
- 作者: NHK世界遺産プロジェクト,須磨章
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
- 発売日: 2016/03/10
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
NHK世界遺産事務局長の経験があったからこそ知り得た、ほかのカタログや旅行案内的なものとは全く違う、悲喜こもごもの「知られざる世界遺産ストーリー」。数倍、数十倍も楽しくなる、「読む」世界遺産。
「世界遺産」を紹介するガイドブックはたくさんあるのですが、この新書は、NHK世界遺産事務局長として、長年各地の世界遺産を取材してきた著者とスタッフが「世界遺産の背景」について紹介したものです。
旅行者として訪れると「ああ、これがその世界遺産か、すごいなあ」と感心したり、「あんまりたいしたことないなあ」と、少しがっかりしたりするものですが、世界遺産に登録されるまでには、それぞれの物語があるんですよね。
そこで暮らし、その文化を守ってきた人がいればこその「遺産」でもあるわけです。
世界遺産が生まれる契機となったのは、エジプトのアブシンベル神殿が、アスワン・ハイダムの建設によってダムの底に沈むという危機に対して、国際社会が協力して、ダムの建設と神殿の保存を両立しようとしたことでした。
当初は、神殿すべてを惹起で持ち上げて移転する方法が検討されたのですが、それでは250億円もの費用がかかってしまうことから、一枚岩の神殿を切断解体して、移築するという苦渋の決断がなされたのです。
もちろん、その際には「神聖な神殿をバラバラにするなんて」という反対の声も強かったのですが、「ダムの底に沈んでしまうよりは」ということで、「切断移築案」でまとまったのです。
1964年4月4日、5ヶ国から1000人以上の技術者が集結し、いよいよ救済工事が始まった。ところがここにも難問が待ち構えていた。現場監督だったフランス人のヘンリ・ルイスさんはこう証言する。
「問題だったのは、私たちが普段使っていた電動カッターではうまく切れなかったことです。岩の中に硬い石が混ざっていてカッターを撥ね除けてしまい、切断面が曲がってしまうのです。まっすぐに切れないとダメなんです」
チェーンソーも試されたが、刃が厚く切断面がギザギザになってしまう。最後にはなんと刃の薄いノコギリを使い、人の手で岩山に立ち向かうことになった。モノクロの記録映像には何人もが並び、黙々とノコを挽く姿が映し出されている。私は24時間体制で行われたこの作業を目にした時には、目頭が熱くなったものだ。
現場監督のルイスさんは、さらに切ない決断をしなくてはならなかった。
「ラメセス像の頭は50トンほどありました。クレーンで持ち上げられる重量は30トンが限界でした。それでラメセス像の顔の前面を切り取らなければならなかったのです」
最終的に神殿は1042個のブロックに分解され、64メートル上の丘に運ばれたそうです。
そして、神殿は「年に2回だけ、ラメセス2世像に朝日が差し込む」という仕掛けも再現され、1968年に移築が完了しました。
このアブシンベル宮殿の救済が「世界遺産条約」につながっていったのです。
今では、世界中で知られている「ナスカの地上絵」のことを世界に知らせ、その保護のために一生を捧げたドイツ人女性、マリア・ライへさんのことも紹介されています。
ナスカの平原は、夏は強い日差しにさらされ、夜は大変な寒さだ。この時、ライへ47歳。当時のライへの写真を見ると、暖をとるために厚手の服を重ね着し、毛糸の帽子をかぶり、ドイツにいた若い時の育ちが良く理知的な面影はまったくない。紙を使うのがもったいないからと、スカートに測量結果を書きこんでいたという。
その頃ライへは、地上絵の線が消えかかると箒を持ち出し、せっせと砂を搔き出していた。その特異な姿は、近隣の人々に恐れを抱かせてしまう。当時ライへの調査を手伝っていたエスパルサさんは「みんなライへのことを魔女だと思っていたんだ。だから誰も彼女に近づかず、喋ろうともしなかったよ」と証言する。
そんな孤独のなか、ライへさんは、この地上絵の価値を信じて、守ってきたのです。
オカルトブームで地上絵に観光客が押し寄せたときには、地上絵が踏み荒らされるのを防ぐため、自分で費用を出して見学塔を建てています。
この新書を読んでいて痛感するのは、自然遺産はさておき(それでも、現代社会で自然を守るには、やはり人間の理解が必要なんですけどね)、文化遺産においてはとくに、その遺産を大事にし、守ってきた人々の存在が不可欠だということなのです。
どんな素晴らしい建造物でも、ISによって破壊されてしまったパルミラ遺跡のような運命を辿ることもあります。
これまでの人間の歴史のなかで、壊されたり、埋もれたりしてしまった遺跡は、現存するものより、はるかに多いのではないでしょうか。
ちなみに、世界遺産条約がユネスコで採択されたのは1972年ですが、日本が加盟したのは、その20年後の1992年のことでした。
たくさんの「遺産」を持つ日本の加盟が、なぜこんなに遅れたのかについて、著者はこう述べています。
世界唯一の被爆国として、核兵器廃絶を訴えていくために、原爆ドームを保存していこうと日本政府は決めていた。世界遺産条約に加盟すれば、ゆくゆくは「原爆ドームを世界遺産に」という声が国内で湧き上がってくることは目に見えていた。そのことが官僚たちの動きを止めていることに、益田さん(文化庁建造物科の調査官)は気づいたという。広島・長崎に原爆を投下したアメリカに気をつかうといった単純なことだけではなく、世はまさに「核」という魔物を真ん中に置き、西側と東側が睨み合っている”米ソ冷戦時代”の只中だった。原爆ドームが世界遺産候補として脚光を浴びれば、東側陣営にアメリカを批判する機会を与えてしまうというポリティカルな懸念だったというわけだ。世界遺産条約に積極的に取り組もうと動けば、その官庁がリスクを負い、責任を持たなければならないという極めて日本的な感覚が、世界遺産条約の加盟に20年以上の遅れを取った大きな要因だったということだ。
この新書のなかでは、日本が国内最初の世界遺産候補として推薦した法隆寺が登録されるまでの経緯が紹介されています。
法隆寺は解体を含んだ大きな修繕を繰り返されてきたため、現存しているものが「本物」なのかどうか、という議論がなされたそうです。
石の文化圏であるヨーロッパでは、「そのまま」が遺っても、木の文化圏では、同じようにはいかない。それを理解してもらうのは、かなり困難だったのだとか。
最近では、欧米ではめぼしい遺産は登録されてしまっていることもあり、世界遺産は多様化してきているようです。
いま、そこにある世界遺産を見るだけでなく、そこにいたるまでの歴史を知ることによって、世界遺産の見方が、少し変わってくる、そんな新書だと思います。
ラメセス像の頭部の傷も、それだけ見れば「残念」な感じがするけれど、移築のために尽くした人々の想いを知ると、その傷もまた「人類の遺産」だという気がしてきます。