琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】「芸」と「能」 ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
ユーミンのコンサートには男性同士のカップルが多い。「アナ雪」に見る、「姫」観の変遷。モノマネとは、文章の世界で言うなら「評論」。香川照之さんと立川談春さん、歌舞伎と落語のにらみ合い。冬季オリンピックの女子フィギュアは、女の人生の一里塚。「話芸」の達人と「文芸」の達人が、「芸能」のあれこれを縦横無尽に掘る、掛け合いエッセイ。


 清水ミチコさんと酒井順子さんの往復エッセイ。
 清水さんは「芸」だけではなく、文章にも定評がある方ですし、酒井さんのエッセイの腕は言わずもがな、ということで、期待しながら読みました。
 うん、面白い、面白いんだけど、なんというか、お互いに相手のファンだということで、ちょっと遠慮がちになっているというか、「褒め合い」みたいになっているのが、読んでいてちょっと気になってしまうんですよね。
 酒井順子さんって、基本的に好きな人とか友人知人の悪口を書くような人じゃないしなあ。
 往復エッセイというのは、阿川佐和子さんと檀ふみさんのような「忌憚なくものが言える親友」か、「まったく別のジャンル、あるいは、プライベートでの親交が皆無な相手」のほうが、やりやすいのかもしれません。


 この本の解説で、清水さんと親交が深く、酒井さんの読者でもある光浦靖子さんが、こう書いておられます。

 お二人とも私の憧れの人です。お二人とも私より年上なので、私は素直に憧れることができます。この本にも書かれているように、お二人は似ています。目立つことが嫌いで目立つことを生業にしているところなんて。酒井さんは一人で本を書き、清水さんは一人で舞台に立ちます。どちらも自分一人で思いのままになることしかやらない。でもそれは、責任を自分一人で受け止めることだから、強いんだ。この中で一番目立ちたい、と、矛先が他人に向いていないから、かっこいいんだ。人を観察することが仕事の核であるのに、人を観察することに長けているのに、人に囚われないなんて、なにか不満なりチクリといきたいときも、けっして否定という簡単な手段を使わず、傷つけず、エンターテインメントに変えるんだ。なんなら優しい人に見えるんだ。実際、お二人は優しい、私はそう思います。


 ああ、そういえば、清水さんも酒井さんも、「ひとり」で凛と立っている人ではあるよなあ、って。
 このエッセイも、強く誰かや何かを批判することなく多少の自虐をまじえながら、楽しくさらっと読めるのです。
 僕にはそれが物足りない、と感じるところもあるのだけれど、疲れているときでも、安心して読めるエッセイです。


 僕は清水さん、酒井さんより少しだけ年下なのですが、世代が近いので、お二人の「年齢」とか「仕事」「芸」に対する考えには、頷かされるところが多かったのです。


 清水さんの弟さんが「小唄」を習っているそうなんですよ。

 先日は小唄の会の本番があったそうで、東京からやってきた小唄の会の皆さんと歌いあった様子。あんな山奥にわざわざいらっしゃる通がおられるとは、ますます奥深い話です。
「緊張する?」と聞いてみたら、「なんだか本番で焦ってもしょうがないんじゃないか、と悟った」のだとか。小唄を習ううちに、芸能だけは頑張っても仕方ない世界なんだとわかった、と言ってました(あんた誰に向かって口きいてんの)。
 しかし、なるほど所ジョージさんのCDを聴いた時もそういう感じがしました。実に頑張ってない。
 うまい事言っただろ、とか、歌がうまいだろ、的な自己顕示欲が薄く、全体的に吹いてくる風が軽いのです。余芸として、とか、楽しいからやっている、という感じが伝わってきます。リッチなんですよね。
 こういう事は誰にでもできるようでいて、案外できない事ではないかと思います。特に頑張り屋さんでコマメな日本人。どうしたって自分を表現するときにベストを尽くしたい、と思ってしまうのが当然ではないでしょうか。
 しかし、ここが面白いところで、努力したのに売れない人もいる。それは努力したからこそ、見る側がその重さに困ってしまう、という気持ちをわかっていないのではないか、というような。この一点は、スポーツと見どころが違うのかもしれませんね。点数のつけようがない。
 人は、つまりお客さんは、「オレのここ一番」を見たいのではなく、実はその人の「平常心」を見たいのではないか。なーんて思えてくるのでした。
 一生懸命に頑張ってる芸能人もいる。そういう人も事実、残っている。けれど、無責任な蛭子能収さんがなぜあんなに売れているか、と思うとますます興味深いです。


 ああ、これはわかるなあ、って。
 もちろん、全身全霊をかけての熱唱には、人を揺さぶる力があるとは思うのですが、それはこちらもそれなりの準備や覚悟をしている場合であって、日常のなかのエンターテインメントとしては、あまりに演者の気合いが入り過ぎていると、気圧されるというか、ついていけない感じってあるのです。
 「努力したからこそ、見る側がその重さに困ってしまう」というのを、舞台に上がる側である清水さんが語っておられるのは、とても興味深い。清水さんは、「観客側の視点」を持った人なのでしょうね。


 酒井さんの回には、こんな話が出てきます。

 もちろん私は、講演という仕事は一切せずに、生きて参りました。どうしても話すことが避けられない業務の時は、どなたかお相手にいていただき、対話形式であればギリギリで何とかなる、という感じ。それでも話している間中、背中をいやーな汗が流れ続けます。
 が、しかし。ここしばらく、話す場に際して、ハタと「あれ、私ったら緊張していない」と気付くようになりました。以前であれば胸はドキドキ、顔は真っ赤に……という感じだったのに、いつも通りに話している自分がいるではありませんか。
 年をとって、スレてきたというのもあるのでしょう。「死ぬわけじゃないし」と、人前でも腹を据えていられるようになったのかもしれない。
 しかしもう一つ、私には思い当たることがあるのです。それは二年ほど前だったでしょうか、とある映画を見た後に、その映画の監督さんによるトークショーが開催されました。監督さんは、私より少し上の年代の女性。映画の趣旨や苦労話などが語られたのですが、おそらく人前で話すことに慣れておられないのでしょう、とても緊張して、おどおどして見えた。話し方だけでなく、登場の仕方、お辞儀のし方など一挙手一投足に、緊張感がにじみ出ていたのです。
 その姿を見ていて、私には一つの天啓のようなものが降りてきました。すなわち、
「中年がおどおどしていても、良い事って一つも無いんだな」
 と。
 若者が人前に立った時、緊張感いっぱいでおどおどしていても、「初々しい」「可愛い」と、周囲は見てくれます。まだ世慣れていないのだから仕方ないよね、と。
 対して中年にもなって同じような態度だと、初々しくもないし、可愛くもありません。同情の余地が無い、と言いましょうか。相手が同情してくれるならまだ緊張のし甲斐もありましょうが、
「なんでこの人、大人なのにこんなに緊張しているわけ?」
 と思われるだけだとしたら、緊張のし損ではありませんか。
 そのことがあってから私は、「中年になったなら、どんな場でも堂々としていなくてはならないのだなぁ」と、理解したのです。「緊張」は、若者の特権。中年になったのなら、たとえわからないことがあっても堂々と、
「わかりません」
 と言わなくてはならぬのだ、と。
 かくして私はその後、おどおどの虫が頭をもたげようとすると「中年は堂々としていろ」と、自らに言い聞かすようになったのです。そしていつの間にか、話の内容はともあれ、人前で話す時にもあまり緊張しなくなった、と。


 僕も年齢とともに、人前で話やプレゼンテーションをすることが、若いころほど苦痛にはならなくなりました。できれば避けたいことではあるのですけど。
 若者の緊張は周囲も慰めようがあるのだけれど、おっさんの場合は、フォローする側も「めんどくさい人だな……」というだけになっちゃいますし。
 それに、年を重ねるとともに、同じ場で、自分より緊張している人をみかけることが多くなりました。
 よく、自分より酔っぱらっている人をみると、酔いが醒める、と言うじゃないですか。
 緊張にも、同じようなことが言えるのではないか、と僕は思っています。
 人間というのは「自分にとって得にならない」ことに関しては、けっこう適応してしまうのかもしれませんね。
 単に、年齢とともにいろんなものが鈍くなっているだけ、とも言えそうですけど。


 清水さんと酒井さんのファンの方、気軽に読めて不快にならず、そこそこ面白いエッセイを求めている方には、おすすめです。


主婦と演芸 (幻冬舎文庫)

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男尊女子 (集英社学芸単行本)

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ああ言えばこう食う (集英社文庫)

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