今回の「丸刈り動画騒動」をみていて、「反省」とは何か?と考えこんでしまいました。
峯岸みなみさんは、AKB48としては「禁忌」である「恋愛(というか、男性とのお泊りデート)」が週刊誌に報じられた事に対して、「それでもAKBに残りたい」ということで、ああいう「謝罪映像」が流されたわけです。
それに対して、諸方面から「丸刈りで謝罪なんて、パワハラだし、いま問題になっている運動部の体罰と同根だ」というような批判が噴出しています。
僕も赤の他人とはいえ、丸刈りになって泣いて謝っているような映像は、観たくもないし(というか、観てませんすみません)、そんなことはすべきではない、と思う。
でも、そこでちょっと考えてしまったんですよね。
じゃあ、峯岸さんは、どうすればよかったのか?
(1)AKB脱退
(2)謹慎
(3)指原さんみたいに地方行き(しかし、博多を「流刑の地」にするというのは、九州人からすれば感じ悪かった)
(4)謝罪文、謝罪会見
(5)何もしないで現状維持
これまでも「恋愛禁止条例違反」のAKBの人って少なからずいて、あんまり人気が無い人には(1)あるいは(2)の処分が科せられてきました。
(3)は人気者の指原さん+かなり昔の話、ということで、このくらいが落としどころだと判断されたのでしょう。不公平な感じはしましたが。
僕は今回の峯岸さんに関しては「人間が恋愛をするのはしょうがなかろう」とは思っているのです。
でも、その一方で、「ファンと、握手会などでほんのひと時でも『疑似恋愛関係』を提供することでお金を稼いでいる立場としては、約束違反であることは間違いない」とも感じます。
というかさ、そんなにAKBをやめたくないのなら、「お泊り」をしなきゃよかったのだし、「しょうがないと思えるような恋愛」であるならば、「好きだったからしょうがない。AKBやめます」って言ってほしかった。
それにしても、「丸刈り」はいろんな意味で「やりすぎ」なのですが、峯岸さんは、どうするべきだったのでしょうか?
(1)(2)なら、判例通り、ということでまあしょうがないか、と。
(3)というのは、指原さんの例と比較すると処分が軽いかな、と。
(ところで、指原さんのときは「秋元さんの裁量で処分を決めた」のに、今回は「峯岸さんが自主的に坊主になった」とされているのはなんか腑に落ちません)
でも、(5)だったら、「いままでのは、いったい何だったんだよ!」と感じる人は多いはず。
(4)だったら……「あーはいはい、口だけ、形式だけ反省して終わりかよ」って、僕だったら思う。
今回の件について僕が考えているのは「反省」って何だろう?ということです。
4歳の僕の息子は今まさに「いたずら盛り」で、全然言うことをきいてくれません。
もう、呆れるやら、腹が立つやら。
思わず叱ってしまうこともあります。
「謝りなさい。反省しなさい」と促すと、その場では「ごめんなさい」って言うんだけれども、舌の根も乾かぬうちに、同じいたずらをまたやって、ニヤニヤしているのです。
「『ごめんなさい』って言ってるけど、全然反省してないだろ!」などと、苛立つことも少なくない。
「『ごめんなさい』って言うだけなら、いくらでもできる。それが反省している態度か!」なんて。
うーむ、AKBファン、峯岸さんファンではない僕としては、今回の騒動をみていて、「峯岸さんがどういうふうに『反省』したら、適切だったのだろう?」と考えてしまいます。
そもそも、「丸坊主」=「反省」なのか?
率直なところ、いくら「謝罪会見」をしたり、「反省文」を出されたりしても、「どうせ心の中では、反省なんかしてないんだろうな」って疑ってしまいそう。
それは、謝る側も承知の上で、「いまの日本社会で、相手に伝わる謝罪方法」を模索した結果が、あの「丸坊主」だったのではないかと。
言葉での「反省」を、人はなかなか信じられない。
「どうせ口だけだろ」って、思ってしまう。
だからこそ、「目にみえる形での反省」をしてみせなければならない。
わかりやすいですものね、丸坊主。見ていて痛々しいし「そこまでやらせるなよ」とみんな同情してしまう。
反省して涙を流す人はいるでしょう。
でも、涙を流しているから反省している、とはかぎらない。
「悪いとは思っていないけれど、許してもらうための方便として涙を流す」人もいる。
「内心」なんて、誰にもわからないんですよ。
本当に「反省」しているかなんて。
だからこそ、人は「目に見えるもの」を反省の尺度にしてしまう。
大事なのは「反省している自分をどう演出するか」ではなくて、「これからどう行動するか」のはずなのに。
僕は「反省」しているのです。
結局のところ、「わかりやすい、目にみえる反省の『証拠』を求める」とか「お前の反省は口だけだろ、って疑う」というのが、「自分を傷つけて、反省しているように見せる文化」を助長しているのではないか、と。
「反省は目に見える」「定量化できる」という考え方が、「反省していることを示すための行動」をエスカレートさせているのではないか、と。
ものすごく不躾なことを言えば、AKBメンバーの「スキャンダルに対する反省合戦」って、『お笑いウルトラクイズ』でいかに酷い目に遭うかを競い合っているお笑い芸人と似ているようにみえるのです。
たぶん、「次の人」は、「丸刈り以上のもの」を求められる。
そもそも、「恋愛がみつかったら、問答無用で脱退!」って決めていれば良かったんだよね。
判断基準がきちんとしていないから、裁かれるほうも混乱してしまう。
みんなが「反省は目に見える」「反省は定量化できる」と信じているかぎり、この「反省競争」は終わらない。
「AKB商法」を批判する人は多いけれど、「他者に『わかりやすい反省』を求める心」は、AKB関係者の専売特許ではありません。
いや、僕にもあるんですよ、あらためて考えてみると情けないんだけど。
「口だけなら、なんとでも言える」「それが反省している態度か!」
そうやって責められると、どうしていいか、わからなくなる。
そして、わかりやすい「目に見える反省」がエスカレートしていく。
「反省」って言葉を、あまりに安易に使いすぎてしまっていたのです、たぶん。
自分でも、その言葉の「本当の意味」とか「重さ」を理解しないまま。
「反省しろ!」って言うだけなら、サルでもできる。