琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】強父論 ☆☆☆☆

強父論

強父論


Kind版もあります。

強父論 (文春e-book)

強父論 (文春e-book)

内容紹介
阿川弘之氏が94歳で大往生されてから、今年八月で一年。娘佐和子が、強父語録とともに、父との62年間を振り返ります。たとえば――。
「なんという贅沢な子だ。ふざけるな!」……4歳のサワコ嬢は、「このイチゴ、生クリームで食べたい」と口にしただけで、このようにと怒鳴られます。以来、罵倒され通しの日々が続くことになるのでした。
「勉強なんかするな。学校へ行くな」……弘之氏は、特に娘は、勉強なんかしなくてもいいから、家でうまい食事を作れ、という主義でした。大学のテスト期間中も、サワコ嬢はお酌の相手をさせられたのでした。
「子供に人権はないと思え。文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」……娘のちょっとした口応えに対して、弘之氏は烈火のごとく怒り、このように言い放ちます。これは弘之氏の口癖でした。
「老人ホームに入れたら、自殺してやる!」……元気な頃の父は、こうくり返していました。足腰が弱ってからは渋々、老人病院に入院しましたが、そこでも「すきやきが食べたい」「ワインが飲みたい」とわがまま放題なのは変わりませんでした。
いまや絶滅寸前の、怖くて強い父親ぶりが存分に描かれます。


 親子関係、人間関係って、一筋縄じゃいかないし、他人が「評価」するのって難しいよなあ……
 そんなことを考えながら読みました。
 作家・阿川弘之さんが亡くなられて1年あまり。
 この本を読んでいると、阿川弘之さんの家族、なかでも佐和子さんは、この頑固で、わがままで、食いしん坊で、横暴なお父さんにものすごく愛されていたのと同時に、振り回されてきたのです。
 佐和子さんもさんざんエッセイで「お父さんの話」を鉄板ネタとして披露しておられるので、元はとっているのかもしれませんが。

 情に脆いところもあり、子供の頃から友達に揶揄されるほどの泣き虫だったそうだが、同時に非情なほどの合理主義者である。と言いつつ、理屈より感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。他人に対しても、気に入らないことを言う人や、自分に興味のない話を勝手気ままに長々と喋りまくる人は嫌いである。常に自分が中心でありたい。自らの性格が温和とほど遠い分、周囲はできるだけ穏やかであることが望ましい。でも世間を相手にそこまで思い通りにいかないという分別がないわけではない。だから外ではなるべく我慢する。極力おおらかな人間になって、「阿川さんはいい人ですね。立派な方ですね」と褒められたい気持が人一倍強い。そのため少しばかり努力する。いきり立つ感情を抑える。爆発するまい、癇癪を起こすまいと、自らを制し続け、我慢を重ねた末、家に帰り着いたとたん、ちょっとした火種、すなわち家族が無神経な言葉を発したり、気に入らない態度を示したりしたとたん、たちまち大噴火を起こす。だから怒鳴られる側にとっては「唐突」の印象が強くなる。


(中略)


「いったい誰のおかげでぬくぬく生活ができると思ってるんだ。誰のおかげでうまいメシが食えると思ってる。養われているかぎり子供に人権はないと思え。文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」
 これが父の口癖であった。もちろん最後の文句は娘の私に向けたものであり、息子に「女郎屋へ行け」とは言わなかった。


 ちなみに、この「女郎屋へ……」とはじめて言われたのは、阿川さんの記憶によると、中学生のころだったそうです。今の感覚でいえば「暴言」ですよね。
 弘之さんは、2015年8月に享年94歳で亡くなられているので、そういう時代を生きてきた人であり、いま40代の僕の価値観で語れるようなものじゃないのでしょう。
 太平洋戦争後、「丸く」なってしまった日本の「親父」のなかで、こういう姿勢を貫いたのはあっぱれ、と言えなくもない……のかな。

 ただ、外面はけっこう良かったみたいで、「内弁慶」っぽい感じでもあります。
 じゃあ、外で暴れまくって、家族には優しい、というがいいのか、というと、それはそれで仕事がうまくいかないかもしれないし。
 僕の父親(生きていれば、いま70代半ばくらい)も、けっこう内弁慶だったと記憶していて、僕にもそういうところはあるんですよね。

 父の愛は常に条件つきだった。そのことに、私はかなり幼い頃から本能的に気づいていた。広島から連れ戻された日のことがトラウマになっていたかどうかはわからないが、とにかく父のそばにいると、得も言われぬ緊張感に教われた。いつ𠮟られるかわからない。いつ父が豹変するかわからない。だからなるべく兄や母の陰に隠れているほうが安全だ。そうとわかっていても、生来がおとなしい性格ではなかったから、ときどき油断して大失敗を犯す。
 夕食どきのことである。父と兄と私が食卓につき、母やたぶん、台所と食卓を行き来しながら料理をつくっていたと思う。
「今日ね、幼稚園でね」
 私は喋り始めた。
「いっこちゃんがね、けいちゃんもいたんだけどね、そのとき先生が来て、早くお帰りの支度をしなさいって言われてね、でも佐和子はまだ支度ができていなくてね……」
 内容はさておき、まあ、そんな具合に話し始めたのであろう。するとまもなく、
「なにが言いたいんだ、お前は。さっぱりわからん。結論から言え、結論から!」
 父が突然、私を怒鳴りつけた。私はなにが起こったのか理解できず、結論ってものがなんだかもわからず、泣き出した。すると今度は、
「食事中に泣くな。黙ってご飯を食べなさい」
 私は嗚咽しながら無理やり食べ物を口に運んだ。怖くて悲しくて吐きそうになった。あの恐怖の夕餉事件のことはいまだに忘れられない。


 弘之さんの言動を読んでいると、本当に「めんどくさいお父さんだなあ」って考えずにはいられないのです。
 このお父さんと付き合っていくのは、大変だっただろうな、って。
 こういう「家族モノ」って、「頑固でワガママな父だったけれど、本当は家族思いの優しい人だった」というような「美談」も散りばめられていて、読者は「なんのかんの言っても、家族のことを愛していたんだねえ」と納得してしまうことが多いのですが、佐和子さんが描く、「家庭人・阿川弘之」は、なんというか、あんまり言い訳できないというか、「これはひどい!」としか言いようがないのです。
 不倫で家族を苦しめたとか、酒癖やギャンブルで周囲に迷惑をかけた、ということは無いので、とりあえずちゃんと稼いで、子供たちを立派に育てた、というだけで十分、ではあるのかもしれないけれど。


 僕は病院で、さまざまな家族を外部からみてきたのですが、入院中の親への見舞いの頻度とか介護への熱心さというのは、必ずしも家族関係の良し悪しがそのまま反映されるものではないようです。
 家族の構成員、とくに子ども側のキャラクターの影響が大きいのではないかと。
 情に厚いというか、世話好きの人は、親子関係がさほど良くなくてもマメに親のところに通うし、良い関係を築けていても、めんどくさがり、あるいはあまりベタベタしたがらない、という人もいる。
 阿川佐和子さんは、「良いお父さんだから、施設に入ってもマメに通っていた」というよりは、「困っている人を放っておけない」というような性格なんじゃなかろうか。
 そんなふうに育てたのは親だから、と言われてば、それもそうなんですけどね。
 
 
 そして、やっぱり「似ている」ところも少なからずある。
 佐和子さんも、若い頃は、そう言われるのがものすごく嫌だったそうですが。
 メディアに出演したり、文章を書いたり、という仕事に就くことになったのも、みんなが「阿川弘之の娘」として注目したから、というのも否定はできません。
 今はむしろ、「阿川弘之って、阿川佐和子のお父さんなんだ」って思う人のほうが、多いくらいなんでしょうけど。

 テレビ番組のアシスタントに採用されたのも、ほとんど同時に原稿依頼がくるようになったのも、すべて自ら切り拓いた道ではなく、単なる父の七光りであることは最初から重々自覚していた。
 当初は父についてのエッセイを望まれることが多かったが、私自身、父に関するエピソードなら、比較的筆が進んだ。
「アガワさんのエッセイ、面白いですねえ」
 人に誉められたと父に告げると、
「材料がいいんだ」
 涼しい顔で言われた。それは否定できないところがある。ただ、私が父について書くときは、最初から決して父を褒め称えたり尊敬したりする内容にはならなかった。むしろ本書同様、父の悪口を書くことのほうが圧倒的に多かった。ここまで書いたらさすがに父は怒るだろうか。ときどき脅えながら父の反応を見るのだが、父から指摘される注意はもっぱら日本語の使い方についてであり、内容についてではなかった。
 『聞く力』の二匹目のドジョウを狙って『𠮟られる力』を出したときも、久々に「父にひどい目に遭いました」話をたくさん書いたので、すでに老人病院に入院中だった父のもとへ報告がてら届けたら、次に会ったときはやはり、「読んだ。日本語についていくつか気になるところがあった」と言われただけで、「こんなことまでばらすなよ」と𠮟られることは一切なかった。


 これを読むと、「作家としての覚悟と諦め」みたいなものを感じずにはいられません。
 これだけ娘にネタにされても、その内容について、弘之さんは「一切」口出しをすることはありませんでした。
 それは、「他者のこと」をずっと書き続けてきた作家としての矜持であり、罪滅ぼしだったのでしょう。
 その一方で、言葉の用法や助詞の使い方については、まるで受験の小論文の添削のように、細かくチェックされていたそうです。

「今、いいか」
 電話がかかる。
「はい」
「じゃあ、137ページ、上から二段目の頭から三行目。また『だった』が三回続いている。あと『のだ』というのは、あまり頻繁に使わないほうがいいな。品が落ちる」
「二ページ目のいちばん下の段、うしろから三行目。『ほほえましい』とお前は書いているが、自分の家族のことを形容するにはそぐわない。他の言葉を探しなさい」


 この指導もすごいのですが、「これだけ言い回しにはこだわっていたのに、内容について何も制限しなかった」ことが、いまの阿川佐和子さんを生んだのではないか、という気がするのです。


 そして、この本を読んでいると、家族の関係において、「食事」というのは、ものすごく大切なものなのではないか、と思い知らされます。
 阿川家は、極端な例なのかもしれませんが、「食べ物の好みが近い」とか「一緒に美味しいものを食べた」というのは、人と人を結びつける大事な記憶になるのです。


 佐和子さんが中学生くらいの頃、晩ご飯に料理本をみながら東坡肉(トンポウロウ)をつくったときの話。

 食卓に並べると、父が書斎から出てきて、
「そうかそうか。今日は佐和子が作ってくれたのか」
 嬉しそうに自分の席につき、私が供した東坡肉を箸で一口、つまみ上げ、しばらく咀嚼したのち、言ったのである。
「佐和子、明日は、なんか旨いものを食いに行こう!」
 あのときは、泣いた。あんなに苦労したのに。しかし父にしてみれば、娘に対する最大限の気遣いの表れだったのだろう。でも決して、「おいしいよ」と嘘はつけない。「だってまずいんだもの」というのが父の言い分だ。


 僕は読みながら、つい吹き出してしまったのですが、作ったほうとしては、たまらないですよね、これ。
 こういう「斜め上のフォロー」って、他人事じゃないんだけど。

 父が七十歳を迎える少し前、突然、家族を呼び寄せて、「話がある」と言う。何事かと神妙な面持ちで父の周りに集まると、
「いいか、俺は今後いっさい、我慢するのをやめる!」
 敢然とした態度で父は言い放った。
 言われたこちらは驚いた。どうやら父は今まで、我慢をしてきたつもりらしい。そう思ったのは私だけじゃない。横を向くと、兄も弟も、みんな笑いをこらえていた。しかし父は真剣だった。

 
 イヤなとこともたくさんあったけれど、「憎めない人」だったんだろうなあ、って。
 周りも、よく我慢していたと思うし、今の時代に同じことをする「お父さん」がいても、受け入れられるのは難しそうですが。
 

 ただ、こうして「記憶」され、「記録」してもらえるというには、人間にとって、すごく幸せなことではないか、と思うのです。
 弘之さんは、あちらで、「書き残してくれるのはいいけど、もうちょっと手加減してくれよ」って、苦笑されているのだろうか。
 それとも、「我が意を得たり。ただし、油断せず、よりいっそう日本語を磨けよ」と仰っているのかな。

アクセスカウンター