの食パンの白い部分をむさぼるように食べたい。
……それなら、食べればいいのに……
別に病気で受けつけないわけじゃないのだから。
どんなに世をはかなんだ人間でも、そう簡単に餓死なんてできない、ということを証明してくれたというのは、意義深いことなのでしょう。
あと、ネット上などでは、「若者の本音」みたいなのは、『2ちゃんねる』に、散りばめられているけれど、「80歳をこえた高齢者の本音」っていうのは、なかなか目にすることはできませんし。
年を重ねても、「いつ死んでもいい」とか「孫の成長だけが楽しみ」なんていう境地になれるわけではないんだな、ということはわかりました。
それにしても、ねえ……
この「ツッコミ待ち」としか言いようのない、「死ぬ死ぬ老人」の新書を発売するのは、やっぱり幻冬舎だよなあ……
そして、もしこういうふうに「記録する」「本にする」という目的がなければ、この人はこんな「ゆるやかな自殺」をしようとしたのだろうかと、つい考えてしまいます。
医者としては、「死にたくないのに死んでしまう人のほうがずっと多いのだし、こういうのは勘弁してもらいたいなあ」、と思わずにはいられないのだけれども。
(ただ、「高齢者が病院で生活することのつらさ」は、すごく伝わってきました。だからといって、医療という大きなシステムのひとつの歯車である僕には、どうしようもないことですが)
「他者の目」を意識すると、人っていうのは、とんでもないことをやってしまう場合もあるのだよねえ。
逆に、「他者の目があるからこそ、踏みとどまれる場合」もあるのだろうけど。
この人の行為そのものは、褒められたものではないし、「80過ぎて、こんな『構ってちゃん行為』をするなんて」とは思います。
しかしながら、今後の世の中を考えると、「高齢者が長生きしすぎること」への不安は感じずにはいられない面もあるのです。
日本中の病院にCTスキャンやMリなどの医療機械が備えつけられ、みただけで全身のガンがわかるとかいうPET(陽電子放出断層撮影機器)がないと患者が承知しない。
しかも65歳以上の高齢者が2020年には3500万人ちかくになる。
これでは国の医療予算がいくらあっても足りないだろう。
「人間は寿命に従順であるべきだ」
というモットーのもとに、72歳で亡くなった司馬遼太郎さんの言を本気で考えてみる必要があるのではないだろうか。
ぼくの母が認知症、息子の妻の母も認知症。アシスタントをしてくれている女性の祖母は100歳まで生きたが、晩年は認知症で家族の誰かがついていなければならなかった。お手伝いさんの母親も認知症。すごいのなんか、同業の若い友人は自分の両親、奥さんの両親、4人がそろって認知症。
ぼくのちかくにいるひとたちは、ほとんど全員、認知症の親をかかえている。本人も大変だが、介護保険が立ち行かなくなるのも当然だろう。
ボケたからといって、年寄りに死ねということはできないが、『人間は寿命に従順であるべきだ』という司馬遼太郎さんの言葉の重みを真剣に考えなければならないときが来ていると思う。
いま「老々介護」が社会問題となっています。
医療の現場にいると、「自分が介護されてもおかしくないような年齢の人が、自分の親を介護している」ケースがあまりに多いことに、驚かされます。
この著者くらい「元気なひと」であればともかく、「どんなに長生きしても、介護をする側として生きて、それが終わったくらいには、自分が介護をされる側になってしまう」という人生が、「幸せ」なのかどうか。
とはいえ、「だから延命治療はやめよう」と他人には言えても、自分の身内や、自分自身だったら、そう言い切れるかどうか……
読んでいて、呆れるのと絶望するのとで溜息しか出ない新書なので、あまりおススメはしませんが、僕みたいな人間が「読んでしまう」かぎり、こういう新書は無くならないのだろうな、という気もします。