- 作者: 中村仁一
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2012/01/30
- メディア: 新書
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内容紹介
死ぬのは「がん」に限る。ただし、治療はせずに。
3人に1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。
中でもがんは治療をしなければ痛まないのに医者や家族に治療を勧められ、
拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。
現役医師である著者の持論は、「死ぬのはがんに限る」。
実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。
なぜ子孫を残す役目を終えたら、「がん死」がお勧めなのか。
自分の死に時を自分で決めることを提案した、画期的な書。
この本のタイトルを書店で見かけて、いま売れているという話を聞いたとき、暗澹たる気持ちになりました。
ああ、また「奇人医者」が、自分の経験だけから導き出した「トンデモ治療」で、世間を騒がせているんだろうな、と。
そういうのを読んで、本気にしてしまう患者さんって、けっこう多いんですよね。
で、内心、どうツッコミを入れてやろうか、と思いつつ読み始めたのですが、この新書、読んでみるとけっこうまっとうなことが書いてあるんですよね。
何が問題かというと、この壮絶な「釣りタイトル」。
実際は『大往生したけりゃ医療とかかわるな』というより、『高齢者に過剰な検査や延命治療は必要ないんじゃない?』という内容です。
たぶん、この刺激的なタイトルだから、こんなに売れているんでしょうけど、これは著者にとって本意だったのだろうか。
サブタイトルの「『自然死』のすすめ」のほうが、内容に沿っているんだけどなあ。
これぞ「幻冬舎ビジネス」。
ただし、著者が特別養護老人ホームの常勤医師ということもあり、がん治療の前線で働いている医師たちの現状には、けっこう誤解があるようです。
たしかに、プロとして自分が最善と信じる治療法を勧めるでしょう。しかし、現在、治療法が一つとは限らなくなっています。
例えば、がんの場合、手術療法、放射線療法、化学療法とありますが、外科医なら、切りたいから外科医をやっているわけでしょうから、当然、最善として手術を勧めるはず。肉屋の大将が肉を買いに来た客に向かって「この季節、魚もおいしいですよ」とはいわないでしょう。同様に、「放射線治療もいいかもしれない」などとは口にしないと思われます。紹介状を書いてもらい、放射線科医の意見も聞き、それぞれの長所、短所をはっきりさせる必要があります。さらに、できれば、他の放射線科医の意見も聞き、それぞれの長所、短所をはっきりさせる必要があります。さらに、できれば、他の放射線科医や外科医の考えも聞いた方がいいでしょう。
僕の知るかぎり、そんな外科医、いないですよ。
というか、がんの治療をやっている医者は、内科でも外科でも放射線科でも、他科の治療法に対するある程度の知識を共有していますし、治療法というのは、医者が切りたいから決めるのではなく、がんのステージ(進行度)によって、基準が決まっているのです。
内科医の僕の立場からすると、「外科医はなかなか『切りましょう』って言ってくれないよなあ」というケースのほうが多い気がします。
それに、「それぞれの治療の長所、短所をはっきりさせる」というのは、患者さんや御家族にとって、けっこう難しいのではないかと思います。
どれか「完璧な治療」があれば、僕たちも悩む必要なんてありませんし。
この件に関しては、この著者のほうが、「自分が特別養護老人ホームの常勤医師で、がんの積極的な治療には関わっていないから、最善として『自然死』をすすめているのではないですか?」とも感じます。
この新書に書いてある内容の多くは、僕が臨床をやりながら感じていることとそんなに変わりません。
御高齢で、自分の意志表明も困難で、特別養護老人ホームにずっと入所されている方に癌が見つかったとしても、手術や抗がん剤の治療のメリットよりもデメリットのほうが大きいでしょう。
長期間施設入所されている方が心停止や呼吸停止となり、「家族の希望」で救急車で搬送されてきて「やれるだけのことをやってくれ」と言われても……と困惑することもあります。
「胃ろう」についても、最近話題になっていますが、医者側も「ぜひあれはやるべきだ」と言っている人は、僕の周囲にはいません。
むしろ、施設側から、「入所を希望されるのであれば、胃ろうをつくってきてください」という希望を出されることが多いのです。
いや、この新書を読んで、「臨床の前線にいる医者と、老人保健施設の常勤医」が言い争っても、あんまり意味ないですよね。
それぞれに役割がある仕事ですから。
でもまあ、「自然死」だと脳内にモルヒネ様物質が出て、苦しくなくなるのだ、というのも「本当なのか、それ?」とは言いたくなりますね。
「死を語ることのうさんくささ」の原因は、結局のところ、「死んだ人間は、死を語ることができないから」ではあるのです。
「がんは痛くない」って書いてありますけど、それは、「意志疎通も困難になっている超高齢者」ではそう見えるだけで、僕はがん性疼痛で苦しんでいる人をたくさん見てきましたし。
たしかに私たちは、何もせずに見守ることに慣れていません。辛いことです。
だからといって、自分が苦しさや辛さから免れるために、相手に無用な苦痛を与えてもという道理はありません。「そっとしておく思いやり」もあるのです。
また、たとえ延命したとしても、悲しみはなくなりも減りもしません。ただ先送りするだけなのです。
フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」といわれているそうです(『枯れるように死にたい』田中奈保美著、新潮社)。
残される人間が、自分たちの辛さ軽減のため、あるいは自己満足のために死にゆく人間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味わわせてはなりません。医療をそんなふうに利用してはいかんのです。
辛くても「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが”家族の愛情”というものでしょう。
そういう視点に立てば、「死に目にあう」というのも同様です。本人と話ができる状況ならともかく、虫の息の状態を引き延ばすわけですから、”鬼のような家族”といってもいいと思います。
これは、僕自身も「子であり、親である人間として」忘れてはならないことだと思うのです。
ただし、他人のことに対しては客観的に判断できても、自分自身や身内のこととなると、覚悟しているつもりでも取り乱してしまうのが人間、なんですよね……
「どんなに苦しくても、少しでも生きたい」と思っている人もいるんじゃないかな、と声にならない声を想像してしまうこともあります。
臨床現場レベルでの実感としては、「もう、この新書に書かれていることくらいは、医者も患者さんの家族もある程度理解している」のではないかと思うのです。
僕が医者になった十数年前は、「最後まで全力を尽くしてください」という御家族が少なからずおられたのですが、最近は、末期がんの患者さんでは、人工呼吸器の使用や心臓マッサージを希望されることはほとんどありません。
医者があれこれ言わなくても、「死に対する人々の考え方」は、確実に変わってきているのです。
考えさせられるところも多い本なのですが、これ、本当のタイトルは、『(特別養護老人ホームに長期入所しているような高齢者が)大往生したけりゃ(延命処置を希望して)医療とかかわるな』ですからね。