琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】ジヴェルニーの食卓 ☆☆☆☆


ジヴェルニーの食卓

ジヴェルニーの食卓



こちらは「電子特別版」。紙の本を買ったあとに存在を知ったのですが、安いし(紙の本1470円、Kindle版1100円)、登場する画家たちの名画も収録されているとのこと。こっちを買えばよかった!

内容紹介
「この世に生を受けたすべてのものが放つ喜びを愛する人間。それが、アンリ・マティスという芸術家なのです」(うつくしい墓)。「これを、次の印象派展に?」ドガは黙ってうなずいた。「闘いなんだよ。私の。――そして、あの子の」(エトワール)。「ポール・セザンヌは誰にも似ていない。ほんとうに特別なんです。いつか必ず、世間が彼に追いつく日がくる」(タンギー爺さん)。「太陽が、この世界を照らし続ける限り。モネという画家は、描き続けるはずだ。呼吸し、命に満ちあふれる風景を」(ジヴェルニーの食卓)。モネ、マティス、ドガ、セザンヌ。時に異端視され、時に嘲笑されながらも新時代を切り拓いた四人の美の巨匠たちが、今、鮮やかに蘇る。語り手は、彼らの人生と交わった女性たち。助手、ライバル、画材屋の娘、義理の娘――彼女たちが目にした、美と愛を求める闘いとは。『楽園のカンヴァス』で注目を集める著者が贈る、珠玉のアートストーリー四編。


内容(「BOOK」データベースより)
マティスピカソ、ドガ、セザンヌゴッホ、モネ。新しい美を求め、時代を切り拓いた巨匠たちの人生が色鮮やかに蘇る。『楽園のカンヴァス』で注目を集める著者が贈る、“読む美術館”。


画家アンリ・ルソーの代表作「夢」を題材にした、ミステリー風味の『楽園のカンヴァス』が印象的だった原田マハさん。
この『ジベルニーの食卓』は、マティス、ドガ、セザンヌ、モネという「巨匠」たちの姿が、彼らを間近で見て、支えた人たちの視点で語られています。
もちろん、芸術家の内面なんて(というか、人間の内面なんて)本当のところは誰にもわかりませんし、巻末に書かれている「本作は史実に基づいたフィクションです」というのを見ながら、「うーん、どこまでが、誰までが史実で、どこからがフィクションなのか、はっきりしてほしい……」などと、ちょっと悶々としてしまうのですけどね。
(登場してくる人物の心情はさておき、モデルになるような画家の近くにいた人物がいたのは事実のようです)


この『ジヴェルニーの食卓』なのですが、『楽園のカンヴァス』のようにミステリー的な味付けなどもされておらず、「巨匠」たちの日常の姿と、彼らが何を求めていたのかを淡々と語っていく短編集です。
僕は『楽園のカンヴァス』が大好きなのですが、この『ジヴェルニーの食卓』を読んでみると、原田マハさんが本当に描きたかったのは、作家のこういう「日常」みたいなもので、『楽園のカンヴァス』は、かなり「読者サービス」していたのかもしれないな、という気がしてきます。
個人的には、『楽園のカンヴァス』の、とってつけたような恋愛要素は読んでいて邪魔に思われたんですよ。
そして、「淡々とした作品」になっている『ジヴェルニー』のほうが、なんだかすごくエロティックというか、80歳の画家が、孫くらいの年の若い女性を「虜」にしている(でも、実際に手を触れるわけではない)ことに、心がざわざわしてしまいました。

 しかし、官展に反旗を掲げた男気ある「狂った」芸術家は、ドガやメアリーが最初ではなかった。着衣の男性とヌードの女性のピクニック風景を描いた、エドゥアール・マネの『草上の昼食』が、官展に落選した作品も市民は公平に見る権利があるとして、「落選展」に展示されたのをきっかけに、「何かが違う」と感じ始めていた一部の画家たちは、作品を独自に発表する機会を設けるようになった。
 計算され尽くした構図や、歴史的風景、神話、肖像などのありふれたモチーフ、滑らかな仕上げの絵肌(マチエール)を捨てて、見たまま、感じたままを、瞬間的なタッチで描く。「印象のままに描いている」、つまり緻密な構成も技術の熟練もなしに勝手気ままに描く稚拙な絵、と批評家に嘲笑を浴びせられた彼らの作品は、やがてその揶揄を冠して「印象派」と呼ばれるようになる。

印象派」というのは、もともと、批評家たちからの揶揄の言葉だったのです。
いまでは、「オークションで信じられないような値段で落札される『お高い絵』」ばかりのように感じてしまうけれど。


収録されていた4つの短篇のなかで、いちばん印象的だったのは、無名時代のセザンヌを支えた画材屋さんの話でした。
この「タンギー爺さん」は、当時芸術の世界では異端だった「印象派」に魅せられ、無名で金がなかった画家たちに、出世払いで、あるいはほとんど値がつかないような彼らの作品と引き替えに、画材を提供していました。
彼らが好きな絵を描けるように、と。
もちろん、そんなことをしていては、商売にならず、家計は苦しくなるばかり。
そこで、タンギー爺さんの娘は、セザンヌに「画材のお金を払っていただけないだろうか?」と手紙を送ります。


少しずつ、世間で認められていくセザンヌ
その一方で、貧しかった彼を支えてきたにもかかわらず、画材代すら払ってもらえない「親切なタンギー爺さん」……
ああ、これを読んでいると、なんだか僕は自分の親のことを思いだしてしまってつらかった。
人って、基本的に恩知らずな生き物なんだよね、相手が「無償の愛」を注いでくれていると確信していれば、なおさら、それが「あたりまえのこと」のように錯覚してしまう。
セザンヌは、冷たい人間では、なかったのだと思う。
でも、「そのうち恩返ししよう」と考えているうちに、時間は経ってしまった。
結果的に、セザンヌは偉大な芸術家として歴史に遺り、彼の作品も愛され続けています。
身近な人への「ちょっとした非礼」は、忘れられてしまっても。
当時二束三文で買いたたかれたというセザンヌの絵を、一枚でも手元に残しておけば、後世、大金持ちになれたのだろうけどねえ。

 わしは、いつも思うんだ。新しい芸術を生み出すためには、技術も、センスも、縁故も、後ろ盾も必要だろう。志を同じくする仲間や、資金的な援助や、発表する場も必要だろう。けれど、ほんとうのところは、芸術家自身の精神力が、いちばん重要なんじゃないかって。
 ポールには、ほかの誰にもないような強い精神力がある。絶対に、ほかには追随しない。唯一無二の、自分だけの表現をみつけ出したいんだという、強烈な欲求がある。――祈りがある。


立派な人間が、人の心を打つ作品をつくるのではない。
というか、芸術家というのは、「普通じゃない」だからこそ、誰かに衝撃を与えることができるのかもしれません。
芸術家の「作品」が時代をこえ、見る人にインパクトを与えるのは、その「美しさ」だけではなく、「強い精神力や欲求」をぶつけてくるから、なのでしょう。



楽園のカンヴァス

楽園のカンヴァス

[asin:B009GDC1OA:detail]

アクセスカウンター