琥珀色の戯言

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【読書感想】名門校「武蔵」で教える 東大合格より大事なこと ☆☆☆☆☆

名門校「武蔵」で教える 東大合格より大事なこと (集英社新書)

名門校「武蔵」で教える 東大合格より大事なこと (集英社新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
校内の一等地にやぎがいる。英語の授業で図画工作。おまけに、きのこを見つけたら成績が上がる!?時代が急速に変わりゆく中、恐ろしいほどのマイペースさで独特の教育哲学を守り続ける名門進学校がある。それが本書の舞台、私立武蔵中学高等学校だ。時に理解不能と評されることもある武蔵の教育が目指しているものとはいったい何なのか…。斬新な視点から数々の学校や塾を論じてきた気鋭の教育ジャーナリストが「学校とは何か?」「教育とは何か?」に迫る、笑撃の「学校ルポルタージュ」。


 この新書、面白そうなんだけど、僕も息子たちも、こんな名門校には縁がなさそうだし、読んでもあんまり意味なさそうだよな……
 そう思っていたのですけど、読み始めてみると、面白くて、一気読みしてしまいました。
 日本には、こんな学校があるのか!
 僕ももし生まれ変わって、もうちょっとマシな頭があれば、ここに通ってみたかった。


 読みながら、この本のことを思い出していました。

fujipon.hatenadiary.com


 こちらは大学、「武蔵」は中学校・高校だけれど、どちらも自由と自主性を重んじた環境で、天才たちが過ごしている場所なんですよね。

 武蔵にはやぎがいる。ペットとしてうさぎを飼うのとは全然違う。「飼育している」というのもちょっと違う。身近なところに家畜として置いて、よく見るためにいるのだ。やぎを育てることが目的ではない。生徒を育てるためにやぎがいる。
 武蔵には約30人の「やぎのひとたち」がいる。雨の日も、雪の日も、休みの日にもやぎにエサをやり糞の掃除をする生徒たちだ。2011年に高1の選択必修授業「総合講座」のテーマの一つとしてに二頭のやぎを迎え入れ「やぎの研究」が始まった。いまでは学年にかかわらず関心のある生徒が参加している。
「やぎのひとたち」を束ねているのが、田中洋一教諭である。当然理科の教員だと思うだろう。残念。数学の教員だ。
「ところがどうしてもね、やぎはかわいい。かわいいもんだから、ついペットを飼っているような気分になってしまう。でもそうすると、やぎそのものがクローズアップされていって、雨の日も雪の日も、蚊がぶんぶん飛んでいる中でもやぎの世話をする生徒に対するねぎらいの視点がまったくなくなっちゃうんですよ。もちろん私に対するねぎらいも(笑)。不思議なんですよ」


 著者は、武蔵でやぎが飼われるようになったきっかけについても、詳しく話を聞いています。
 これがまた、どこまで本当なのか、よくわからないような話で。

 
 僕が驚いたのは、生徒たちが、このやぎに対して、どのように接しているか、でした。
 自然や生命に直に触れることの大切さ、とかいうような美談ではなく、なんとなく「やぎっていいよな~」と癒されていたり、やぎの「研究」をしてみたり。

 やぎの前を通りかかると、「やぎっていいよな」なんて言いながら生徒たちがよく掃除をしている。しかしただエサをやって掃除するのが「やぎの研究」ではない。
 数名の学生横断グループで研究テーマを決めて、観察や調査を行う。中学生の「やぎのひとたち」に聞いた。
「僕は反芻と食事の関係を調べています。エサの量を決めて、一日中観察して反芻の時間を計ります。食べる量が増えると反芻の時間も増えるんですけど、やぎの個体によっても反芻の時間が違ったり、ちょっとした食べていないのにずっと反芻していたり、日によって違ったり……」
 それをどうまとめるかはこれからの課題だ。
「僕は糞を捨ててしまうのはもったいないと思って、やぎの糞からつくった堆肥を混ぜた土と、普通の腐葉土を混ぜた土と、化学肥料を混ぜた土とで野菜の生育を比較しました。結果は化学肥料の圧勝でした……」
 あれ?
「ちょっと計画が甘くて……。堆肥のいいところは土の中にいる生物を多くするとか、空気がよく通るようになるとか、そういう効果なので、栄養価で比較するべきではなかったなと。いままた違う研究を考えています」
 研究テーマは生徒たちが自由に決める。田中さんは一切口を出さない。

 数学の教育によるやぎの研究、社会の教員によるきのこの話、英語は要らない英語劇、国語の教員による対馬研究、数学の教員による震災対策……まさしくカオスである。ほかにも国語教員による打楽器の授業、数学教員による酪農体験、英語教員による稲作実習、社会科教員によるお菓子づくりなどの正規の授業がある。


 武蔵というのは、効率重視、大学入試最優先で、結果を詰め込む授業ではなく、学ぶことが好きな先生たちが、生徒たちに「ちゃんとした研究をやるためのプロセス」を教える学校です。
 テーマは生徒たちが自分で決めて、それを証明するための方法も自分で考える。
 テーマの中には、先行研究があって答えがすでに出ているものもあるし、望んでいた結果が出ないこともある。
 その試行錯誤の過程を体験させることが、武蔵の「教育」なのです。
 

 2017年度武蔵中学校入学試験、理科の大問三。受験生には問題用紙だけでなく、小さな封筒が配付される。その中に、二本のネジが入っている。それをよく観察して、問いに答えるのだ。

 袋の中に、形の違う2種類のネジが1本ずつ入っています。それぞれのネジについて、違いがわかるように図をかき、その違いを文章で説明しなさい。ただし、文字や印、傷などは考えないことにします。(試験が終わったら、ネジは袋に入れて持ち帰りなさい。)


 B4のわら半紙の上のほうに三行の問題文が書かれており、それ以外は余白。そこに自由に図を描き、違いを説明する。いきなり見たら面食らうだろう。
 もちろん武蔵の受験生たちはこれが武蔵名物の「おみやげ問題」であることを知っている。試験終了後、そのものを持ち帰るので、「おみやげ問題」と呼ばれている。
 1922年に実施された第一回入試では三枚の木の葉が配付され、「与えられた三枚の葉をしらべて異なって居る諸点をあげなさい」と問うていた。創立以来の伝統なのだ。
 これまでに、マグネットシート、画鋲、キャスター、ファスナーなどが”おみやげ”になっている。現校長の梶取さんが武蔵を受けたときには、みかんが配られ、試験中にそれを食べてしまった受験生もあったという。


 この本には、武蔵が公式に発行しているという「武蔵中学校入学試験問題」に掲載されている解答例も紹介されています。
 こういう入試問題って、「ひらめき」や「地頭のよさ」をみているのだな、と思うようなものが多いのですが、この解答例では、謹厳実直というか、対象をしっかり観察して、ひとつひとつ丁寧に特徴を挙げていっていました。
 こんな普通の解答で良いの?と思ったのですが、この本で武蔵の教育理念を知っていくと、そういう「地味でも大事なことをひとつひとつ埋めていける、粘り強い研究者」を育てていこうとしているのだということがよくわかります。
 受験勉強に特化して、東大にたくさんの生徒を合格させる、というのが目標ではなく、「その後の人生で、自分で課題を決めて、それを解決できる力を身につけさせる学校」なのです。
 とはいえ、「人生を切り開くのに、東大に入るのはけっしてマイナスではあるまい」ということて、最近は、高校最後の1年は、けっこう受験対策をやるようになったそうですけど。
 生徒や親としては「入れるものなら、やはり東大へ」と思うのもわかります。


 生徒のこんな話もありました。

「僕は小学校のころから城が好きで、小学校のころは結構変人扱いされていたんですよね(笑)。でも武蔵に来たらもっといくらでもディープな趣味の人がいて、僕は普通の人になることができました(笑)。おかげで自分のいい面を伸ばせたと思います」


 エリート校というのは、他の学校を下に見ているようなイメージがあったのだけれど、実際に通っている生徒たちのなかには「普通の学校では、異端として扱われ、生きづらかった」というケースが少なくないのです。
 「天才」が、個性を伸ばすためには、こういう学校が必要になるのかもしれません。


 武蔵OBの河合祥一郎さんが、こんな話をされています。

 武蔵には、「わからない」って言う前に自分で考えなきゃいけないんだっていう自調自考の文化があった。ちょっとツッパるようなことを勧める文化だったし、あるいは背伸びをさせる文化だと思うんですよね。
 でもいまは、世の中全体的に、背伸びをすることを教えてくれなくなっちゃったのかな。
「いまあるそのままの君たちでいいんだよ」みたいなそういう時代。だから知らない自分を恥じないのかな。いまは東大の学生も平気で「それは教わってないからわかりません」と言いますよ。
 その流れと、いまの武蔵は無縁ではないのかもしれないという危惧があります。ツッパる子が少なくなっちゃったんじゃないかという、ツッパって大学レベルの数学にまで手を出しちゃうような子が増えてくるならば、教師がどう教えようが関係ないはずなんですが、教師の教え方次第でできることが変わっちゃうような子が増えてきたんじゃないかな。学問にはツッパることは重要なんですけどね。


 著者も仰っているのですが、世の中の学校が、すべて「武蔵のように」なるのは難しいと思います。
 失敗だと言われる「ゆとり教育」をきわめて優秀な生徒と先生がやれば、武蔵のような学校になるのだけれど、残念ながら、僕を含む「普通の人々」は、その「ゆとり」をうまく活かせない。
 だけど、こういう学校って、世の中に一定数は必要だと感じますし、武蔵には「普通の東大への予備校」にはなってほしくない。


 僕は「こんなの自分が読んでも、意味ないのでは」って思いながら読み始めたんですよ。
 でも、大人が「こういう学校」の存在を尊重し、自分の子どもにもこういう教育を受けさせたい、という姿勢をみせなければ、武蔵のような学校が失われてしまうのではないか、と読み終えて考えるようになりました。
 校風は、一度途切れてしまうと、そう簡単に元通りにすることはできません。
 自分に直接関係がなくても、「こういう学校が、これからも日本に存在していてほしい」、本当に、そう思います。


最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―

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