琥珀色の戯言

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【読書感想】国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか? ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

日本でRPGはなぜ人気をえたか。物語はゲームでどう表現されるようになったのか。
国民的RPGドラクエとFFの功績をあらためて徹底検証!
「国民的ゲーム」として、日本のカルチャーに大きな影響を与えているドラゴンクエストファイナルファンタジー。日本ではRPGがなぜこれほど人気なのか。ゲームで物語はどう表現されるようになったのか。TBSラジオ『アフター6ジャンクション』でもおなじみ、元スクウェア・エニックスのプロデューサーで、気鋭のゲームデザイナーである著者が、ゲームシステム・世界観・制作体制に注目し、ドラクエとFFの功績をあらためて検証する。

鳥嶋和彦さんが「ドラクエ・FF誕生の時代をかたる」ロングインタビュー収録!
TBSラジオ「アフター6ジャンクション」人気特集シリーズ「国産RPGクロニクル」書籍化!


 著者の渡辺範明さんは、元スクウェア・エニックスのプロデューサーです。
 とはいえ、著者自身は「スクエニに在籍していたが、ドラクエ・FFの開発には「本当に一切関わったことがない」と明言されています。
 これらのシリーズとは異なるパソコン用のオンラインRPGのプロジェクトを担当されていたそうです。
 この本は、同じゲーム業界、同じ会社に在籍してはいたけれど、開発の「当事者」ではない、という距離感で書かれているのです。
 それでも、同じ会社にいたわけですから、開発の様子は耳に入ってはきたでしょうし、エニックススクウェアが合併した時の社内での反応などは、内部ではそんな感じだったのか……と興味深いものがありました。
 いちゲームファンの僕からみると、宿命のライバルであるはずの『ドラゴンクエスト』のエニックスと『ファイナルファンタジー』のスクウェアが合併するなんて、青天の霹靂だったのです。

 2002年の11月。いつものように午前11時に出社すると、これまで一度も使ったことがない社内放送が流れ、「社員は全員、1階のロビーに集合してください」というアナウンスがありました。「ん? 避難訓練でもするのかな?」とたいして考えもせずにゾロゾロと社員たちが集まったところ、当時エニックスの社長だった本多圭司さんが前に立ち、こういったのです。

エニックスは、株式会社スクウェアと合併します」

 それを聞いた僕ら社員からは、「ドッ」という笑い声がおきました。
 人間というのはあまりに予想外のことがあると笑ってしまうものなのか、あるいは本当に冗談としか思えないような発表だったせいかわかりませんが、この瞬間のみんなのリアクションと、その後の「えっ、ああ、マジなのか……」というシリアスな第2波の訪れはよく覚えています。


 この合併に関しては、かなり厳重な情報統制がされていて、一般の社員はもちろん、課長・部長クラスでもほとんどの人は知らなかったそうです。
 通説では、2001年に公開された映画『ファイナルファンタジー』が莫大な製作費に比べて興行収入が振るわなかったことで、スクウェアの経営が傾いたのがきっかけとされているそうですが、著者は、スクウェアはその後急激に経営状態を回復させており、お金だけが目的で資金が豊富だったエニックスと合併しただけではない、と推測しています。

 当時のエニックスは百数十人の会社で、資金に余裕はあったものの、自社に開発チームを持たず、全てのゲームを外注し、開発一作品ごとにチームを招集する、という体制を続けていました。おかげで開発者たちを常勤として雇っておくコストは不要になりますし、毎回オールスターチームを集められる、というメリットはあるのですが、エニックス社内には開発のノウハウが蓄積されない、という課題も存在していました。
 スクウェアは1000人を超える開発スタッフを抱えており、社内での開発力は高かったのですが、会社の規模のわりに発売タイトル数が少なく、『FF7』発売での経緯(プレイステーションで発売され、その後のプレステ優位に大きな役割を果たした)から、任天堂との取引が完全に止まってしまっていました。

 シンプルにいえば、スクウェアデベロッパー(開発元)としての機能は強いが、パブリッシャー(販売元)としての機能が弱かったわけですね。
 その点、エニックスドラクエのPS移籍以降も任天堂との取引をそれなりに維持しており、特に携帯機では「ドラゴンクエストモンスターズ」シリーズなど積極的に新作を出していました。
 さらに当時ヒットしていたマンガ『鋼の錬金術師』を要する雑誌「月刊少年ガンガン」など出版部門も調子がよく、僕が担当していたようなパソコン向けのオンラインゲームや携帯電話向けのゲームなど、当時としては新しい分野にもかなり先手を打っていました。
 つまりエニックスはパブリッシャーとして非常に多機能で、スクウェアエニックスとの合併により、ビジネスの選択肢を一気に増やすことができたのです。
 さらにこれらに加えて、市場を融通しあえるのもメリットでした。
 当時まさに『FF7』のヒット以降ですから、スクウェアはかなり欧米市場での人気がありました。一方でエニックスは前述のパソコン向けオンラインゲームによって中国、台湾、韓国といったコンシューマーゲーム市場が成立していない国にもうまく進出できており、アジア市場に強みがありました。
 この補完関係によって、スクウェア・エニックスはグローバル市場を狙える、非常に有利なポジショニングができたのです。
 そして、単純なことですが、非常に大きいのは、互いに「大作RPG」という同じジャンルでしのぎを削るライバル関係であったぶん、合併以降は、FFとドラクエの発売時期を調整することが可能になったことです。


 当時は「なぜ?」と思ったのですが、両社の合併は、お互いの弱点を補完できるものだったのです。
 『ドラクエ』と『FF』の発売時期が近くにならないように調整できるだけでも、かなりのメリットはありそうです。
 その一方で、最近のコンシューマーゲームでは、『ドラクエ』『FF』は以前ほどの存在感は示せていないのも事実なんですよね。
 僕はこれらを第一作から遊んでいるオールドゲーマーなので思い入れが強いのですが、『エルデンリング』が大ヒットしたのをみて、「あんな難しいゲームがこれほど支持されるのか……」と驚きました。ゲーマーの世代交代とともに、売れるゲームの傾向も変わってきていて、スクエニは『ファイナルファンタジー16』のような渾身の大作でも、思い通りのセールスが得られていないのです。
 『ドラゴンクエスト』のナンバリングではない派生作品にも、苦戦しているものが多い印象です。


 この本を読んでいると、プレイヤーからみると、「なんでこうなった‥…」と思うようなところも、制作側には「理由」や「意図」が込められているのがわかります。

 問題作(というか、駄作とされることが多い)『ファイナルファンタジー15』について、著者はこう述べています。

 また、これはAIの活用ではありませんが、ノクティスたちが毎日の冒険の終わりにキャンプで食べる料理にも、旅を表現するための工夫が込められています。
FF15』のキャンプ料理には150種類以上のメニューが存在し、そのすべてが異様にハイクオリティな3Dモデルで表現されています。なにせ「おにぎり」に使用されているメモリー量が、ノクティスたちのキャラクターモデルの倍以上、というものすごい仕様で、これは発売当時ネットなどでも「トンデモ仕様」として笑いのネタにされていました。
 しかしこれも、「旅」の実感を高めるために食事が重要な一要素であるからに他なりません。
FF15』における食事は食べるメニューによって一時的なバフ(ステータツアップ効果)をノクティスたちにもたらすため、ゲームシステム上も積極的にレシピや材料を求める意義が設定されていますが、そこに料理の映像的な「シズル感」で説得力をもたせ、さらにその料理をキャンプの焚火を囲んで仲間たちと食べる、という風景を作ることで、やはりこのゲーム全体の「旅」体験の充実に大きく貢献しています。


(中略)


 『FF15』が旅の3要素「仲間」「写真」「食事」によって物語を語ろうとしたのは、その95%の「旅の過程」こそが物語のメインである、という新しい価値観の提案です。朝起きて、仲間と挨拶をし、野山を走り回り、ダンジョンを攻略し、キャンプに戻って食事をしながら今日あった出来事を振り返る。オープンワールドを駆け回るその過程をいかに豊かなものにするかが新しいRPG体験を生むのだ、という強い思想を感じます。
 しかし一方で、FFシリーズである以上は『FF15』にも旧来的な意味での「イベントシーンを軸にした物語」が期待されてしまいますし、実際にゲーム終盤に進めば進むほどオープンワールド的な自由度は下がり、旧来型のシナリオが目立つようになっていきます。そういったアンバランスさ、割り切れなさが『FF15』を「いびつ」なゲームにしてしまっているのは否定できません。


 「旅の過程」を丁寧に描く、という制作側のコンセプトには「なるほどなあ」と思うのです。
 しかしながら、実際に『FF15』をエンディングまでプレイした僕の実感は、「途中から物語が急に一本道で強引になって駆け足で進んでいくのは物足りない」し、「料理のグラフィックにそんなに気合いを入れるくらいなら、メインシナリオにもっと力を入れてくれればいいのに」だったのです。
 メインストーリーに不満があったからこそ、「おにぎりへの過剰なグラフィックのこだわり」への反発が強くなったのも事実でしょう。

 ドラクエシリーズにおける、このような過去改変で思い出されるのは、PS用にリメイクされた『ドラクエ4』です。『ドラクエ4』はもともとシリーズのなかでもシリアスな要素が強い物語で、特にラスボスにあたるピサロが、愛するエルフの娘ロザリーを人間に殺されたことから人類を恨み、滅ぼそうとする展開には、その悲劇性ならではの魅力がありました。
 ところがリメイク版の『ドラクエ4』では、クリア後限定で遊べるエクストラ・シナリオが追加され、なんとそこではロザリーを生き返らせることができ、ピサロも改心して仲間になるというオールハッピーエンドなシナリオが追加されていました。これにはファンの間でも賛否両論があり、もちろん素直に喜びファンもいましたが、僕を含め「そfれをやったら元の物語が台無しでは?」という不評の声もはっきりありました。このPS版『ドラクエ4』のときと同じく、『ドラクエ11』でも「一度起きた悲劇をなかったことにすることは、果たして物語としていいことなのだろうか?」ということも気になっています。また、ことの善し悪しを別にしたとしても、シリアスでエモい物語を好むユーザーからすると、単にお気楽すぎるストーリーに感じ、拍子抜けしてしまうかもしれません。
 しかしこの件、PS版『ドラクエ4』のときにはかなり反発を感じた僕ですが、『ドラクエ11』を経たことで、自分のなかでも捉え方が少し変化してきました。これもまたドラクエらしい思想の表れなのかもしれない、と考えるようになったのです。


 著者は、『ドラクエ』のエンディングは、頑張ってきたプレイヤーへの「ご褒美」なのでは、と仰っています。だから、後味が苦い「物語」よりも、「ハッピーエンド」の可能性をユーザーに提供しているのです。
 最近は映画でもハッピーエンドのほうが幅広い観客を集め、ヒットしやすい、とも言われていますし、ゲームの場合は映画の2時間どころではない時間を費やしているわけですから、クリアしたら幸せな気分になりたい、というのもわかります。というか、僕もそうだしなあ。
 3部作としてリメイクされている『ファイナルファンタジー7』で、あの登場人物の「悲劇」は再現されるのだろうか?

 僕はプレイヤーとして、『1』から、『ドラクエ』『FF』をプレイしてきて、満足したり、物足りなかったりしてきたわけですが、作る側は、ずっと「いいゲームを作ろう」「新しい価値観を創造しよう」としていることが伝わってくる本でした。
 だからといって、プレイヤー側としては、「どんな『思い』が込められていても、面白くないものは面白くない」としか言いようがないのだけれど。


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