琥珀色の戯言

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【読書感想】なぜ私たちは生きているのか:シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話 ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
神なき時代、人間のエゴと欲望は肥大化し、それは私たちの生きづらさを引き起こしている。国家・資本・宗教を切り口に、物質世界のなかで精神生活の重要性を説くシュタイナー人智学の第一人者高橋巖と、キリスト教神学と現代社会を取り結ぶ著作活動をつづける佐藤優が、世界のあり方を問い直す。「見える世界」と「見えない世界」の結びつきに光をあて、いま、ここに生きる意味を探る一冊。


 僕は佐藤優さんの著書をかなり読んでいるつもりなのですが、未読のものもたくさんあります。ものすごく精力的に執筆されているので。
 佐藤優さんは同志社大学の神学部から外務省に入ったのですが、もともとはチェコプロテスタント神学者・フロマートカに魅せられ、チェコへの留学の足掛かりとして外交官になったそうなのです。
 当時は、「東側」への日本からの留学は難しい時代でした。
 そういうバックボーンをもっていることが、佐藤優さんの解釈を読むときの面白さであり、とくに信仰を持たない僕にとってのハードルでもあるんですよね。
 今回の対談相手の高橋巖さんと「シュタイナー人智学」について、僕はその名称すら知りませんでした。
 でも、だから読みにくいとかつまらないというわけではなくて、こういう本をきっかけにして、世界が少し広がったような気がします。
 高橋さんの側からも、「佐藤優さんって、『ムネオハウス』の仲間だろ?」と思っていた人たちがイメージを変えるきっけかになるかもしれません。
 さすがに、そんな先入観を持ち続けている人はもう、ほとんどいないかな……

 
 40代半ばにもなると、「なぜ私たちは生きているのか」ということに悩むことは少なくなりました。
 結論が出たわけではなくて、そんなことは考えてもしょうがない、と諦めてしまった。
 それでも、書店でこの本のタイトルを見たときには、惹きつけられるものがあったのです。


 佐藤優さんは、この対談のなかで、2016年の12月に亡くなられた渡辺和子さんの話をされています。

佐藤優キリスト教の教えには、オカルト的なものがあります。キリスト教は、まことの神であり、まことの人間であるイエス・キリストが救い主であるということを信じる宗教です。人間理性を超えた存在である神から開示された出来事である啓示にもとづく宗教なのですが、啓示を意味するギリシア語のアポカリュプシス(apoklypsis)には、隠されているものの覆いが取り除かれるといった意味があります。啓示には人間の目には隠されている神秘が覆いを取り去られて示されるという意味があるので、逆を言えば、隠されたものがなければ啓示するものもありません。ですから、目に見えないものを信じるということが、キリスト教の根底にあるのです。
 この問題を考えるのにいいテキストが、元ノートルダム清心学園理事長であった渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)です。渡辺さんのお父さんは2・26事件で殺された渡辺錠太郎陸軍教育総監で、本のなかで、事件のことについて触れています。渡辺さんは、自宅に押し入ってきた青年将校と父親が撃ち合いになり死ぬところを、座卓の陰に隠れてじっと見守っていた。渡辺さんは、父親が50歳を過ぎてからの子どもだったそうで、「力尽きた父が、ただ一人で死んでゆかないために、私は生んでもらったのかもしれない」と書いています。これは、神が十字架にかかったイエスをひたすら最後まで見ていたことと、アナロジカルな構成にあります。渡辺さんの原体験だったのではないかと思うのですが、大変な状況に対しても、置かせられたその場所において、ずっと目を閉ざさずに「見る」力が救済につながることを、『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルで伝えているように思います。この本が200万部を超えるベストセラーになった理由には、キリスト教のなかにありながらも、神学的な構成からは落ちてしまったもの、隠れているオカルト的なものを引き出すことに成功したからではないでしょうか。キリスト教は「絶対他力」の宗教ですから、人間の力が救済につながるなんていうことは、正式な神学では絶対に言いません。しかしクリスチャンである渡辺さんのテキストにも、キリスト教の論理にも、そういうことが隠れている。表現の仕方こそ違いますが、高橋さんがおっしゃっていること、あるいはシュタイナーが言っていることと、通底するものがあるのではないでしょうか。


fujipon.hatenadiary.com

 この本で紹介されている、旧約聖書の『ヨブ記』を読むと、とにかく「神は絶対的な存在で、人間はただ信じて従うしかない、というのが「原則」なのです。
 渡辺和子さんは、それを知っていたはずだけれど、極限状態に置かれた際には、人が人を救うこともあるのだ、と考えずにはいられなかった。
 「わかる」とは言えないけれど、渡辺さんの言葉の「重み」が伝わってきます。
 僕はこの『置かれた場所で咲きなさい』って、よくある自己啓発書なんだろうな、と思い込んでいて、これまで読んだことがありませんでした。
 ああ、一度読んでみればよかったなあ。

高橋巖:表現主義というのは画家のカンディンスキーパウル・クレー、音楽のシェーンベルクのように、外的な現実そのものよりも、その現実をつき動かしている内的衝動を表現対象にする立場だと思いますが、その表現主義的な言い方で、先ほどの深淵に身を置くという問題と、時間と空間の融合について話をさせていただきます。
 たとえば、私が何百メートルもの崖の上から真っ逆さまに落ちるとします。その崖はつるつるしていて、いくら手を伸ばしてもつかめるものは何もなく、ただ落ちるしかない。あと数秒経ったら自分の身体は大地に叩きつけられてしまうということを感じながら、ひたすら落ちていく。そのときに意識がまともであったら、何を思うことができるでしょうか。何かを信じている人ひたすら神に祈るという手段があるかもしれませんが、頼るものがすぐに見つからないと、絶望しか残りません。この絶望しか残らない状況は、フロマートカの言葉でいう「最も深い深淵」だと思うのです。そしてわれわれの一生も、ある意味ではひたすら崖の上から下に落ちていく過程ではないでしょうか。数秒と何十年という違いがあるだけで、永遠からみれば、両方とも一瞬でしょうから、その瞬間を生きることにどういう意味があるのかを考えるために、崖から落ちるという表現を使わせていただきました。
 

佐藤:われわれは9・11を知っているから、いまのたとえのリアリティを実感できます。このままでは炎が回ってきて確実に焼け死ぬからと、ツインタワーから飛び降りる人の映像がテレビで流されましたが、それを憶えている人は多いでしょう。飛び降りて地面に落下したら絶対に助からないとわかっているのに、飛び降りたのです。落下するまでの数秒間には、いま高橋さんがおっしゃったことがリアルに存在していて、その時間の尺を伸ばしていくとわれわれの人生そのものになるわけです。


 人間にとっての生きている間って、そういうものかもしれませんよね。そうだよなあ、と思う気持ちと、そう思いながらも、その短さを考えないようにしようとしている自分がいるわけですが。
 それでも、「そのとき」は、いつか必ずやってくる。

佐藤優私はキリスト教徒だということを公けにしているので、よく読者から「私は唯物論者ですが、なぜ佐藤さんは神を信じるのですか?」といった質問を受けることがあります。でも、「物質」という名前で呼んでいるものを、「神」と言い換えても同じではないでしょうか。知識が増えればすべてを説明しつくせるという立場ならば、物質や神といったものを想定しなくていいはずです。物質や神を想定するということは、自分の知識や認識では説明できないものがあること、つまり外部があることを前提としているのです。


 キリスト教について、ある程度の予備知識がないと、かなり難しい内容だとは思うのですが、けっこう「読みがい」みたいなものは感じました。
 過去の賢人たちがずっと解けなかった「なぜ私たちは生きているのか」という問いが、僕に解けるとも思えないのだけれど、やっぱり、気にはなるよね……


fujipon.hatenablog.com

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