琥珀色の戯言

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【読書感想】マラソンと日本人 ☆☆☆☆


マラソンと日本人 (朝日選書)

マラソンと日本人 (朝日選書)

内容(「BOOK」データベースより)
開国後の日本は外国人からさまざまなスポーツを学び、それらは全国津々浦々に普及した。なかでも「走る」ことで国際的舞台への参加・活躍を夢見た近代日本は、やがて世界に例のないかたちの「マラソン大国」となってゆく。参加者1万人超の規模のフルマラソン大会が毎週ある国は珍しい。マラソンをテレビ中継するのも、メディアの利権が絡むのも特異だ。日本初参加の五輪、ストックホルム大会で走った金栗四三東京五輪の銅メダルののち自死した円谷幸吉、その後の瀬古利彦中山竹通など、日本のマラソンを世界に導いたランナーたちは何を想って走ったのか。いま、日本のマラソンは低迷し、世界のトップ集団から置いていかれる一方で、国内では多くの市民ランナーたちが走っている。日本人にとってマラソンとは何か。近代マラソンの歩みを振り返り、我が国の国際性、スポーツ観の変遷をたどる。


 日本ではずっと市民マラソンブームが続いています。
 いや、これだけ長く続いていると、「ブーム」というより、「メジャーな趣味のひとつ」と言うべきなのでしょうね。
 僕の周りにも「42.195kmを走ったことがある」という人が意外に多くて、「えっ、この人まで?」と、驚かされたことが何度かあります。
 僕自身は、「村上春樹さんみたいに、マラソンに挑戦してみようかな」なんて思いつつも、「まあそのうち」とか言いながら死んでしまいそうです。

 私がマラソンの取材を始めたのは瀬古利彦の全盛期の80年代前半で、中山竹通のスリリングなレース展開にテレビ視聴率が跳ね上がっていった。中山が日本のマラソン史のピークだったと言っていい。しかし、90年代に入って一気に世界の先頭集団から置いていかれてもマラソンの人気は根強い。その一方で、ヨーロッパの指導者たちはマラソンを本質的に陸上競技として認めてこなかった。彼らが言うところの陸上競技とはスタジアム競技、トラック・アンド・フィールドを指し、ロードレースはプロの賞金稼ぎと見下され、陸上競技とは一線を画されてきた――。


 日本で最初に行われたマラソンレースは、1909(明治42)年3月21日、神戸ー大阪間の20マイルで行われたそうです。
 1マイル=1.6kmで、20マイルは、約32km。
 参加者は408名で、予選が行われた地域もあったのだとか。
 これは、1910年のオリンピックの「選考会」でもあったのです。
 当時は、オリンピックの出場選手に選ばれても渡航費用は自費で、ヨーロッパまでの旅費を捻出するだけでも、けっこう大変だったみたいですが。
 このときの優勝タイムは、2時間10分54秒。
 今とあんまり変わらないのでは、と思ったのですが、いまのフルマラソンよりも、10kmも短い距離での記録です。

 
 この本を読んでいて知ったのは、創生期において、「マラソン」が、陸上競技のなかでも「例外」というか、トラック競技よりも格下にみられていた、ということでした。
 太平洋戦争前から、戦後の貧しい時代において、陸上競技のような「スポーツ」は、大学に行くような「エリート」たちのものだったのです。
 その中で、マラソンは、「エリート学生が大学などでトレーニングするしかない競技」とは違っていました。
 普通の労働者たちが、自分の仕事をすることがトレーニングになってマラソン向きの身体をつくることができ、学生競技者に勝つことができたのです。
 それは、日本だけの現象ではありませんでした。

 オリンピックの第1回アテネ大会で優勝したスピリドン・ルイスは小学校を出ただけの水配達夫だった。第2回大会で優勝したミシェル・テアトはパリのクロワッサン売りで、路地裏まで熟知していたため近道をしたと伝わる。第3回のセントルイスでは真鍮工のトーマス・ヒックスが勝ち、ロンドン大会で失格して有名になったドランド・ピエトリは菓子屋の店員、優勝したジョン・ヘイズはマンハッタンのブルーミングデールズ・デパートの店員、ストックホルム大会を制したケネディー・マッカーサーは元郵便配達夫……マラソンは多種多様な労働者が集まっていた。車夫も、郵便配達夫、牛乳配達夫、魚の行商も陸上競技を目指した職業ではない。このことは、エチオピアやケニアの国民がマラソンを走るために高地に住んでいるわけではない現代にも通じる。学生たちの杓子定規の対応、それが日本の現実だった。
 学生がスポーツに挑戦の可能性を見たように、社会の底辺に住む車夫はマラソンに飛躍の機会を見た。学生の海外雄飛の手段だったマラソンは車夫にとっては現状を抜け出す手段であり、当時のマラソンに必要な持久力を得るため、仕事=練習で臨むことができた。一方の学生は車夫に負けないだけの練習時間を捻出できなかった。アムステルダム大会(1928年)で、日本のマラソンは準職業競技者、浜子と呼ばれた香川県坂出市の塩田労働者によって世界に並びかけることになる。スポーツの置かれる社会的位置はそれぞれでも、結局は強い者が評価される――この身分問題がいつの間にか消えていくのはマラソンという競技の必然だった。

 
 陸上競技のなかで、当時は「アマチュア」とはみなされなかった職業人たちが、マラソンで結果を出し、成り上がろうとしていったのです。
 そして、彼らが記録をつくり、レースに勝利することによって、「身分」のことは、うやむやになっていきました。
 1936年には、朝鮮出身の孫基禎選手が「日本代表」として金メダルを獲得しています。
(ただしその「偉業」が、さまざまな波紋を呼んだことも、著者は紹介しています)
 日本人がマラソン好きなのは、「エリートランナー対雑草ランナー」みたいな「人間ドラマ」がみられるから、なのかもしれませんね。
 中山竹通選手や川内優輝選手のような「非エリートの、自分のやりかたを貫く選手」の存在もまた、マラソンの魅力です。

 
 こうして、マラソンが人気競技になっていくにつれ、それまでは「マラソンなんて陸上競技のなかでは異端」とされていたのに、多くのエリートランナーたちが、「最終的な目標はマラソンで成功すること」になっていったんですよね。
 日本人にとっては、100m走のようなトラックでの短距離よりも、マラソンのほうが、「メダルに近い」というのも事実ですし。
 その一方で、あまりにもマラソン人気が加熱し、プレッシャーのあまりに命を絶ってしまった円谷幸吉選手の悲劇もあったのです。


 僕自身の記憶を辿ってみると、僕の物心がついた1970年代はじめから、1990年くらいまでのマラソンって、「自分でやるもの」ではなくて、「観るスポーツ」だったんですよ、どちらかといえば。
 僕は円谷幸吉君原健二が活躍した時代、1960年代後半から、1970年代前半は、まだ生まれていなかったり、幼くてまったく記憶にないのですが、その後の時代、宗兄弟や瀬古利彦中山竹通谷口浩美らのレースは、よく覚えています。
 なかでも、「日本人最強のランナー」といわれていた瀬古利彦さんの勝負強さは、鮮烈なものでした。

 瀬古利彦は数々の記録を残した。早稲田大学3年だった1978年から<福岡国際マラソン>では日本人選手としては初めての3連覇を達成。5レース連続優勝を飾って臨んだ84年のロサンゼルス・オリンピックは14位に終わったが、プロ化の進む欧米の都市マラソンに挑戦し、<ロンドンマラソン><シカゴマラソン><ボストンマラソン>と立て続けに海外メジャーレースを制覇して4連勝。オリンピックを除けば23歳から引退までの10年間、9勝で世界のマラソン界に不動の地位を築いた。瀬古以外にこれだけの結果を残した選手は後にも先にもなく、日本のマラソン史上、最強のランナーと言っていいだろう。

 大差で独走するようなレースはほとんどありませんでしたが、ラストのトラック勝負で、確実にライバルを抑えて勝つ。競馬のシンボリルドルフみたいな選手だったんですよね。
 その瀬古選手がロサンゼルスオリンピックのマラソンに出場した日、子どもだった僕は家族旅行に出かけていたのですが、夕方、ホテルに帰ってきたとき、フロントの人に、父親が尋ねたのです。
「瀬古は、どうでしたか?」
 こんなふうに世間話をする父親は、ちょっと珍しいな、と思った記憶があります。
 いまなら、スマートフォンで検索すればすぐに結果がわかるのですが、当時は、こうして人に尋ねるか、スポーツニュースの時間、あるいは翌朝の新聞を待つしかなかったんですよね。


「瀬古……ダメでしたよ」
「えっ? そうですか……」


 父親も僕も「瀬古、金メダルを穫りましたよ!」という答えを期待していたのです。
 あの瀬古でも、負けることがあるのか……オリンピックって怖いな……
 それが、率直な感想でした。


 この本を読んで、日本のマラソンの歴史を追っていくと、「冬場のマラソンで好タイムを目指すこと」と、「夏場にマラソンを走る(夏季オリンピックでメダルを目指す)こと」を両立することの難しさを思い知らされます。
 あの瀬古選手が負けてしまったのは、調整の難しさや世間の大きな注目という「オリンピックの魔物」のせいだけではなくて、「記録が出ない夏のマラソン」を好まない日本のマラソン文化と、「主に北半球の夏に行われるオリンピック」との衝突のせいでもあったのです。


 その後、「参加するマラソン」はどんどん浸透していきましたが、「観るマラソン」への注目度は、高橋尚子野口みずきという女子マラソンのスターもいなくなったあと、低迷しているように思われます。
 

 これから、2020年の東京オリンピックに向けて、日本のマラソン界は、どんな手を打ってくるのか。
 長い時間拘束されるコンテンツが敬遠されがちななかで、マラソンは、ふたたび「観るスポーツ」としても蘇ることができるのか。


 この本を読んでいると、僕もやっぱり、マラソン(を観るの)が好きだったのだなあ、と感じましたし、宗兄弟や瀬古利彦中山竹通という選手たちのレースを思いだすと、いまでもワクワクするのです。
 最初はちょっととっつきにくい気がしたのですが、ゴールの(読み終える)前では、もうちょっと読んでいたいなあ、という本でした。

 

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