モンスターマザー:長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い
- 作者: 福田ますみ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/02/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容紹介
第22回 編集者が選ぶ 雑誌ジャーナリズム賞作品賞 受賞!
たった一人の母親が学校を崩壊させた。
不登校の高一男子が、久々の登校を目前に自殺した。
かねてから学校の責任を追及していた母親は、校長を殺人罪で刑事告訴する。
人権派弁護士、県会議員、マスコミも加勢しての執拗な追及に崩壊寸前まで追い込まれる高校。
だが教師たちは真実を求め、ついに反撃に転じた――。
果たしてほんとうの加害者は誰だったのか?
どの学校にも起こり得る悪夢を描ききった戦慄のノンフィクション。
とはいえ、この母親は、自分の息子が自殺してしまったショックで「異常」になってしまったのではないか……
僕は半信半疑で、このノンフィクションを読みはじめました。
長野県の丸子実業のバレー部に所属していたひとりの男子生徒の生徒の自殺。
これは、部内でのいじめによるものだという報道がなされ、僕も「ひどい学校だな」と当時は思っていた記憶があります。
判決では、いじめがあったとは認定されず、「まあ、証拠不充分、という感じだったんだろうな、高校生くらいのときって、自ら死を選ぶ理由にも、いろいろあるのかもしれないし」と。
しかしながら、この本を読んでみると、僕が新聞やテレビのニュースで、わかったようなつもりになっていた「事実」は、この学校の関係者たちが味わった地獄のような日々とは、大きくかけ離れたものであったことがわかります。
著者は「本当の被害者側」である、学校側やバレー部の生徒、自殺した高校生に肩入れしているようにも思えるけれど、裁判でのやりとりや証拠とされているものからみても、この「モンスターマザー」は常軌を逸していて、さまざまな既往もあったのです。
僕は病院で働いていて、いわゆる「モンスターペーシェント」と呼ばれるような人たちと接したこともあります。
この本を読んできて、そういう「思い出したくない記憶」が蘇ってきて、本当に「うんざり」したり、何度も読むのを中断したりしました。
学校の生徒や保護者、病院の患者というのは、基本的には「弱い立場にある人」だし、多少の問題行動については、致し方ない面もあると思います。
癌の告知をされた人が、「なんだと!」とレントゲンをぶちまけて担当医を責めるシーンが、『命』という柳美里さん原作の映画にあったのですが、ああいうのは、現場にいたら、正直つらいな、と思うけれども、本人が置かれた状況を考えると、一時的な反応としてなら、受け入れなければならないものではあるでしょう。それも給料に含まれているのです、たぶん。
でも、なかには「自分は弱者である」ということを振りかざし、モンスタークレーマーとなって、「訴えてやる!」「賠償しろ!」と迫ってくる人がいる。
こちらに落ち度があるわけではないのに、教師や医者という「強者」とされる人を責めることによって、自分の立場を強くしようという人がいる。
そして、そういう「弱者」の言い分を「正義」「弱者の味方」の名のもとに、手放しでサポートしようとする「マスメディア」や「人権派弁護士」もいる。
僕は基本的にメディアが「権力の味方」をするよりは、「弱者の言い分に寄り添う」べきだとは思っているのです。
しかしながら、「弱者とされる人々が主張することは、なんでも正しい」のならば、その人は、本当に「弱者」だと言えるのだろうか?
埋もれやすい弱者の声を拾い、世の中に問うことは正しいのかもしれない。
ただ、それを盲信して検証もせず、正しい自分に酔って、モンスタークレーマーの片棒を担ぐようなことは、許されないはずです。
自殺をしてしまった高校生の母親(さおり(仮名))は、息子の家出をきっかけに「息子がいじめられている」「自殺したら学校のせいだ」と、執拗に担任や校長、バレー部の部員やその親たちを攻撃していきます。
9月も半ばを過ぎると、さおりのターゲットは立花担任からバレー部へと明確に変わる。バレー部員、保護者、顧問らに的を絞り、電話やメール、ファックスを使って誹謗中傷といやがらせとしか思えないような行為を繰り返すようになったのだ。
いじめの首謀者とされた山崎君の自宅には、連日のようにさおりから電話がかかってくるようになった。
「よくバレー続けてられるね。あなたの子供がいじめたから、うちの子は好きなバレーもできず、学校も行かれない。自殺も考えている」
「監督もぐるになって隠すんですね」
「あなたたちのことを訴えますからね。裁判であなたが負けるから。あなたの子供一人のために学校も運営していかれなくなる。あ〜あ、みながかわいそう」
ヒステリーじみた甲高い声で怒鳴り、「人殺し!」と何度も叫ぶ。こんな人間が世の中にいるのか。山崎君の母親は、受話器を取るたびに脅えてぽろぽろと泣いてしまった。言い返すとその百倍くらい返ってくるので、堪えるしかなかった。
そこで、なるべく電話機のコードを抜いておいたが、山崎家は自営業のため、ずっとそのままにしておくわけにもいかない。再びコードを差し込むととたんに電話が鳴った。さおりだ。山崎君の母親は心労のあまり、多発性円形脱毛症になってしまった。
山崎君は自身も気が滅入っていたが、母親が泣いているのを見て「おれのせいだ」とショックを受ける。
「ほんとうにいじめなんかやってない。でも、おれがいじめたことになってしまっている」
山崎君は母親にそう言っていたが、そのうち、
「おれひとりが退部して今まで通りみんなが部活できるなら、バレー部のせいにならないならおれ、バレー部やめようかな」
そんな弱音を吐くようになっていた。
読んでいるだけで、胸が苦しくなります。
この本に書かれている山崎君をはじめとする周囲の人々への取材では、山崎君は亡くなった高山裕太君といちばん仲が良い先輩で、一緒にふざけてみんなを笑わせていただけなのに。
長男の裕太君に家事の多くを押しつけて疲れさせ、自分の不安定な感情をぶつけ、「学校を責めたい自分の都合のいいシナリオ」通りに動かそうとした母親と、子供の頃からのネグレクトで、母親の言いなりになるしかなかった裕太君。
裕太君の口から、交流のある先輩として名前が挙がったばかりに、山崎君は「ターゲット」にされてしまったのです。
「自分は悪くない。自分は被害者だ。悪いのは学校とバレー部だ」
でも、裁判で明らかにされたさまざまな資料からは、学校や部活の友人たちが、一方的に母親から責められているにもかかわらず、母親に逆らうことができず、その攻撃の手伝いをさせられているという、板挟みになって苦しんでいる裕太君の姿が浮かんでくるのです。
裕太君は学校に行きたがっていたのに、母親はそれを許されなかった。
裕太君が、自らの意志で、一時的に母親から離れて暮らそうとしていたことも示されています。
実は、県教委こども支援課や佐久児童相談所を中心に、関係各機関の緊密な連携のもと、数か月も前からある計画が進行していたのである。それは、児童福祉の観点から、裕太君を母親のさおりから話して保護する母子分離の計画だ。2006年9月29日に行われた関係者連絡会議の席上、すでに、このことが話し合われていたのである。
教師も県教委も、さおりと裕太君の母子関係に危ういものを感じとっていた。
裕太君と親しかったバレー部の1年生たちも、裕太君が母親から半ば養育を放棄されていることを知っていた。通学距離が長いのにもかかわらず、「おかあさんが(駅まで車で)送ってくれない」「お母さんが弁当を作ってくれない」「お母さん、やだ」裕太君がそうつぶやくのを部員たちは聞いていたのである。そのうえさおりは、裕太君に家事全般を押しつけていたのだ。
こういうのは、男子高校生であれば、ありがちな親への反発、だと受け取られるのかもしれませんが、この事件での母親の行動をみると、息子のため、というよりは、自分が被害者であることをアピールするために、息子にプレッシャーをかけ、追い詰めていったようにみえるのです。
こうした苦心の末、同年11月半ば頃から、さおりと裕太君は佐久児童相談所を訪れるようになり、時には単独で訪れる裕太君の本音を相談員は聞き取っていった。
11月24日、丸山とバレー部部長の黒岩、生徒指導主事の尾野が佐久児童相談所を訪問した。その際、裕太君を担当している相談員は、裕太君から丸山に聞いてほしいこととして、以下のように伝えた。
「一時保護の期間を学校への出席扱いにできないか。母親にわからないように、上野監督と立花担任に連絡を取る方法はないか。手紙や電話、メールだと母親に知られてしまう」
児童相談所は、裕太君の相談内容については守秘義務がある。しかし、漏れ伝わるこうした言葉などから、さおりの厳しい監視の下、裕太君が外部と自由に連絡を取る手段を奪われており、その母親から逃れるため、一時保護に前向きになっていったことが窺える。
これらが事実であれば、もし学校や児童相談所側に反省すべき余地があるとすれば、もっと早く、この母子を一時的にでも引き離すことを決断すべきだったのではないか、とは思います。
実の親子を引き離すというのはそんなに簡単なことではないし、後付けで責めるのが酷な話なのは間違いないのですけど。
もし、それができていれば、こんな悲劇は起こらなかったかもしれません。
教員たちはみな、裕太君の不登校に頭を抱えていた。学校と県教委にとっては、再び登校してもらうことが最優先事項だった。そこで、高山(さおり)さんを刺激することは控えよう、何か言えば裕太君に影響が及ぶから我慢しようということになり、バレー部の保護者も部員たちも、さおりの言動にひたすら耐えてきたのだ。
それなのに、裕太君が亡くなった途端、バレー部が加害者にされてしまった。
僕がこの自殺した生徒の母親の話を読んでいて痛感したのは「ああ、こんなふうに、周囲を巻き込んで誰か、何かを責めずにはいられない人」って、どこにでもいるよなあ、ということでした。
その人には、どこかに向けないとやりきれないような、巨大な悪意のエネルギーみたいなものが常にあって、そのターゲットにされてしまったら、もう逃げられない。
しかも、そういう人って、「誰に対してもおかしい」わけではなくて、「自分の味方と敵をキチンと分けて、自分の味方に対しては、「ちゃんとした人」のようにふるまい、「この人にそんなに言わせるなんて、それはやっぱり、あなたが悪いんじゃない?」と感じさせる術に長けているのです。
周囲は、ターゲットになっている人を謝罪させたり、排除すれば、この責め苦から逃れられるのではないか、と考えるようになってしまうこともあるのです。
参考リンク:【読書感想】他人を攻撃せずにはいられない人(琥珀色の戯言)
ああ、でもこの自殺した生徒の母親の場合は、まだ全方位的に悪意を振りまいていて、周囲の人々もそれを知っており、ある意味「狡猾さが足りない」ところもあり、そのおかげで裁判でも学校側が勝訴したわけですが、世の中には、もっと上手く「自分の攻撃性をコントロールできる人」がいて、そういう人の被害者は、罪を着せられて泣き寝入りしているのではないか、という気もするんですよね。
これは「氷山の一角」でしかない。
「誠意を持って接すれば、わかってもらえる」
「うまく関係を築けないのは、あなたの側に問題があるのではないか」
「私に対しては、いつも礼儀正しく挨拶してくれるけどねえ」
それで安心していたら、次にその「攻撃」が向かってくるのは、あなたかもしれないのです。
いやほんと、世の中には、「なんでそんなことをするのかわからないのだけれど、常に他人に悪意を振りかざしていないと生きられない人」というのがいるんですよ。
しかも、仲が良かった(ようにみえる)人とか、何かをしてあげようとした人に、その刃が向かってくることが多いのです。
それはもう、理由や理屈じゃなくて、「そういう人」が存在するということを知っておくべきです。
関わらないのが最良の方法なのだけれど、それが難しければ、とにかくみんなで情報を共有し、事実を積み重ねて、闘っていくしかない。
この丸子実業の事例では、学校側・バレー部の保護者たち・弁護人たち・行政側が、最後まで力を合わせて闘ったのが大きかったのだと思います。
もし、このモンスターマザーや社会の圧力に押されて、自分だけでもラクになりたい、と誰かが切り崩されてしまえば、「やっぱり、いじめはあったんだ」という結論になっていた可能性もあります。
この本を最後まで読んでみて思うのは、こういうモンスターに遭遇し、ターゲットにされてしまうと、たとえ裁判に勝ったとしても、失うものばかりだよなあ、という無力感なんですよね。
「いじめ自殺」としての最初の報道と、裁判の結果、いじめの事実はなく、むしろ学校側のほうが「モンスターマザー」による被害者だったという事実認定が伝えられたときの扱われ方は、明らかに前者のほうがセンセーショナルで大きなものでした。
マスメディアが、自分たちの誤りを大声でアナウンスすることはない。
(これは、マスメディアだけではなくて、SNSなどの個人メディアでもそうです。僕もそうかもしれない)
しかも、裁判というのは、はじまってから終わるまで、何年もかかるのです。
その間、「いじめがあった学校」として周囲から白眼視されつづけ、判決が出たあとでさえ、その「風評」に怯える人々もいるのです。
モンスターマザーも「人権派弁護士」も、賠償金を払わないし、判決で指示されている謝罪広告も出さない。
彼らに強制的にそれをやらせるシステムは、存在しないのです。
ささやかな賠償金を払わせるより、もうそんな人には関わりたくない、というのも人情だと思う。
「無罪」になっても、「勝訴」しても、失った時間や信頼のほうが、はるかに大きい。
「やられ損」なのです。
もちろん、世の中の「いじめ自殺」が、すべてこのような事例ではないことは百も承知です。
学校側、いじめた側が「隠している」「軽く考えていた」場合のほうが、多いのだろうとは思います。
でも、この本に描かれているような「他人を攻撃せずにはいられない人」は社会に少なからず存在していて、それに苦しめられている人がいるということをなるべく多くの人に知っていてもらいたい。
他人事のように言っているけれど、人って、自分が正しいと思っているときこそ「暴走」しやすいんですよね。誰かを徹底的に責めたり、正しさを押し付けたりしてしまう。
僕にだって、その傾向はある。
こうした事件が起こるとマスコミは確かに、学校を追及する報道姿勢になりがちである。
しかし、ある全国紙の記者は、校長の記者会見を取材した時から半信半疑だったようだ。校長は、物まねのような行為があったことやハンガーで叩いた事実は認めている。だがその話は、さおりの主張する「死にたいと思うほどひどい」状況とはかなりかけ離れていた。校長は事実関係をしっかり説明しており、嘘をつくような人物には見えなかった。そこでこの時点では、両者の言い分が食い違っているとしか判断できず、紙面にもそのように書いた。
また、記者会見終了後の校長の、物まねについての発言や薄笑いを浮かべたような表情がテレビ放映されたことには違和感を覚えたという。彼が見たところ、会見時、校長は苦しい立場に置かれており表情も硬めだった。ところが放映されたシーンは、長時間の会見後、わずかに表情が緩んだ瞬間だけを切り取ったもので、会見全体の実際の状況を反映していない。テレビ局の編集は極めて不適切だと感じたのだった。
これも「判決」が出たあとだから僕も「そうだよなあ」と思うだけであって、ニュースでこの事件を見た時点では、「どうせ学校側が嘘をついたり、何か隠したりしているのだろう」と考えていたのです。
「両論並記」で書かれた記事であっても、そういう先入観をもって読んでいた人は、僕だけではなかったはずです。
どうせ、学校側が悪いんだろう、その思い込みが、事実の検証をおろそかにさせ、罪の無い生徒たちにまで、消えない心の傷を負わせてしまった。
人って、自分の子供の同級生の親や、隣人は「選べない」ですよね。
読むのがキツい話ではあるけれど、いざというとき、大事な人の手を離さないためには、知っておいたほうが良いことが書かれている本だと思います。
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