Kindle版もあります。
SDGs、応援消費、カスハラなど、消費者にまつわる用語に注目が集まっている。背景にはどのような潮流があるのか。本書は、一九六〇年代の消費革命から、平成バブル、長期経済停滞、現在までを、消費者を通して読み解く。生産性向上運動、ダイエー・松下戦争、堤清二とセゾングループのビジョン、セブン‐イレブンの衝撃、お客様相談室の誕生などを論じ、日本経済の歩みとともに変貌してきた消費者の姿と社会を描き出す。
思えば、僕も1970年代の半ばくらい、近所の駄菓子屋に100円玉を持って出かけていた頃から、半世紀近く「消費者」をやってきたのです。
大人になってからは、サービスや商品の提供者としての役割もつとめてきました。
「消費者」としては、最近の大きな変化として、現金を使う機会がかなり減っており、現金払いが求められたときに、手持ちが思っていたよりも少なくて慌ててお金を下ろしに行く、ということが何度かありました。
ネット通販の普及も大きく、以前は、欲しい本は書店で取り寄せてもらったり、電車に乗って大きな街に出かけて探さなけらばならなかったのに、今ではAmazonでその場にいながら注文できます。
クール便とか、配送時間に待っていなきゃいけないのが面倒なんだよなあ、なんて、昔を思えば贅沢な話なんですけどね。
子どもの頃、普通に食べていたものの中には、発がん性が問題視され、今では使用されなくなったものもありますし、さまざまな犯罪などで、子どもだけで買いものをする機会も減ったように見えます。
近所の駄菓子屋とかも、かなり珍しくなりましたし、屋外で遊ぶ子どもも昔ほどは見かけなくなりました。
それは、僕自身が歳をとり、子どもたちの世界が見えなくなっているだけなのかもしれないけれど。
著者は、この新書の内容について、「序章」で、このように説明しています。
本書の課題は、消費者への関心の推移を踏まえて、消費者と経済社会との関わりを歴史的にたどることにある。具体的には、オーソドックスな歴史分析の方法により、消費者をめぐる言葉の使われ方に着目しながら、企業、財界、政府、運動団体といったアクターが、消費者をどのように捉えていたのかを追究していく。
結論を先取りすれば、消費者という言葉にはいくつかの強いニュアンスがあり、そのニュアンスから離れるたびに、生活者やお客様という言葉が代わりに使われるようにもなった。先に述べた「1970年代前半をピークとして、その後は必ずしも社会的な関心を集める言葉ではなくなった」という見通しの背後には、こうした動きが深く関わっていたとするのが本書の見立てである。
そこで本論では、消費者、生活者、お客様という言葉がそれぞれ広まった時期に注目し、おおよそ次の三つの時間区分で歴史を整理していく。
(1)消費者という言葉が社会的に定着していく1960年代から70年代初頭まで、高度経済成長期に重なる時代。
(2)消費者に代わって生活者という言葉が使われるようになった1970年代半ばから1980年代半ばまで、石油ショック後の安定成長期に重なる時代。
(3)市場開放と規制緩和のなかで消費者利益に注目が集まる一方で、企業レベルではお客様という捉え方が広がっていく1980年だ後半から2000年代まで。
平成バブルからその後の長期経済停滞の時期に重なる時代。
全体の構成はこの時間区分に対応し、(1)を第1章、(2)を第2章、(3)を第3章とする。そのうえで、終章では、2010年代から現在に至る新しい消費動向の歴史的意味を考えたい。
歴史を辿ってみると、太平洋戦争後から戦後の焼け跡闇市の時代には、まずは食べ物を確保して生き延びることに精一杯で、消費者の権利を主張する余裕はなかったのです。
それが、戦後の高度経済成長と購買力の向上に伴い、「買い物」は人々の生活の質を高めていくのと同時に、娯楽にもなっていきました。
著者は、消費者の立場を強調する議論を読み解く観点として、(1)消費者の利益、(2)消費者の権利、(3)消費者の責任、という三つを提示しています。
買う側には、より良い製品を選んで幸福度を上げる権利があるけれど、自分で買うものを選ぶことに伴う責任もあるのです。
時代によって、「消費者の責任」について、消費者側、買う側がどこまで能動的に関わっていくのか、は変化してきました。
企業の側にも「自分たちの権利に敏感な消費者」を「顔の見えない、ビッグデータのうちの一つの数値、クレームをつけてくる鬱陶しい存在」という見方から「自社の製品をより良くするための意見を積極的に伝えてくれる情報源」という意識が育ってきているのです。
アイドルだけではなく、企業にとっても、「自社のファンをつくる、推してもらう」ことが重要な時代になっています。
いまの時代の製品は、同じ価格帯であれば、明らかに使い勝手が変わるような斬新な機能を持つものは少なく、「ブランド」で選ばれることが多いのです。
AppleのiPhoneは、シリーズを使い続けて操作に慣れている、デザインがかっこいい、などの使う側の「好みや歴史、思い入れ」を除けば、同じくらいのことができるスマートフォンが、Androidならずっと安く買えるのに、日本ではずっと人気です。
「商品テスト」、実際の製品を使ってみて、企業からの広告抜きでレビューする、というのは、現在でも雑誌やネットなどの多くの媒体で行われています。多くの製品が市場にある状態だと、買う側は、どれが良いのか、自分では判断しかねるし、実際に使って試せるものばかりではありません。
商品テストといえば、協会(日本消費者協会)に先んじて、1948年創刊の『暮しの手帖』が1954年から取り組んでおり、多くの読者を得ていた。創刊者の花森安治(1911-78)は、日本消費者協会が「通産省の予算とメーカーや財界筋の会費や寄付金によって運営されている」ことを批判し、商品テストは「絶対にヒモつきであってはならない」と厳しく説いた(「暮しの手帖」1969年4月)。合わせて、商品テストの意味を次のように語っている(『朝日新聞』1969年4月15日付)。
商品テストについて、ぼくは前から考えているんだが、それは消費者のためにあるのではないということ。ひとりの人が1年間に買うおびただしい商品について、いちいち良い悪いがわかるもんじゃない。要は、商品知識があろうとなかろうと、だれもが安心して買える商品をメーカーに作らせること。だから、商品テストはメーカーのためにあるんです。消費者のためになるにはじつはそれしかない。そのためにデータをかかえて戦うんです。
ここには、日本消費者協会などの取り組みの問題点が鋭く指摘されているが、その点は追ってより深く明らかにしていきたい。
僕はこの花森さんの言葉を読んで、結局、この問題は半世紀経っても解決できていないというか、インターネット時代になって、より表面からは見えにくい形で、「商品テスト(レビュー)と広告」の境界が見えなくなってきているなあ、と考えずにはいられませんでした。
企業からの広告をもらっていたり、記事にすることを条件に新商品を先に体験している人たちもいるし、最初は純粋な善意というか、「良いものをみんなに紹介したい」とレビューをはじめた人たちも、それが評判になり、多くの人に注目されるようになると「収益化」していき、広告主に忖度せざるを得なくなってしまう。
仮想通貨とか投資商品とかも、自分のサイトを経由して買ってくれる人がいると報酬が出るからと、高リスクの商品を勧めていることが多いのです。
世の中の人たちは、なるべく中立的で、公平なレビューを求めているけれど、それを提供する人たちは、最初は高い志を持っていても、「より稼げるほう」に転んでしまう。
閲覧者たちは、商品テストやレビューにはなかなかお金を払ってくれないのです。
これは、ニュースの報道などにも、言えることですよね。
こんなことを書いている僕だって、自分のサイトには広告をつけていますし、「有料の情報にお金を払う」のは、結構ハードルが高いと感じています。
消費者運動に限らず、「みんなで『善いこと』のために団結している人々」というのは、外部から見れば敷居が高いものです。
生産者から「安全な野菜」を買おう、と組織され、一時は多くの会員を集めたものの、近所のスーパーで、もっと見栄えが良い野菜が安く売られているのをみているうちに、なんだかバカバカしくなってくる。そもそも、スーパーにだって、そんな危険な野菜を卸しているわけではないだろう、とか考えてしまう。
明らかな健康被害がある事例も、もちろん存在するわけですが、長年医療をやってきた人間の実感としては、今の日本の衛生状態、食品などの品質管理では、「過剰に健康志向の商品」は、値段ほどのメリットもなく、中にはかえって危険なものもあるのです。
その後、「消費者」という言葉は、圧力団体的なイメージが強くなってきたこともあり、個々の「お客様」のニーズに応える、多様性への適応が重視されるようになってきました。
著者は、セブンイレブンがコンビニエンスストアとして成長を続けてきた時代の鈴木敏文・セブンイレブン元会長の言葉を引用しながら、顧客と経営側の関係性について論じています。
現在の目から見ると、こうした鈴木の経営理念は、一面で顧客満足のジレンマを免れ得ないものであったと考えられる。
たとえば彼は、「年中無休ですから、お客さんの立場に立てば、元日でも作りたてのおいしいパンを提供しなければなりません」として、「商品部長が山崎製パンの社長に日参し、最後は向こうの労組の委員長とも話して、2年目か3年目下から正月でもパンを作ってもらうようにしたのです」と振り返る。(『読売新聞』2000年1月17日付け)。しかし、山崎製パンの労働者に思いを致せば、このことを手放して喜ぶ社会でよいのかと考えさせられよう。
あるいは、「紙パックの牛乳も、当日か前日の日付のものだけを店頭に並べるようにしています。日付が多少古くても品質には全く問題はありませんが、お客の立場からすれば違います」と言われる時(『朝日新聞』1988年3月1日付)、現在の私たちにはフードロス問題が頭をよぎってしまい、素直に頷けない。
インターネット時代になって、接客業や製造業、運送業など、さまざまな仕事をしている人たちの「あちら側からの視点」が、SNS経由で多くの人に知られるようになりました。元日に作りたてのパンがあるということは、元日から製パン工場で働いている人がいる、ということでもありますし、宅配便も再配送が少なくて済むように、と受け取る側も配慮するようになってきているのです。
客側にも、モンスタークレーマー的な行為をすれば、SNSで晒されるリスクもあります。
最近は、元日は休み、というショッピングモールや飲食店も、けっこう増えてきていますよね。
利用者側としては、不便に感じるとこともあるし、大きな荷物が宅配便で送られてくるのを待つ時間は、けっこうもどかしくもあるのです。時間指定ができるとはいっても、午前中に、となると、午前8時から12時、みたいな、けっこう広い範囲になりますし。
全体としては、消費者、お客様は「神様」ではないし、働く側の人の事情にも理解が深まっているのは、社会の進歩なのだと思います。
その一方で、働いている側に配慮する人が増えるほど、自分の都合を強く主張する、ワガママを言う人が結果的に得をする、優先されてしまう、という場合も少なからずあるのも事実です。
今の社会では「推し活」など、「お金や時間をどう消費するのかが、自己主張の手段」となっています。
売り手と買い手は、かつてないほど距離が近づき、親密になってきてもいます。
それには、相手の顔が見える強みがあるけれど、お付き合いで、低品質だったり、不要だったりするものを買わされてしまう、というデメリットもあるんですよね。
やっぱり、「買い物」は楽しい。でも、本当に買いたいもの、必要なものって、あまり思いつかなくなりました。僕も老いた、のでしょうね……