琥珀色の戯言

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【映画感想】オッペンハイマー ☆☆☆☆☆

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。


www.oppenheimermovie.jp


アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞など7部門を受賞。
クリストファー・ノーラン監督の作品ということもあり、アメリカでの公開時から、日本でも話題にはなっていましたが「原爆開発」という題材、「原爆の被害者たちが描かれていない」ことから、日本での公開はずっと躊躇されていた作品です。


2024年映画館での鑑賞4作目。 公開初週の平日のレイトショーで、観客は20人くらいでした。


僕は物心ついてから10歳くらいまで、広島県内に住んでいました。
家族旅行で広島の原爆資料館を訪れたとき、爆心地近くに人間の黒い影だけが痕跡として遺されていた階段や、皮膚の酷いケロイド、遺体や人骨が、うず高く積み上げられている写真をみて、「人間は、どうしてこんな残酷な兵器をつくってしまったのか、核兵器を世界から無くさなければ!と眠れない夜に固く心に誓ったのを思い出します。

今はどうなっているのかわからないのですが、当時はまだ原爆投下から30数年くらいしか経っていなかったので、小学校時代は、毎年8月6日が登校日で講堂に集められ、被爆者の体験談を聞いていたのです。

原爆、許すまじ。人類を何十回、何百回も絶滅させられる威力があり、人をこんなに悲惨な目に遭わせる兵器が、なんで必要なんだ?

しかしながら、あれから40年以上生きてきた僕は、現在の世界を前に、考え込まずにはいられないのです。

もし、ウクライナ核兵器を持っていたら、ロシアはウクライナに侵攻していただろうか?
ロシアが核を持っていなかったら、西側陣営はロシアにもっと強いプレッシャーをかけていたのではないか?
北朝鮮核兵器がなかったら、あの国は現在まで存続していただろうか?
そもそも、苦しんで亡くなる犠牲者にとっては、原爆は絶対悪で、空襲なら許容範囲内なのか?

日本がアメリカの「核の傘」に守られている(であろう)ことは、他国も意識せざるをえないでしょう。

核兵器は「強力すぎる」がゆえに、実際には使えない、使ったら人類を滅ぼしてしまうから、戦争に対する抑止力になる、そのはずだ。
でも、「絶対に使えない兵器」であれば、そもそも抑止効果はないはずだし、自分や同胞が滅ぶかどうか、という状況になれば、「使う」ことは想像できます。想像できるからこそ、抑止効果があるのです。
本当に、矛盾の塊のような存在です。

この映画、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』、世界中で大ヒットしたのですが、日本での公開はずっと見送られてきました。
それは、アメリカが描いた「原爆の父」の物語において、実際にその原子爆弾の犠牲になった広島、長崎の人々のことがほとんど描かれておらず、被爆国としては、受け入れがたいのではないか、という興行側の判断だったと言われています。

世界中で公開されてからかなりの時間がたち、アカデミー賞の作品賞を受賞し、ついに日本で公開されることになりました。オッペンハイマーという人に興味があった、というよりは、クリストファー・ノーラン監督のファンなので、観てみたかった、というのが正直なところです。なぜ日本での公開がためらわれていたのか、自分で観て考えてみたかった。

正直なところ、この映画、けっしてシンプルではないし、わかりやすくもありません。物理学の専門用語はたくさん出てくるし、登場人物も多く、外国人の俳優の顔を見分けるのが苦手な僕にとっては、「この物理学者、なんて名前で、どういう専門の人だったっけ……」と。

オッペンハイマーアインシュタインと水爆水爆言っていた人くらいは見分けがついたけど、というレベルだし、物理学の理論の話は「全くわからないことはないけれど、そういえば、赤塚不二夫さんが昔、相対性理論のマンガを描いて、大ベストセラーになっていたなあ」みたいなことを思い出しながら流し見していた、というレベルです。

時系列もけっこう行ったり来たりして混乱するし、場面転換も早くて、YouTube的な編集のようにも感じました。
わかりやすさの権化のようなスーパーヒーロー作品と同時に、こんな小難しい作品が大ヒットするアメリカというのは、懐が深いな、と感心もしたのです。

オッペンハイマーは日本ではそんなに知名度は高くないけれど、『TIME』の「今年のひと」として表紙を飾ってもいるので、アメリカ人にとっては「日本のNHK大河ドラマの主人公」になるような人で、予備知識も十分にあるのかもしれませんが。

オッペンハイマーって、誰?」という状況からスタートすると、話の展開や場面の切り替えの早さについていくのが大変だと思います。
僕も少し予習していたはずなのに、何度も置いていかれそうになりました。
最近は映画をみていると、途中で中だるみをして、「どのくらい時間がたったのだろう?」と気になりがちなのですが、この映画は、置いていかれないようにがんばってついていったら、いつのまにか3時間経っていた、そんな感じです。

観終えて、ぐったりしつつも、もう3時間も経ったのか、これで「終わり」なのか……
本当に、疲れます。


クリストファー・ノーラン監督が描いたオッペンハイマーは、とても優秀な理論物理学者ではあるけれど、実験が苦手で、自分の衝動を抑えられなかったり、性的に奔放だったり、政治的な用心深さに欠けたりと、かなり問題が多い人物なのです。

でも、天才。

その才能は、物理学の理論はもちろんなのですが、短期間で効率的に「原子爆弾」を完成させる、というマネージメント面で、最大限に発揮されたように見えます。
「学者というより政治屋だ」
実際、学問の世界でも、上に行けば行くほど、「政治力」が重要になってくるというのは、今も昔も変わりません。

オッペンハイマーはヨーロッパにも留学歴があり、ドイツの量子物理学の力をよく知っていました。
そして、ユダヤ人として、同胞を虐げているナチス・ドイツに先に原爆を作らせるわけにはいかない、という危機感を持っていたのです。
その動機は、僕にも理解できます。
原爆の威力、危険性はわかっているけれど、自分たちが作らなければ、先にナチス・ドイツがそれを完成させるだけだ、そうなったら、同胞は、世界は終わってしまう。

オッペンハイマーは、数学的・物理学的マネージメント力を駆使して、マンハッタン計画を進めていき、原爆は完成に近づいていきます。
その結果、どういうことが起こるか、というのは、歴史によってネタバレされているので、僕もやりきれない気持ちで観ていました。


僕は、この映画を日本人のひとりとして観ていて、なんだかとても虚しい気持ちになったのです。
この映画のアメリカの科学者や軍人たちは、ナチス・ドイツと戦い、潜在的なライバルであるソビエト連邦の動向を注視しているけれど、直接の交戦国だったはずの「日本」については、「敵国」としてほとんど言及されることがありませんでした。

原爆の被害者としての日本について描いていないどころか、敵国としての日本は、ほぼスルーされているのです。
(それはそれで、現在のアメリカの重要な同盟国である、ということに配慮した可能性もあるのだろうか。でも、そんなアメリカの戦争映画、聞いたことない)

ヒトラーが自殺し、ナチス・ドイツが降伏した際には、「もう日本の降伏も時間の問題だ」と政府関係者も科学者たちも認識していました。
大統領が「東京大空襲で、10万人の犠牲者が出て、そのほとんどが民間人だった」ことを憂慮しつつも、「そのことに対して、アメリカ国内から反発の声が出ていない」と、やや拍子抜けしたように語っていたのです。

「勝つか負けるか」という戦争ではなくて、日本に勝つことはもう自明の理だから、戦後のソ連との関係のほうを重要視していた。

 僕は硫黄島での激戦や沖縄戦での多くの民間人の犠牲、特攻隊として出撃していった若者たち、そして、広島・長崎での原爆投下を歴史の記録として知っています。
 
 日本では語り継がれている彼らの犠牲は、何だったのだろう?

 科学者たちは、日本の降伏はすでに時間の問題なのに、ここで、原爆を落として民間人も含む大勢の人を殺戮する意味があるのだろうか?とその使用を憂慮する提言を政府にしていたのです。

 その一方で、プロジェクトとしての「マンハッタン計画」には莫大な予算と人員が割かれており、なんらかの「結果」を出すことが求められてもいました。


 「原爆の威力を示すことによって、日本を早期に降伏させれば、(日本人も含めて)戦争の犠牲者の総数は減る、アメリカ軍もより早く、大勢が故郷に帰れる」
 それが、アメリカにとってだけ都合の良い大義名分だったのかは、僕にはなんとも言えないのです。
 もちろん、前線の兵士たちは、アメリカのため、自分が生き残るために、目の前の日本兵と必死に戦っていたはずです。
 圧倒的な戦力差があっても、戦えば、自分が死ぬ可能性は、常にあるのだから。
 実際に身内が戦場に行っていたら、核兵器でもなんでも使って、さっさとケリをつけてくれ、と思うよね、きっと。

 もっと戦争が長引いていたら、僕の祖先の誰かが命を落とし、僕はここにいなかったかもしれない。
 でも、「日本の降伏は時間の問題」となっていた戦況のなかで、あえて、多くの民間人が犠牲になる大量破壊兵器のデモンストレーションをやるのは「残酷すぎる人体実験」ではないのか。

 日本人は、敵ですらなく、原爆の効果を確かめ、世界にプレゼンするための「実験動物」でしかなかった。

 オッペンハイマー自身も「理論でこうなると予測できていても、その実際の効果をその目でみないと、人はその威力を実感することができない」と作中で述べています。
 「原爆の強大すぎる威力は、将来の世界での戦争の抑止力になるはず」とも。
 原爆の実際の効果をみて、「水爆はあまりにも強力すぎるから、不要だ」と考えていたようです。

 僕には「原爆なら良くて水爆がダメな理由」が、よくわかりませんでした。
 むしろ、「もう原爆はできちゃったから、しょうがないよね」みたいな開き直りにすら感じられたのです。

 当初は「ナチス・ドイツへのユダヤ人としての危機感」という切迫した動機があったのだとしても、その後は「あまりにも大きすぎる計画を実現する義務感と快楽、そして科学者としての好奇心」から逃れられず、大きな歯車のひとつとして自分の力を発揮しているうちに、とんでもないものをつくってしまったオッペンハイマー。でもそれは、彼が自分に言い聞かせてきた「楽観的な未来設計」には使われなかった。

 オッペンハイマーは極めて優秀な「原爆を完成させるプロジェクトマネージャー」であり、それが限界でもあった。
 逆に言えば、原爆の使い方に対して確固たる理想や思想はなかったけれども、それを完成させられる能力はあった。
 オッペンハイマーは偉大な物理学者ではあったけれど、僕はこの映画を観ていて、アドルフ・アイヒマンを思い出さずにはいられなかったのです。


 この映画のもう一つの主役は「原爆そのもの」です。映画館の大画面、大音響でみる、核実験の映像は、ものすごい迫力で、身体がビリビリと震えます。
 ものすごい恐怖感、でも、そこに、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』で、ゴジラが街を破壊しまくっていたシーンのような「恍惚感」が僕にはあったことを告白しておきます。

 原爆なんて、核兵器なんて大嫌いなはずなのに、圧倒的な力には、否定できない美を感じてしまう。
 もちろんそれは、自分がその被害を直接受けない、というのが前提なのだとしても。
 
 この映画を「映画館の大スクリーンで観るべき」という感想がけっこうあって、僕は「こんな地味そうな伝記映画、なのに?」と疑問だったんですよ。
 でも、実際に観て、これは確かに、大きなスクリーン、大音響、集中できる環境で鑑賞するべき作品だと思いました。
 
 日本人にとって、虚しさ、やるせなさを感じる映画だからこそ、映画館で観ておくことをおすすめします。
「あちら側からは、どう見えていたか」って、日本にいると、わからないから。


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