- 作者: 北野武
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/09/10
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎単行本)
- 作者: 北野武
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/10/09
- メディア: Kindle版
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内容紹介
二〇一八年、道徳を教科化? だけど、その前に……、
『日本人にとって、「道徳」とは何か?』
この問いに答えられる、親や教師はいるのだろうか。
まず最初に大人たちが、真面目に考えた方がいい。
稀代の天才が現代の核心をえぐる、未だ嘗てない道徳論!
北野武さんによる「道徳論」。
北野さんは、世間で偉い人たちが子どもたちに教えようとしている「道徳」の矛盾に、遠慮なく斬りこんでいっています。
「道徳教育」というと、「大人が子どもに何をどう教えていくか」という観点で語られることが多いのですが、北野さんは、この本のなかで、「大人たちには、『道徳』を語る資格があるのか?」と徹底的に考えているんですよね。
ものすごく単純な話で、子どもに友だちと仲良くしましょうっていうなら、国と国だって仲良くしなくてはいけない。子どもに「いじめはいけない」と繁育するなら国だってよその国をいじめてはいけない。武器を持って喧嘩するなんて、もってのほかだ。
なのに、現実の世の中はそうなっていない。
「隣の席のヤツがナイフを持ってるので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したとして、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるだろうか。いるわけがない。
だとしたら、隣の国が軍備拡張したからって、我が国も軍備を増強しようっていう政策は、道徳的に正しくないということになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があろうと戦争は許されないってことになる。
それがフラクタルってもんだろう。
子どもの道徳と、国家の道徳は別物なのだそうだ。戦争は必要悪だとか、自衛のためには戦争をも辞さぬ覚悟が必要だなんていったりもする・
北野さんは「日本は自衛隊を持つべきじゃない、と言いたいわけじゃなくて、戦争は必要悪だと考える大人が、子どもに喧嘩をするなと教えるのは、筋が通っていない」ということだと説明しています。
いまの「道徳」の問題点は、大人がやっていることと、子どもに「やりなさい」と言っていることがあまりにも矛盾している、「ホンネと建前が、あまりにも乖離しすぎている」ことなのではないか、と、これを読みながら僕も考えていました。
自分がやっていることと、他人に押し付けていることの乖離、というのは大人同士にもみられることで、ネット上では「ダブルスタンダード」や「ブーメラン」などという言葉で、道徳を押し付けようとする側のほうが叩かれることも多いのですが、世の中には完璧な人間なんていないので、突き詰めていえば、誰も何も言えなくなってしまいそうではあります。
北野さんは「道徳」について、こんな考え方を提示しています。
(「道徳」というのは、そのときの権力者の都合でいくらでも替わるものであり、いつの時代にも通用する絶対的な道徳など存在しない、という話につづいて)
そう考えれば、つまり道徳は、自分が生きている社会の中で、都合良く生きていくためのひとつのルール、あるいは都合良く生きる術でしかないことになる。
道徳と良心を混同してはいけない。
道徳と良心は、別のものだ。
芥川龍之介がいったように「良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない」のだ。
だから、勘違いしないでほしい。良心は技術だなんていっているわけではない。俺はあくまでも道徳の話をしている。
たとえば、道徳の教科書で、小学一年生に真っ先に教えるあいさつにしても。
朝、誰かに会ったら、「おはようございます」とあいさつしましょう。あいさつをすると、自分も相手もいい気持ちになる。円滑な人間関係のためには、まずあいさつを憶えましょう、というわけだ。
それは、間違っていない。俺も、弟子にはあいさつと礼儀だけは、厳しく教える。
だけどそうするのは、弟子を良心的な人間にしようとしているからではない。
芸人として生きていくには、円滑な人間関係は欠かせない。だから、あいさつはきちんとしなきゃいけないと教える。それは、弟子の良心とはなんの関係もないことだ。
良心は人間にとって大切なものだと思うけれど、あいさつをいくらしたって、良心が発達するわけではない。
「道徳」は、その時代の都合によって、変わってしまう。
太平洋戦争に負けたあと、教科書の記述の多くを墨で塗りつぶすことを指示され、先生たちが「民主主義」の素晴らしさを突然語るようになったことに衝撃を受けた日本人がたくさんいたのです。
それから、まだ70年しか経っていない。
「国のために命を捨てるのが正しいことだ」という時代から、「とにかく、命がいちばん大切、あなた自身がいちばん大事」という時代へ。そして、その反動も出てきています。
ただ、その時代をうまく生きていくための「技術」として、「道徳的にみえる振る舞い」に、メリットがあることは間違いありません。
いまの北野武という人には、「生き方の美学」があって、「その場しのぎの点数稼ぎ」みたいなものには興味がなさそうにみえるのだけれど、「内心はどうしようもないところがあるからこそ、他人からは道徳的にみえる振る舞い、という技術を身につけろ」というのは、ものすごくまっとうなアドバイスだと思うのです。
結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。
どんな道徳を身につけるかは、人によって違うだろうけれど。
たとえば、俺は弟子にも最低限のことしかいわない。理由は同じだ。
最低限というのは、あいさつと礼儀だ。芸人の世界は縦社会だ。自分より先にこの世界に入った人は先輩として立てなくてはいけない。
それから相手がいくら年下でも、仕事をする以上は最低限の礼儀がある。テレビの製作現場では、若いADがディレクターやプロデューサーにこき使われている。そのディレクターやプロデューサーは、俺たち芸人のことを大事にしてくれる。それで、ときどき勘違いする弟子がいる。自分まで偉くなったつもりで、ADにぞんざいな口をきいたりする。そういうことだけは絶対にやっちゃいけないよ、と教える。
それくらいの必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。
冷たいようだけれど、それ以上は本人が努力するしかない。
不思議なもので、成功する芸人は例外なく、あいさつをきちんとするし、それなりの礼儀もわきまえているものだ。人当たりもいいし、ADに横柄な態度をとることもない。
芸人には芸人の道徳ってものがあるわけだけれど、それを細かく教える必要はないし、教えたってなかなか身につくものじゃない。
ところが、向上心があれば、そういうものは自然に身につく。
ああ、本当にそういうものだよなあ、と。
もちろん、傲慢、マイペースで狭い入り口をこじ開けるような「天才」だって、いないわけではないと思う。
でも、人間常に順風満帆というわけにはいかないし、芸人の場合、同じような能力・人気・ギャラの人がふたりいれば、「ちゃんとしている人」がキャスティングされる可能性が高いはず。
北野さん自身も「気配りエピソード」には事欠かない人です。
この本のなかで印象的だったのは、北野さんが故・高倉健さんについて語っている、この短い言葉でした。
過激な道徳を作れというわけではないけれど、どこかの誰かに押しつけられた道徳じゃなくて、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。
高倉健さんは格好良かったけれど、あれはあの人が高倉健という人間を演じたからだ。
それが彼の、いうなれば道徳だった。
ああ、北野武さんも、きっと、「北野武を演じ続けている」のだな、と僕はこれを読んで感じました。
結局、「道徳」というのは、自分で自分をどう律していくか、というルールでしかないのかもしれません。
でも、外部からのさまざまな圧力や、自分自身の「ラクをしたい」「めんどくさい」という感情に負けずにそれを貫くのは、本当に難しい。
「はじめに」のなかで、北野さんはこう仰っています。
時間のないせっかちな読者のために、最初に結論を書いておく。
結局、いいたいことはひとつなんだから。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」