- 作者: 清水義範
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/03/13
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 清水 義範
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/03/13
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内容(「BOOK」データベースより)
文体模倣を駆使したパスティーシュ作家として、世の読者をうならせ、笑わせてきた清水義範。本書では、「話をチャーミングにする比喩」「自分をだしにすると話は面白くなる」など、ユーモアを織りまぜた軽快な言葉のキャッチボールを身につける術を、実例満載で惜しみなく披露!
「コミュニケーション術」の本って、けっこうたくさんありますよね。
それだけ多くの人が悩んでいて、かつ、決定的な解決法が無いのだろうなあ。
この本は、作家・清水義範さんが「大人として、日常生活に困らないくらいの会話のコツ」をまとめたものです。
注意していただきたいのは、「人の顔を見ると、緊張してしまって声も出せない」というような深刻な対人恐怖症への処方箋ではない、ということです。
「保護者会や会社の飲み会などで、知らない人と過ごす時間が気詰まりでつらい」というレベルの人、あるいは、「自分では積極的に話しかけているつもりなのに、なんだか会話が噛み合っていない感じがする」する人が、この新書の適切な読者だと思われます。
「会話術」というと、「面白いこと、興味を持ってもらえることを話すためには、どうすればいいのか」と考えがちなのですが、著者は、声の大きさやトーン、話す速度などがかなり大事だと指摘しています。
しゃべり方について、私にはもうひとつ気になっていることがある。
これは特に若い人に顕著なのだが、しゃべる時に、口をしっかりとあけずに、口の中でもごもごとしゃべり、何を言っているのか聞き取りにくい場合がよくあるのだ。
具体的な例を出してみよう。たとえばこういうことが言いたいんだとする。
「おれ、やってねえって言ってるじゃん」
これを若い人はしばしば、こんなふうに言うのだ。
「おれ、やってねえって言ってんじゃ」
そういうずるずるした発声法はやめてほしい、と私は思うのだ。
若い人がそういうふうにしゃべるのは、ちゃんと発声すると疲れるからであろう。
ラ行の音を、ちゃんと発音すると舌がくるりと動いて疲れるのだ。だから「おれ」が「おえ」になってしまう。「言ってる」が「言ってん」になってしまうのだ。
「わからない」が「わかあない」になり、「くらべる」が「くあべる」になってしまうような、力の抜けたしゃべり方は本当に聞きづらい。
「すみません」
が、
「すいません」
になり、
「すいませー」
になるような省エネしゃべりはやめようではないか。
きれいに発声できてこそ、会話は美しいものになるのだ。美しくしゃべるというのが、会話術の第一歩だということを知ってもらいたい。
「すいませー」の例からも言えることだが、「ん」というのも消えやすい音なのである。
著者は、ある日本語に堪能なアメリカ人から、教会で日本人の信者がお祈りをして、最後に「アーメン」と言うべきところで、正しく「アーメン」と言う人はすごく少ない、と言われたことがあるそうです。
「ほとんどの人が、『アーメー』というふうに言っていますよ。英語の『n』の音と、日本語の『ん』の音はちょっと違っているのではないでしょうか。『n』の音は、喉に息をつまらせるようにして、力をこめて胸から発音するんです。それがちょっと疲れる発声法なので、『アーメー』というふうに力を抜いちゃうんだと思います」
ああ、僕もこういう「語尾が消えてしまうしゃべりかた」をしがちだなあ、と思いながら読みました。
著者は「疲れるから」って仰っていますが、僕自身の感覚としては、最後まできっちり発音してしまうと、ちょっと「キツい感じの言い方」になるような気がするんですよね。
そんなに意識的に語尾を「抜いている」つもりはないのだけれど。
著者は、会話の重要性を示すものとして、こんな例を挙げています。
たとえば、医者に診てもらう場合をとってみても、会話の重要性は明白ではないか。
医者が、
「どうしました。どこか悪いのですか」
ときいているのに、説明がうまくできなければ診療にならないのだ。
「はあ、腹の具合がどうも……」
「おなかのどこが、どんなふうなんですか」
「ええ、どうもちょっと変で」
「どこか痛みますか」
「痛いというほどではないんですが、なんかもやもやして……」
この患者は適切な診断が受けられるのかどうか心配になってくるではないか。
もたもたしながらも、なんとか診療が進んで、これは一度検査をしましょう、ということになっても、
いつ、どこで、どういう検査をするのか。検査によってどういうことがわかるのか、検査まではどう過ごせばいいのか。
ということをきけない人では、話が進まないのである。もらった薬はどうのむのか、次はいつ来ればいいのか、毎日の生活でどういう注意をしたらいいのか、などのことをちゃんときけず、「はあ……」だけで医者をあとにするのではまともに生きていくこともできないのである。
だから、まともな大人として、会話力は生きていく上でどうしたって必要なものなのだ。
自分の要求をきちんと伝えることって、ものすごく大事なのだけれど、けっこう難しいのです。
病気の人の場合、痛みや苦痛でうまく喋れない、考えられない、ということもあるのですが、「どうしてほしいのか、医療側としてはよくわからない」という患者さんって、少なくないんですよね……
また、女性の「相づち」についてのこんな考察もなされています(著者は男性です)。
この、「そうなんですか」は、とても興味深い言葉なのである。語り手と聞き手の間にほどよい距離をおく言葉なのだ。
これは女性に見られる現象なのだが、女性が、あまり興味の持てない話題でしゃべられると、これが出てくる。
関心の持てない話を延々とやられても、次のようには言わない。
「私、その話には興味ないの」
「やめて、もう聞きたくない」
そんなふうに言ったら会話が壊れてしまうので、女性はそうは言わない。
興味のない話に対して、女性はこう言うのである。
「そうなんだあ……」
実にさりげなく、その話はもういい、ということが相手に伝わる。女性同士の会話なら必ず伝わる。そこで、
「ま、どうでもいいことなんだけどね」
などと、そこまでの話が一段落して次の話題に変わっていくのである。女性対女性の会話というのはどこまで微妙なものなのだ。
ところが、その女性に話しかけているのが男性だとすると、そううまくはいかない。
聞き手の女性が、
「そうなんだあ」
と言うと、男は、この話に興味を持ってもらえたんだと誤解して、ますます言いつのったりするのである。
「そうなんだあ」(その話はもういい)
と言われているのに、それが伝わっていないのだ。
男性に忠告しておこう。女性の
「そうなんだあ」
「そうなんですか」
は、十中、八、九その話はもういいです、という意味なのである。
女性の皆様、そうなんですか?
あと、大事なのは、「場をわきまえる」ということなのです。
「なんかうまいこと、相手の印象に残るようなこと言いたい」という気持ちはわかるのだけれど、自分が主役になるべきではない状況というのはあるのです。
葬儀や通夜の堰で陽気なバカ話を大声でやるものではない、ということはあらためて言わなくてもあたり前のことである。
遺族と顔を合わせたら、
「この度はご愁傷様でございます。心よりお悔やみ申し上げます」
と言えばいいのだ。何か特別な名言を言おうと思うことはない。
実を言うと私は長らく、「この度はご愁傷様でございます」が言えなかった。なんか、あまりにも定形でありすぎて、心が少しもこもってない言葉のように感じていたのだ。型通りにそれを言うことが気恥ずかしくもあって、
「この度はどうも……」
なんて言って語尾はのみこんでしまっていた。
でも、60歳を過ぎた時に、そういうことは平然と型通り言えなきゃダメで、それが言えるのが大人ってことなのだ、と思うようになったのだ。
こういう「会話術」の本を書いている人でさえ、60歳を過ぎるまで、「型破りの誘惑」と葛藤してきたのです。
そう簡単に、悟れるものじゃないよね。
他者との会話やスピーチについては、「自分をよく見せよう」と背伸びするより、原稿づくりや情報の整理など、できることはちゃんとあらかじめやっておくことと、「無難にこなす」のは悪いことではない、と割り切ることがけっこう大事なのかな、と思いながら読みました。
あと、「話の内容」よりも、声の大きさやスピード、喋り方によって相手が受ける印象が大きく変わってきたり、むしろ「聞き役」のほうが重宝されやすかったりする、ということは、知っておいて損はないと思います。
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