琥珀色の戯言

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【読書感想】もっとヘンな論文 ☆☆☆☆

もっとヘンな論文

もっとヘンな論文


Kindle版もあります。

内容紹介
研究の面白さをたっぷりと味わう!


珍論文ハンターのサンキュータツオが、人生の貴重な時間の多くを一見無駄な研究に費やしている研究者たちの大まじめな珍論文を、芸人の嗅覚で突っ込みながら解説する、知的エンターテインメント本。


【目次】
はじめに
一本目 プロ野球選手と結婚する方法
二本目 「追いかけてくるもの」研究
三本目 徹底調査! 縄文時代の栗サイズ
四本目 かぐや姫のおじいさんは何歳か
番外編1 お色気論文大集合
五本目 大人が本気でカブトムシ観察
六本目 競艇場のユルさについて
七本目 前世の記憶をもつ子ども
番外編2 偉大な街の研究者
八本目 鍼灸はマンガにどれだけ出てくるか
九本目 花札図像学的考察
十本目 その1 「坊ちゃん」と瀬戸内航路
十本目 その2 「坊ちゃん」と瀬戸内航路 後日譚
あとがき


 1976年生まれのお笑い芸人で、一橋大学の非常勤講師でもある、サンキュータツオさん。
 前著『ヘンな論文』が出たのは2015年で、僕も読んだのですが、世の中には、こんなマニアックかつ、学者としての業績につながらないような論文を時間と手間をかけて書いている人がいるのだなあ、と感動しました。
 僕自身が、対象への興味というより、「なんとか学位とらなきゃなあ……」とか、「いちおう、論文書いて実績つくっておかなければ……」というような理由で、半ば義務として論文を書いていたのを思うと、なんだか恥ずかしくもなってきたのです。
 ああ、こういう「自分が好きなこと、興味があることをキチンと調べ尽くさないと気が済まない人たちが「学者」なんだなあ、って。
 まあ、これらの論文が、学会で評価される機会はほとんどなさそうなのですが、最初に出てくる「プロ野球選手と結婚する方法」は、ネットではけっこう話題になっていたのを思い出しました。

 最初に紹介するのはネットでも話題になった論文「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」だ。そのタイトルからもうかがえるスキャンダラスな内容、そんなことが研究になるのかというテーマ設定、たしかに論文になじみのない人が騒ぐのも無理はない。しかもこの論文を書いたのは大学4年生の女性で、卒業論文として書かれたものなのである。
 私が最初にこの論文を読んだとき、いたく感動したのを覚えている。もちろんこれは「ヘンな論文」たちを紹介する本なのであるが、大学4年生にしてすでにこのレベルの研究ができるなんて、この人、研究者適性すごい! と思った。どうだろうか、いまでこそ学部によっては卒業論文というものがなくなったが、それでも「卒論」を書いた人は多いのではなかろうか。


(中略)


 冒頭に書いてある主旨がすごい。
「本研究は、プロ野球選手に憧れを抱く20代を中心とする女性の手助けとなるよう、プロ野球選手と結婚するための方法論を策定することを目的とし、調査を行った。」
 ここまではっきり宣言されると気持ちいい。もはやツッコむ気力さえなくなるではないか。俄然興味津々である。
「ここでの方法論を基に、多くの女性がプロ野球選手と結婚することが出来ればうれしく思う。」


 これ、論文っていうより、女性週刊誌の特集記事じゃないのか?
 と言いたくなるような前フリなのですが、研究内容そのものは、野球選手の結婚についてのさまざまなデータを分析して書かれたもので、けっこうちゃんとしているんですよね。
 結論を読むと、「野球選手と結婚するのも、女子アナになるのも大変なんだな……」としか言いようがないのですけど。
 このテーマで、よく指導教官はゴーサインを出したなあ。
 いや、面白い、すごく面白いんだけど、面白すぎる。
 僕自身は卒論を書いていないのですが、これを読んでしまうと、もし、今、僕が卒論を書くとしたら、「AKBのメンバーと結婚する方法」というパクリ論文を作成しそうです。


 「野球選手と結婚する方法」に興味はあるけど、そんなことが論文になるのか?という感じなのですが、なかには、「そもそも、そんなことに疑問を持つ人がいるのか……」というものもあります。

 かぐや姫をみつかたおじいさんの年齢はいったい何歳か。
 そんなことを真面目に研究した論文が、この世には存在するのだ。


 かぐや姫の年齢ならともかく、おじいさんの年齢って、そんなに気になる?
 ところが、これは、国文学の研究者のあいだでは「かなり議論され、まだ決着を見ていない問題」なのだそうです。
 そして、テキスト(竹取物語)を読み込んでみると、たしかに矛盾した記述があるんですね。
 

 なぜ議論になるのかというと、
・物語序盤「翁は、もう70過ぎた、今日とも明日をも知れない状態だ」といって、かぐや姫に結婚をすすめる。ところが、
・物語最後、かぐや姫が文字通り昇天してしまったシーンでは、「翁は、実際は50くらいだけど、物思いにひたりまくって、老人に見えた」と書かれている。
 ちょっと待って、70なの? 50なの? というところが、争点なのである。どちらの叙述を信じるか。
 考え方のひとつとして、何人もが書き写しているかもしれないし、最初と最後で完成した時期がちがうのかもしれないし、たまたま出てきちゃった矛盾なんじゃないか、というものがある。特に印刷技術がなかった時代の本は、こういうことがよく起こる。後年書き写した人がアドリブいれちゃったりとか。だから現存するどの本を正規のものにするのかでもめたりもするのだ。
 ただ一方で、そうじゃない、絶対意図があるはずだ! という考え方も紹介されている。


 結局のところ、こういうのって、タイムマシンがなければ「絶対的な正解」は出ないのではないかと思うのですが、それでも、「気になる人たち」は、少しでも真実に近づこうと、さまざまな研究をして、考察を加えているのです。
 あの時代に、「校閲ガール」がいたらよかったのに、ねえ……

 私の好きな論文に「女子短大生における食パンの意識調査」という論文と、「女子短大生の餅の喫食状況」という論文がある。別に女子大生は食パンのこと意識してないよ、と思うし、女子短大生が餅をどれだけ食おうが知ったことかよ、と思う。しかし、読んでみるとそれは、日本人の食生活の変化のなかで、米食が減少し、パン食がどれくらいの期間にどれだけ浸透してきているかということを知ることができる数少ない基礎研究であることがわかってきた。こういう調査は、10年置きくらいに、だれかがやっていないと、人類の歴史の1000年後くらいに、「この時代に日本人という人種は、餅、というものを食べていたらしい」ということがわからないのだ。
 考えてもみてほしい。私たちは1000年前のことをあまりにも知らない。もちろん日本が木や紙の文化で、ほとんどの資料が焼けてしまったとか、そもそも識字率がそんなに高くなかったとか、そういう問題はあるにせよ、「今」を切り取るものが存在しなければ、「未来」で「過去」を知るすべがなくなってしまうのだ。
 そういうときに役立つのが論文だ。論文は残り続ける。いまは必要がないかもしれないけれど、数年後、数十年後には役に立つものもたくさんある。


 僕は半世紀近く生きているのですが、あらためて思い返してみると、自分が子どものころ、どういう暮らしをしていたか、思い出そうとしても、なかなか詳しくは思い出せないんですよね。
 もちろん、特別な出来事は記憶にあっても、「日常生活」がどんな感じだったかというのは、ほとんど忘れてしまっています。
 これはたぶん、人類全体の記録・記憶にもあてはまることで、特別な事件やイベントは、多くの人が詳しく記録しているけれど、ふだんの生活については、「記録しても意味がないだろう」と、書き残さない人がほとんどです。
 そうしていくうちに、「ある時代の人々は、ふだん、どんな生活をして、どんなものを食べていたのか」という日常の記録・記憶は、どんどん失われてしまうのです。
 みんなが「そんなこと、わざわざ記録しなくても」と思うようなことは、結局、誰も記録しないんですよね。
 そんななかで、こういう論文のような形で、「あたりまえの生活」が記録されていくというのは、とても意義深いことだと思います。
 人類の進化にはつながらないかもしれないし、講師の口を探すときのアピールポイントにもなりがたい仕事でしょうけど。
 近い将来には、僕たちが書いているWEB日記をビッグデータとしてAIが解析して、「2000年以降の人類の生活の様子」を後世に伝えてくれそうな気もします。
 

 いろんなところで言っているが、ここでもまた言う。
 学者とは、研究者とは、皆さんの一番近くにいる狂人だ。
 しかし、みなさんも「あっち側」に行ったほうが断然人生は楽しい。苦しくなる人もいるけれど、それもまた楽しい。笑って過ごすしかない。


 この本の大きなテーマは「アマチュアリズム」だと、著者は仰っています。
 大学や研究機関じゃないところでも、研究はできるし、論文も書ける。
 本人にとっては趣味で、人生を楽しむための研究でも、どこかで誰かの役に立つかもしれない。
 そんな想像をしてみるのもまた、研究のロマンではありますね。
 「締め切りがない、それがポストにつながるわけでもない、自分のペースでやれる研究」って、ある意味「最強の娯楽」だよなあ。


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