琥珀色の戯言

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【読書感想】語学の天才まで1億光年 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

語学は魔法の剣!
学んだ言語は25以上!の辺境ノンフィクション作家による、超ド級・語学青春記。
自身の「言語体験」に基づき、「言語」を深く楽しく考察。自動翻訳時代の語学の意味を問う。
さらにネイティヴに習う、テキストを自作するなどユニークな学習法も披露。語学上達のためのヒントが満載。
そしてコンゴの怪獣やアマゾンの幻覚剤探し、アヘン栽培体験などの仰天エピソードにおける語学についても語られる。『幻獣ムベンベを追え』から『アヘン王国潜入記』まで、高野作品の舞台裏も次々と登場。

インドで身ぐるみはがされたせいで、英語が上達、暗黒舞踏家のフランス人女性に生きたフランス語を学び、コンゴでリンガラ語を話してウケまくる。
コンゴでの「語学ビッグバン」体験により、語学の面白さに目覚め、以後、現地を訪れる際に必ずその言語を学ぶ言語オタクと化した著者。
辺境の言語で辞書もテキストもない場合は、ネイティヴを探して学び、文法の法則は自分で見つける。
現地で適当に振り回すと、開かずの扉が開くこともある語学は「魔法の剣」だという著者。地域や人々を深く知る上で、語学がいかに有効な手段であるかも綴られる。
著者自作の地図や図版を多数掲載。各国、民族の言語観や、言語同士の相関をわかりやすく解説。知的好奇心が満たされるとともに、破天荒で自由な著者の青春記を堪能できる一冊。
言語愛あふれるエピローグも感動的。


 「辺境ノンフィクション作家」高野秀行さん。
 コンゴまで幻の生物「ムベンベ」を探しに行った際のノンフィクション『幻獣ムベンベを追え』や、僕には「海賊の巣窟」というイメージしかなかったアフリカのソマリ共和国のノンフィクション『謎の独立国家ソマリランド』など、これまで、たくさんの「冒険譚」を書いておられます。
 僕自身は冒険旅行よりも、有名な建物や美術品、綺麗なトイレやエアコンを旅先には求めてしまうのですが、だからこそ「絶対に自分では行かないであろう土地の話」は、昔から大好きだったのです。


fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenadiary.com


 高野さんのノンフィクションは、辺境を「取材」するというよりは、その土地にひとりの生活者として馴染んでいく、そのプロセスを書いているものが多いのです。
 高野さんは、「俺は現地の人々をよく知っているんだ」と自慢げに語るわけではなく、「日本から来た客人」として一線を引くことも意識しているように思われます。現地の人たちと一緒に地元の麻薬をたしなんで(?)いたり、足りないものを日本から援助物資として持っていったりと、ひとことでは言い表せない距離感で接しているんですよね。

 学生時代から現在に至るまで25を超える言語(外国語)を習い、実際に現地で使ってきた。
 そう言うと「語学の天才なんですね!」などと感嘆されてしまうのだが、残念ながら現実はまるでちがう。
 私が使える言語の中で、最も得意なのは(日本語を除くと)圧倒的に英語であり、その英語ですらネイティブの言うことはさっぱりわからず、自分で発する言葉もグズグズのブロークンである。それがいちばんの得意言語だというのだから、あとは推して知るべしだろう。

 語学(言語)の何がいったいそんなに魅力なのか。語学が少しでもできるとどんなことがわかるのか。言語を短期間で覚えるにはどのような方法が有効なのか。今回は、それを読者のみなさんになんとかうまくお伝えしたい。問題は方法だ。語学(言語)は人に伝えるのが難しい。英語以外の語学をやったことがない人にいきなり今の私の考えや感覚を話しても、理解してもらえない可能性がある。
 これに関しては本当に悩んだが、最終的に、自分の体験を最初から語っていくしかないと思い至った。初めは英語すらまるで話せない、ごく普通の日本生まれ日本育ちの若者が劇的に変わっていく様子を追体験していただくのがベストな方法ではないかと。
 こうして書き始めたこの語学エッセイだが、期せずして次第に「青春記」の形を取り始めた。語学を通して、若い頃の私は実にさまざまなことに驚き、笑い、興奮した。ときには意気消沈したり自分に絶望したりした。そういった経験がそのまま私の血肉になっていったのである。バカな若者が賢い大人になったわけではなく、バカな若者がもっとバカになっただけかもしれないが、変化と成長はたしかに語学によってもたらされた部分が大きい。

 高野さんがすごい数の言語を駆使している、それも、英語とかフランス語、中国語ではなくて(もちろん、英語、フランス語もかなりできるみたいなのですが)、アフリカや東南アジアのかなりマイナーな言語もマスターしている、というのは、著書のなかで何度も目にしてきました。
 英語ですら、「受験英語+抄読会で課せられた論文を虚ろな目で訳すのが精いっぱい」だった僕にとっては、信じがたい「語学力」です。

 高野さんの語学学習法は「裏技」的なものではなくて、丁寧に現地の人が実際に使っている言葉を拾い上げ、記憶していき、それを使ってみる、という「王道」のように僕は感じました。
 ただ、ダイエットと同じで、「王道」をとことんやり続けるというのは、かなりハードルが高いものですし、「これは真似できないなあ」とも思ったのです。
 「食事制限と適度な運動」ができれば大概のダイエットは成功するはずなのに、みんなそれができないから「もっと簡単で極端な方法」を探してしまう。
 高野さんは「言語を習得するのは、世界各地の辺境で、自分がやりたいことを実現するためにどうしても必要な手段だった」と繰り返されています。
 どうしてもやりたいことがある、そういうモチベーションの高さこそが、高野さんを「語学の天才」にしたのです。
 「いつ行くかわからない、あるいは、1週間くらいの海外旅行のため、あるいは、偶然外国人に道を聞かれたときのため」に英会話教室に通っても、長続きしない人が多いのはわかります。僕もそうだったから。とくに今(2023年)は、観光での日常会話レベルなら、スマートフォンの翻訳アプリで十分事足りますし、というか、当たり前なのですが、僕よりずっとアプリのほうが賢くて、虚しくなるくらいです。

 ちなみに、高野さんも「翻訳アプリがある時代に、言語を学ぶということの意味」について、最後に触れておられます。
 いまの時代でも、「自分たちの言葉を使ってくれる人」には、人は心を開きやすい(ただし「共通語」である英語以外)。

 あと、僕自身、アメリカを旅行していたときに実感したのは、こちらの英語の巧拙よりも、相手がこちらの言葉に耳を傾けてくれる人かどうかのほうが「通じやすさ」への影響が大きい、ということでした。
 観光業などのサービスに従事している人たちは、それが仕事(商売)でもあり、聞こうとしてくれたけれど、外国人に慣れていない地域には、こちらが東洋人というだけで、「フン!」みたいな態度で、早口で何かまくし立てて去っていく人も少なからずいたのです。
 そして、「言葉が通じない」という状況は、想像していた以上に疲弊させました。人と会うのが怖くなったし、英語をろくに喋れない自分がイヤになりました。
 日本で生活していると意識しないことだけれど、「言葉が通じないストレス」というのは、本当に大きい。
 逆に言えば「言葉が通じることの安心感」も大きいのでしょう。

コンゴで)リンガラ語に出会うことによって、私の言語学習法は変わってきた。
 英語やフランス語を学ぶときはいつも「正しさ」を気にしていた。正しい文法や正しい発音、正しい綴りなどが中心軸にあった。インドの旅において、実践的な会話では正しさは気にしなくていい、通じればいいとわかったはずなのだが、それでも勉強するときは正しさを追求してしまうのは日本の語学教育が体に染みついているからだ。
 ところが、「ウケるかどうか」に集中すると「正しさ」はわりとどうでもよくなる。問題は「いかに現地の人っぽく話すか」ということに尽きるからだ。
 例えば、「とてもおいしい」は「キトコ・ミンギ」である。これは100%正しい。教科書的である。でも「キットコ・キトコ!」と言えば「すんごいおいしい!」という感じになり、リンガラっぽい雰囲気が出て、現地の人にウケる。
 では、どうすれば現地の人っぽぃ話すことができるのか。それは現地の人の真似をするしかない。それも漠然とではなく、ホテルやバーや市場などで実際に会った人たち一人ひとりが、どういうときにどういうことをどんな調子で言うのかをよく観察する。そして、それをその人そっくりに、しかももっと大げさに喋るようにすることだった。つまり「物真似」である。これがいちばん「ウケる」という結論に達したのだ。
 TPOも大事である。バーの怪しげなお兄ちゃんの喋る言葉を昼間、家や店で真面目に働く年配の女性に使うのは要注意だ。
 言語は正しい一つの構築物ではなく、大勢の個人が話す言葉(表情や仕草も含めて)の集成である──なんてことまで当時は考えていなかったが、ひたすらウケを狙っていたら、だんだんそういう方向になっていったのだ。

 余談だが、語学に予習はあまり必要ないと私は思っている。もし必要があるとすれば、それは日本式の「先生が原文を読んで生徒に当てて日本語に訳させる」という購読授業が存在するからだ。そうでないかぎり断然予習より復習である。毎回新鮮な驚きと興味をもって新しいことを習い、あとはいかにそれを心身に定着させるかが勝負だ。「心身」とわざわざ言うのは、言語は脳だけでなく目、耳、口、手を駆使する身体的な技術体系だからだ。スポーツや料理、楽器の演奏などに近いものである。
 さて、この学校に通ううちに、私は世間での語学の学校や個人レッスンについての常識は間違っているんじゃないかと思うようになった。一般には「近い場所」「安い授業料」「フレキシブルな授業時間」がよいとされているようだが、逆ではないか。「近くない場所」「安くない授業料」「固定されて融通がきかない授業時間」こそがよいのではないか。

 高野さんがこういう考えに至った理由に興味がある方は、ぜひ、この本を手に取ってみてください。

 語学を学ぶには「ちゃんと相手を見る、相手の言葉を聞く」のが基本なのです。僕は「人と接することなく、参考書や動画で学ぶ」ことばかり考えていました。

 「語学の学習法」を試行錯誤している人にとっては、これまでの先入観を変えるきっかけになりそうですし、僕のように「語学はもうそれほど興味ない人間でも、「辺境ノンフィクション作家・高野秀行」ができるまでの青春記として楽しく読めました。

 そんな僕もこの本を読みながら、「語学って面白そうだなあ、もう1回、ちゃんと勉強してみようかな」という気分にもなったんですよね。


fujipon.hatenablog.com

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